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お殿様の偽装
22)おおむら浪漫2
大村の歴史を考えるシリーズ
お殿様の偽装
誤解を招くような表現その1、大村中心地

誤解を招くような表現その1、大村中心地
大村の主な古墳地図(郡川流域に注目を)
なぜ北部の郡地区に多くて、大村中心地に少ないのか?
古代の道と駅「延喜式」からの想定図
彼杵郡家(役所)と新分駅の位置に注目
 (このページから、大村の歴史について『誤解を招くような表現、その1、その2、その3』を開始します。初回の『誤解を招くような表現、その1』は、「旧・大村町を中心に栄えたと言う歴史は、果たして正しいのか?」と言うテーマです。

 念のため、今まで述べてきたような”歴史の偽装”では決してありません。このようなページを書くには、ある方々とのきっかけがあります。少し前置きが長くなりますが、ご了承願います。

極端な情報偏重は何をもたらすのか
 まず一つ目、私が高校を卒業し、その後大阪で25年間働いていましたが、同僚たちとの雑談の中で、たまに長崎の話題もありました。その時、同僚が言うには「長崎県の歴史は、長崎港が開港してから栄えた歴史があるんやろ。たった、500年間くらいか、関西に比べたら長くないんやなあ。新しい県やなあ」と。

 私、「そりゃ違うでえ。正確に言うたら、長崎は400年くらいばってんが、大村など2000年くらいの歴史があっとバイ。壱岐・対馬などは中国の魏志倭人伝にも書いてあるくらい長い歴史があっとよ」と返事していました。

 二つ目の話し、2005年から私は長崎県内のテレビ、ラジオや雑誌社の方と取材の関係上、色々話す機会がありました。休憩の時、私は「大村のイメージや歴史について、どんな感じで思っておられますか?」と何人かに、お聞きしました。

 その時、ほぼ共通して少し迷われたような、困ったような表情で「大村って、大村純忠の頃からでしょう。城下町からですよね」と返事を受けました。「それは外れですよ」と言いつつ、いつも残念な思いが残りました。

 一つ目と二つ目の共通点は、話された方がどうの、こうのと言う問題ではなく、極端な情報不足から来るものだと思います。その原因の多くは、学校での教育ではなく、多くが旅行ガイドブック、旅先での観光案内チラシ、さらにはテレビや新聞などの影響と思われます。

 例えば、私が大阪時代たまに見ていた長崎県の旅行用ガイドブックは、仮に全体100ページ位としても、長崎・雲仙・島原・佐世保が大半で、大村は東彼杵と一緒のページで多くても1ページか、1段の囲み記事みたいな紹介もありました。また、人口が大村より少ない当時の福江市や五島より扱いは小さかったと思います。(念のため、最近は少しは改善されたようですが)

 つまり、長崎県を紹介するなら長崎市中心、大村市を紹介するなら旧・大村町(大村公園・市役所周辺、大村駅から空港通り周辺)で、歴史に関しては大村純忠しか紹介されていないからだと思います。

 私も限られた誌面や報道時間のことは、充分に分かりますが、それにしても極端過ぎるような扱いです。それが毎号毎回続くのですから、他を見る機会はないと思います。

 特に、大村市内で発行される大村紹介のチラシ・冊子類は判子で押したように「板式櫓のある大村城跡」を背景にした桜か花菖蒲の写真ばかりです。

 あと歴史関係の展示会と言えば、旧・大村町関係は開催されても、周辺部の遺跡、史跡、研究結果などは、発掘調査直後を除けば展示されることもありません。

 以上のような極端とも思える情報偏重は、観光にも影響して長崎県に来られたなら長崎市だけ、大村市なら旧・大村町関係のみとなり、結局はそれが駆け足観光、日帰り観光に繋がり、最終的には「あそこの県や市は一度見たから、もういいやー」になっていると思います。

 私は、このような偏重の情報は、結局はその地域でさえも、観光客の方に段々と来てもらえない現象(減少傾向にも)になっているような気がします。一部の市街地だけでなく、広くトータルで魅力を追求すれば必ずお互いの相乗効果が出てくるのではないでしょうか。それが、いずれ滞在型、健康思考型、歴史や趣味などの目的追求型、長期型の観光に繋がっていくような思いがします。

