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お殿様の偽装
22)おおむら浪漫2
大村の歴史を考えるシリーズ
お殿様の偽装
追加文その3、大村市の観光サイト(2)

追加文その3、大村市の観光サイト(2)
大村寿司の起源がいつのまにか変わっている
砂糖の使用は江戸時代からであるが、大村寿司は500年以上前からではないか

大村寿司
 まず概要程度に大村寿司について書いておきます。この大村寿司(大村寿し)は、地元では別名=角寿司(角ずし)とも呼ばれています。この寿司は郷土料理として地元の方がそれこそ長年大事にしてこられ冠婚葬祭にはもちろん日常でも食べておられます。

 また、作り方の基本は同じでも各家庭で工夫され、それぞれ特色があります。あと大村市内には、この寿司を製造販売しておられる会社、食堂など多数あり、長崎空港での販売を始め大村を代表するお土産にもなっていて全国的にも有名な寿司です。

 この大村寿しの起源は、一部偽装の記述ながら(大村市ホームページより)「大村氏の領地回復の祝膳が起源とされる縁起の良いお寿司です。」と、江戸時代大村藩が書いた記録から、従来ずっと言われてきました。

 これから少しややこしいのですが、「大村氏の領地回復」とは偽装の記述ながら、この年月は大村純治と同一人物と言われている「大村純伊」が文明6年(1474年)「領地回復」したことを述べたものです。この「大村純伊」の「領地回復」説自体は、既に先のページ<大村純治と「大村純伊」は同一人物では、その2>にも詳細に書いた通り、江戸時代大村藩作成の偽装の歴史です。

 これに関連して書かれている大村寿司の起源も、お殿様の箔付けのために文明6年(1474年)よりも、ずっと以前からあったものをあたかも「領地回復の時」に出来たかのごとく描いている偽装そのものです。ただし、これは逆の面からすれば、当時の大村藩がお殿様の箔付けのため書いた偽装とは言え、大村寿司がこの年代(戦国時代)以前から確実に存在していたことを物語っています。この点は、非常に大事と私は思います。この寿司の存在そのものがなければ、物語は書けないと思うからです。

大村市観光コンベンション
協会のサイトより
起源そのものは江戸時代からではない
 今回のテーマ「大村寿司の起源がいつのまにか変わっている」について、私は総て間違いと言っている訳ではありません。今回の(社)大村市観光コンベンション協会のサイト=「長崎県大村市の観光ガイド よって行かんね おおむら」に書かれている大村寿司の書き方は(砂糖の記述など正しい面もありますが)当然誤解や長年書かれてきた今までの記述からして首をひねるような書き方なのです。そのことを念頭に入れて、さらにこのページをご覧下さらないでしょうか。

 まず、このサイトの『特産品・土産』のページに『大村寿司』の紹介(右側の写真、赤いアンダーラインは筆者が注釈のため書きました)があります。ここには「江戸時代から今に伝わる大村寿し。」と書かれています。たとえ、このページ構成上、紹介文字数が大変限られた状況は理解しつつも、こんな大村寿司の紹介の仕方があるのかと、私は大きい疑問を持ち訂正が必要と思いました。

 結論から先に書きますと「”砂糖を使って作った”大村寿司は江戸時代から」と思われます。この件については砂糖そのものが薩摩藩(鹿児島)や沖縄で製法されて移入されていた歴史からして、ほぼ正確と言えます。だからと言って大村寿司の起源そのものついて「江戸時代から・・・」との表現は、間違いと言わざるを得ません。その理由は、このページ冒頭に述べた通りです。

 あと、もう一つ、大村寿司は「押し寿司」と記述(右側上の写真を参照)されていますが、この表現は間違いではありません。大村寿司は間違いなく押し寿司でもあるのですが、寿司の分類では箱寿司と混ぜ寿司の中間型と言う説もあります。それは、もろぶたと言う箱で作るからです。

すしの主役は庶民
 あと、もう少しこの大村寿司の起源について、先に概要<「大村純伊」が文明6年(1474年)「領地回復」した時に出来た説が大村藩の偽装記述ながら、大村寿司はこの年代(戦国時代)以前に存在していたと言うことは非常に大事だ>と述べました。それじゃあ、いつが本当の大村寿司の起源かと言う問題が当然でてきます。

 この点について、現在も私は調べている最中で、いずれ今回のページとは別に(仮称)『大村寿司の起源』みたいなページを作成しようと、準備中です。あと、これからの記述は、日比野光敏氏の著書『すしの歴史を訪ねる』(岩波新書)、『すしの貌』(大巧社)、『すしの事典』(東京堂出版)を参考に書いています。

