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お殿様の偽装
22)おおむら浪漫2
大村の歴史を考えるシリーズ
お殿様の偽装
大村氏は佐賀の藤津郡出身

大村氏は佐賀県藤津郡出身
佐賀県鹿島市古枝(大村方)周辺地図
大村氏は佐賀の藤津郡あたりから進出してきた
 前のページで先生方の共通して述べておられる大村氏系図の偽装とともに「四国から大村に来た」説が間違いであるとことを掲載しました。それじゃあ、別のどこから来たのかが、今回の主なテーマです。

 結論から先に書きますと、大村氏は佐賀の藤津郡出身と言われています。その後現在の鹿島市、藤津郡あたりから長崎の彼杵・大村にまたがる勢力で、しかも一つの家系だけでなく、いくつも大村氏の支族がこのあたりを行ったり来たりしていたであろうと言うことです。

 右の地図をご覧下さい。有名な祐徳院神社近くでJR肥前浜駅との間当たりに大村方(おおむらがた)と言う地名があります。この地のここだけと言う限定ではありませんが、大村氏と関係ある地名と言われています。

 そのことは、外山幹夫氏の『中世九州社会史の研究』32ページに(注)の(6)「大村方」の地名について、『鹿島市史』上巻(409ページ)は、「大村館」の転訛(注:1)であろうとして、この地に大村氏の歴代館があったと推定している。興味ある見解といえようと。と書いておられます。(注:1=本来の言葉がなまって転化したもの

 また、先に紹介しました『姓氏家系大辞典』を書かれた大田亮氏によれば全国には信濃(長野県)、河内(大阪府)、陸奥(青森県)など、けっこう色々な所に大村氏の名前があるとのことです。

 その系図をたどっていけば、いずれもが佐賀の藤津郡の大村直(おおむらあたえ)の後裔と言われています。つまり、全国数々大村氏はいらっしゃいますが、総て佐賀の藤津郡出身で、そこから色々な所に進出して行ったということです。

 後で大村藩主になった大村氏も、まず系図上から当然全国の大村氏と同じように佐賀の藤津郡出身だと言うことです。また、後で触れますが佐賀の藤津郡や彼杵・大村にいくつか存在していた別の支族の大村氏も出身は同様だったと言うことです。

佐賀側から進出した大村純治 最初の居城と
言われている好武城跡(大村市寿古町)
佐賀側で幾多の敗戦、徘徊していた大村純治が本拠地を大村に移した
 『歴代鎮西志には、「永正四年二月(1507年)(中略) 大村純治もまた郡城に入る」と書かれています。(この項、外山幹夫氏の『中世九州社会史の研究』参照) この「郡城」は、好武城のことと言われています。(なお、好武城についての詳細は、ここからご覧下さい

 大村純治(「大村純伊」と同一人物といわれている)の本拠地は、佐賀の藤津郡でしたが、有馬氏などから本領を追われ、その後何回も本拠地奪回を目指したのですが、佐賀側で幾多の敗戦を重ね逃げて徘徊していました。

 
一回は藤津郡の本領を回復したのですが、ついに佐賀側の本拠地にいることができなくなり、彼杵側の好武城(現在の大村市寿古町)を中心とする当時大村の中心地で穀倉地帯だった郡地区(松原、福重、竹松)に本拠地を移したことを、この歴代鎮西志は物語っています。

 また、この
歴代鎮西志』は永正5年5月(1508年)足利将軍との関係で京都に上洛した時、「彼杵の大村日向守純治」もまた同じく上洛したとの記述が書かれてあります。すでに、この頃から、大村純治は「藤津の大村」でなく、「彼杵の大村」と書かれているのです。

 ただし、今まで参考文献に上げてきた書籍から、この大村純治が佐賀から本拠地を大村に移すまで、それまで彼杵や大村に別の家系の大村氏がいたことを否定している訳ではありません。佐賀の藤津郡や彼杵(大村)を行ったり来たりしていた大村純治が1507年頃に彼杵や大村地方にいた別の大村氏などの豪族にとってかわって大村を支配したと思われます。

大村氏系図
 つまり、偽装の大村氏系図で言う「千年前に四国から来た大村氏が大村に来て、その後大村を江戸時代終わりまで、ずっと支配・領有していた」と言う説ではないと言うことです。また、大村純治が佐賀から大村に本拠地を移した結果、それまでいた別の支族の大村氏は大村純治の家来にさせられたのか、追放にあったのか、はたまた滅ぼさせられたのか、今までの参考文献には書いてないようです。

 しかし、どちらにしても、これら別の支族の大村氏も含めて、佐賀の藤津郡出身で変わりなく、多良山系を挟んで行ったり来たりしながらしていたとも思えます。

大村純治をなぜ詳細に書かないのか?
 あと、この大村純治については、上記の出来事から分かる通り大村の歴史の中で、ある意味大きなターニングポイントになるような時期です。しかも大村純治についての史料(資料)は、けっこう多く残っています。

 ここからは私個人の考えです。この人物について、上記に「本領の佐賀側で幾多の敗戦を重ね徘徊し、その後本拠地を大村に移した」と事実に基づき書いてはいますが、あまりいいイメージに浮かばない方もおられるかと思います。

 しかし、この大村純治は負けてもまけても徘徊しながらも、それでも戦国武将らしく本領回復のため、それこそ血のにじむような努力をしていることを少なくない史料(資料)に書かれています。しかし、結果はその努力の甲斐なく、本拠地を彼杵・大村に移したのですが、それがもとで、この家系が大村において江戸時代大村藩の藩主として、ずっと続く画期になったのですから、もっと取り上げてもいい人物だと私は考えています。

 上記の通り、この大村純治については史料(資料)もけっこうあるのですから、書こうと思えば最低でも数ペーくらいは記述できる人物です。しかし、大村の公的機関で出されている本などには、名前くらいはあるものの詳細な紹介は見当たりません。

 しかも、今でも大村の公的機関は別の人物のように表現している「大村純伊」と大村純治は、参考文献を書いておられる先生方によれば、その多くがどちらも同一人物と述べられているのです。(この件は、後のページで詳細に掲載する予定です)

 私の勝手な考えながら、大村純治を詳細に書くことは、今までの大村の偽装の歴史=「千年前に四国から来た、そしてずっと変わらずに大村を支配していた」説を残したい方にとって触れて欲しくないような、そんな想像さえしてきます。

 このページ、以上のことから大村氏は「四国から来た」のではなく、佐賀から来たのは決定的と言えます。しかし、大村の公的機関はいまだに先に掲載した例=2005年のパブリックコメント歴史案内人養成講座資料(年表)などに使っているのです。また、この「四国から来た」説を堂々かかげた(大村市指定史跡含めて)市内各所にある案内板などは、全くそのまま現存しています。


 念のため、一部歴史専門に書かれた本(例えば2003年発行の『大村の歴史』など)には、佐賀の藤津郡出身の記述は散見できますが、多くの市民や観光客の方が目に触れる案内板、ガイドブック、案内チラシやホームページなどには、上記のことはいっさい訂正もなく、相変わらず「四国から来た」説で案内されている状況であることを補足して、次のページに移りたいと思います。

 (掲載日:2006年4月26日)
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