 そのためにも歴史についても、事実に即して表し、その事実関係を情報として観光客の方に伝える必要があるのではと思います。その基本的なことをしないかぎり、大村の観光や歴史を取り上げて下さる、例えばガイドブックを作る雑誌社とかマスコミが独自に掘り下げて一般に伝えられるのは、ほとんどないに等しいと想像されます。

大村は旧・大村町周辺で栄えたのは約450年間しかない
 歴史専門の本には、野岳湖の石器時代の遺跡から郡地区(松原、福重、竹松)に多く存在している遺跡や古墳、さらに時代は下って郡七山十坊の言葉に代表されるように沢山の仏教寺院郡があったことは、それなりに書いてあります。しかし、現在一般の方が目にする印刷物関係は、決まって旧・大村町関係(大村公園など)を中心に作成されています。

和妙抄に書かれた”大村郷”は郡村で
旧・大村町関係を指していない
  (またこのことは、先のページでも掲載しました通り、大村の公的機関がいまだに2005年のパブリックコメント歴史案内人養成講座資料(年表)などに公然と使っている”偽装極めつけ”の「大村千年の歴史」なども、全く同じ立場で表現されています)

 果たして、このような大村の歴史の紹介は、いいのでしょうか。旧・大村町関係は一番早い年月でも 大村純忠が三城城の築城=1564年頃からです。玖島城(大村城=現在の大村公園)はさらに下って1599年です。つまり、長く計算しても約450年間しかないのです。それに比べ野岳湖の石器時代までさかのぼらなくても郡地区(松原、福重、竹松)は約2千年ですから、約4分の1しかならないのです。

奈良・平安時代から約1500年間の中心地は郡地区だった
 (このページ右上の2番目の地図をご参照下さい)奈良・平安時代の肥前国(首府は佐賀大和)の長崎県央の役所=彼杵郡家(そのぎぐうけ)は、郡地区(大村市寿古町の好武城周辺とも言われている)でした。その後、郡地区を中心に大村は栄え、このことは戦国時代までずっと続いてきました。

 上記の地図(延喜式で905年に編纂開始した古代の法律)は古代の道と駅ですが、そのことを明確に示しています。ちなみに官道沿いに馬など置いていた駅=新分駅(にきた、にいきた)は地図的にも地名(馬込など)的にも、現在の大村市草場町にあったのではないかと言われています。次に、右上の『和妙抄』(写真は、おむらの史記、大村史談会青年部発行)で、これは平安時代の承平年間(931〜938年)に出来たといわれています。

 この『和妙抄』に大村は『彼杵郡 大村』として登場します。太田亮氏の『姓氏家系大辞典』によれば、この”大村郷”のことについて「彼杵大村郷は後の郡村の地にして、今の大村北方に当たる」(1316ページ上段)と書かれています。つまり、役所の彼杵郡家も、駅の新分駅も、地名の大村郷も、総て郡村=現在の郡地区(松原、福重、竹松)を指しているのです。

約1500年間大村の中心地だった郡地区、左の山は郡岳(826m)
手前は郡川(川の左側は大村市寿古町、右側は沖田町)
 なぜ、このように郡地区が中心=役所まで置かれたのかの最大の理由は、弥生時代の頃より郡地区が一大穀倉地帯だったからです。旧・大村町関係は三城城近くに規模の小さい水田条里制の田んぼがあったと言われていますから、新田開発により後で少しはできましたが、水田に不向きな所(大村扇状地は最初は荒地)が多かったと思われます。

 そのため、上記の古墳分布地図でも分かる通り、旧・大村町関係地域には玖島崎古墳を除き、その当時の古墳はほとんどありません。つまり、主食が米でその後経済の中心も米で推移しますから、穀倉地帯に不向きだった旧・大村町関係地域は当初あまり人も住んでいなかったと思われます。

 奈良、平安時代だけでなく、郡地区は鎌倉、室町時代も、特に、戦国時代に(「大村純伊」と同一人物と言われている)大村純治が、佐賀・藤津郡から1507年頃に好武城(大村市寿古町)にさらにその後今富城(大村市皆同町)を築城し、政治の中心になっていたことは先の佐賀藤津郡出身大村純治その1大村純治の2のページで、ご紹介した通りです。

 以上のようなことから、「旧・大村町からずっと栄えてきた歴史の書き方」は誤解を招くと思われます。私は、米の生産に限って見るなら、現在でも旧・大村町関係よりも、むしろ周辺の(大村市政合併前の)松原村・福重村・竹松村・萱瀬村・鈴田村・三浦村の方が向いている=人が当初から住んでいたのではと思うほどです。