 このページには『大村寿司の起源』の詳細は書きませんが、上記の日比野光敏氏の著書には、古代より全国各地で色々な種類の「すし」が作られ、その後様々な変化や発展してきた歴史が詳しく記述されています。

須古寿司(佐賀県白石町須古地区)
 その本によると延喜年間(901〜923)に『延喜式』と言う(注:この年代に法律の細則みたいなものが編纂された)言葉が書かれてありました。また、その延喜式には私が興味引く内容として、肥前の鮨鰻が取り上げられています。

 この肥前の鮨鰻と大村寿司とは関係ないかもしれません。ただ、大事なのは、この当時から、肥前国にも「すし」そのものがあったという点です。この肥前国の首府(首都)は佐賀大和です。

 あと肥前国の(長崎県央の)役所=彼杵郡家(そのぎぐうけ)は、郡地区(大村市寿古町の好武城周辺)と言われています。つまり同じ肥前国内ですから、役人や人の往来がある以上、当然情報交換が進み食べ物(すしなど)の分野でも交流があったと推測がされます。

 起源に差はありますが、佐賀県白石町須古地区(旧・須古村)の須古寿司と大村寿司は、その作り方から出来上がりまで、一部を除き良く似ています。私も右写真を写した後に食べてみました。似ているのは、同じ肥前の地域からだけでしょうか。

 また、日比野光敏氏の本によると寿司そのものは、庶民が変革してしていったと言うことです。つまり、全国どこの寿司も形、内容(具)、作り方などは違っていても、庶民大衆がそこの環境や材料に合わせて作り変えてきた歴史があります。さらに、特定の人物(「大村純伊」説など)を引き合いに出した寿司の起源説は全国にもいくつもあるようですが、それは寿司の成り立ちからして、あり得ないと書かれています。

 まとめますと、長いすしの歴史のほんの一部ですが、これらの本から下記のことが分かりました。
・すしは庶民大衆が変革していったので、すしの主役は庶民である。
・すしは保存食ばかりでなく、すし本来の味(酸っぱさなど)を味わっていた。
・全国各地のすしは作り方も年代も様々だが、既に奈良時代にあって、平安時代の延喜式には文章も書かれていた。
・特定の人物(例えば「大村純伊」など)と関係したすしの起源は疑わしく、あり得ない。
・砂糖などを使ったすしは、江戸時代に薩摩藩などで砂糖が製法されるようになってからである。

 さらにこれらを参考に大村寿司を考えると、起源は一番古い年代で考えるなら平安時代の頃からか、最低でも500年以上前に(当時は砂糖を使っていない)大村寿司が存在し、江戸時代頃から砂糖を使って工夫・発展を遂げ、現在に至っているのではないかと思われます。ですから、大村寿司は当初の作り方から、江戸時代頃より相当変化したものと思われます。

勝手に変えるのではなく、正々堂々と議論して変えて欲しい
 私は先の<正々堂々と正して欲しい>ページに次の通り書きました。<>内です。<これだけ結果として偽装の大村の歴史が”定着”している現状において、どこかの行政府や自治体がやっておられるような、コソコソ、ひっそり秘密裏に改訂するのではなく、正々堂々と大々的に変えて欲しいと思います。例えば、マスコミ発表、広報誌、パンフレット、書籍類やホームページに詳細掲載する方法など、とにかく構えを大きくして、特別にページ数をさいて大きく発表して欲しいと思います。>

 偽装の歴史を正しく変えるなら、上記の記述でもいいですが、あとプラスして、やはり市民や多くの方の意見を大村市は聞いて欲しいと思います。なぜなら、これだけ市民に定着しているのに果たして、その大村寿司の起源のことについて意見を求めたのでしょうか。また、大村寿司を製造販売している業者の方は、高い予算を使って例えば長崎空港の売店でカラー版の大村寿司のチラシを宣伝(注:寿司だけではなく大村の宣伝にもなっています)のため置いておられるのです。

 この宣伝チラシなどは、大村市の従来説(偽装の「大村純伊」との関係の起源)=戦国時代に出来たとの説を継承しておられるのですが、それが今回の大村市観光コンベンション協会のサイトでは、先ほど紹介した通り、「江戸時代から」説を展開されていますので、観光客で大村に来て大村寿司の起源などに興味も持たれた方は、どちらがどうなんだと思われるのではないでしょうか。

 私の意見として、上記のどちらの説も記述するにしては正確性を欠いています。やはり、より正しい記述をするために広く意見を聞いて構えを大きくして<正々堂々と正して欲しい>と思います。そうならないと、ますます矛盾は広がっていくでしょう。このことがさらに広がっている実例を挙げながら次の機会に書きたいと思います。

(掲載日:2006年8月26日) 
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