 このような周辺部は大昔は穀倉地帯だから人も多く住んでいたと思われますが、現在は豊かな自然 グリーンツーリズム、健康型、家族型、花と緑と食などの観光に向いている地域です。つまり、上物、箱物などの施設がなくても大昔から人が住んでいて歴史のある所は、それだけでも魅力があり、観光にも向いていると思います。

 あと、今回のテーマとは違いますから詳細なことが書けないのですが、この「
旧・大村町関係を中心に歴史を描く手法」は長い歴史のことだけでなく、近代史・現代史まで何か記述する時にはその傾向が見られます。つまり、大村市政合併後の歴史でも記述内容は、周辺部のことに注視して書かれていないと言うことです。

 今回のテーマ
誤解を招くような表現、その1』を極簡単にまとめますと下表の通りになると思います。
No.
誤解を招くような表現 本当は
1
大村は最初から旧・大村町関係を中心に発展・栄えたような表現 大村純忠が1564(永禄7)年、今富城から三城城に政治の中心を移すまで政治・経済(米)の中心は、約1500年間ずっと古代から郡地区(松原、福重、竹松)であった。そのため遺跡・古墳、寺院郡も多かった。三城城に移してからも米の生産は変わらずに郡地区が多かった。

高速道路脇に放置状態の
上八龍の線刻石仏(大村市弥勒寺町)
鎌倉時代作の不動明王(大村市弥勒寺町)
石塔の専門書に「名碑、長崎県で双璧」と紹介
次々と消滅していった郡地区の古墳や放置されている石仏郡など
 今回のテーマから少し外れますが、旧・大村町関係を中心に歴史を描く手法」は、実は大村の文化財の保存まで影響しているような気がします。

 まず、右写真二つをご覧下さい。史跡指定はおろか専門的な本を除き大村内で発行されている歴史の本には紹介さえしてありません。また、上記の古墳地図でもお分かりの通り、郡地区には多くの遺跡や古墳が出土しています。

 また、福重には、「これほど多くの線刻石仏が集中した所は全国的にも珍しい」といわれるほど数多くの線刻石仏が、大村市弥勒寺町を中心に分布しています。まさしく『仏の里』です。

 遺跡や古墳は、現在も出てくる可能性があると見られています。しかし、残念ながら高速道路や造成工事などで、次々と消滅しています。工事の都合上、完全保存はできなくても、せめて直ぐ近くに移動(移築)はできなかったのか残念に思う所もいくつもあります。

 しかし、決まって論議されるのが「文化財の指定ではないから」の一言です。しかし、このことだけを論じるなら(前述のページに詳細に書きました通り)「偽装の大村の歴史」に登場してくる大村市指定史跡は堂々と案内板設置から保存状態まで完備されているのです。

 また、史跡指定ではありませんが、(史料に記述されているものの)民間レベルで建てた記念碑があるだけで、大村市の文化財と言う本に紹介されている例もいくつも見られます。

 しかし、遅くても鎌倉・室町時代から現存していると言われている郡地区にある石仏郡などは極一部を除き何の指定もないのです。(高速道路脇に放置されている線刻石仏一体については、以前ある新聞社から記事で指摘もされていました)

 このように「偽装の大村の歴史」に登場する「史跡」は指定を受け、偽装でない歴史ある本物の石仏郡は指定を受けないばかりか、大村の歴史専門の本にも極一部を除き紹介もされないと言うことに、何か疑問を感じざるを得ません。それは、結局は周辺部を無視しているからではないかと指摘されてもおかしくないと思われます。

眠っている本物の歴史と文化財に光を当てる必要はないのか
 また、このような扱いは、大村市周辺部に眠っている本物の歴史や文化財に光を当てない、非常にもったいない話でもあります。現代の観光客動向は”本物思考”とも言われています。近年になって建てられた上物・箱物には一時の人気はあっても数年後もしない内に下火になっている現状です。

 観光客の方は、”造られた建物”を見るより、立派でなくとも歴史ある、嘘偽りのない本物の史跡や豊かな自然を求めておられると言うことではないでしょうか。このような観点に立てば、もう旧・大村町を中心に歴史を描く手法」、「極端な情報偏重」は改善して、大村市の周辺部と併せた形での歴史の描き方が、引いては大村市や観光の魅力、再発見につながるのではと思います。

 (掲載日:2006年5月7日)
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