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大村の話題
盗人島の飛び石(ぬすっとじまのとびいし)
主 な 内 容
掲載状況
 はじめに
掲載中

1)主な調査内容など

掲載中
2)大村郷村記の関係記述と大村藩領絵図
掲載中
3)寄せられた情報3説の内容、分析と結果
掲載中
 あとがき
掲載中

はじめに
(注:このページは普通は、大村の歴史的なことを書くのですが、今回は見出し(タイトル)含めて「大村の話題」としています。その理由は、「盗人島の飛び石」に何か歴史的な、特別な理由がないと思われるからです。2010年現在、話題性はありますので、今回掲載しています。その掲載理由も後で書いていますので、ご参照願います)

 まず、盗人島の飛び石(ぬすっとじまのとびいし)の場所は
、住所は長崎県大村市玖島1丁目となりますが、大村公園・玖島崎の先、大村競艇場・南東側方向の大村湾岸にあります。島の名称ですが、この名前自体は、江戸時代に編纂された(大村)郷村記に記述され、現在でも同じです。ただし、地元(旧・大村町)の方などは、通称で「どろぼう島」とも呼ばれています。このページでは、全て「盗人島(ぬすっとじま)」もしくは「盗人島の飛び石(ぬすっとじまのとびいし)」の名称で書いています。

 この盗人島の飛び石をいっぺんに有名にしたのが、西日本新聞2010年5月13日と5月19日の写真付きでの報道です。私も最初の新聞発行後、直ぐに寿古町の増元さんと一緒に現地へ調査に行きました。そして、巻尺で長さなどを測り、盗人島や飛び石の概要を書きとめ福重郷土史同好会・第32回例会に報告書も提出しました。

 そのような経過からして、あらかじめ書いておきますが、このページの作成に当たって引用、参照していますのは、上記2日分の西日本新聞、江戸時代に描かれた大村藩領絵図と(大村)郷村記などからです。あと、これら以外にも口頭や電子メールでの情報も私の方にも寄せられていますので、そのようなことも含めて今回書いています。

書くきっかけは、問い合わせが多いのも、その理由
 率直に申し上げますと、確かに
(大村)郷村記に、この盗人島の記述(後の項目で掲載予定)されていますが、ここの飛び石については書いてありません。そのため、「大村の歴史上・・・」とか「史跡上・・・」とかの表現で記述できないものです。私は、このようなことから、既に写真や報告書があったにも関わらず、この「大村の歴史」シリーズに載せるかどうか、迷ってもいました。

 これに比べ、同じ飛び石でも『郡川の飛び石』の方は、長崎街道の一部で、しかも江戸時代以前(推測ながら「大村の古代の道と駅」時代から)存在していたと思われるものです。しかも、シーボルトも絵に描かせたくらいに趣(おもむき)がある所です。さらに現在では近くに大村教育委員会の案内板まで設置されてもいます。このようことから以前なら、大村の郷土史関係で「飛び石」の話題と言えば、必ず『郡川の飛び石』の方でした。ですから、この種の話が出たら「郡川の飛び石は、大きさや数について古記録に出ていて「1個の長さ2m10cm、幅84cmで、合計46個ありました」と答えやすかったです。また、「詳細は、リンク先からご覧下さい」みたいに言えば済むことでした。

 しかし、最近、報道関係や一般の方よりの上野への問い合わせや取材依頼その他があるのは、盗人島の飛び石の方です。『郡川の飛び石』の地元・福重に住む者として、ちょっぴり残念な状況と思いつつも、どこか一か所に盗人島の飛び石関係情報をまとめておくのも便利かなあと思って、このページ掲載を思いつきました。ただし、調査はしたものの、郡川の飛び石のように記録がないため正確さがなく相当部分において、伝聞や推測が多いことは、あらかじめご了承願います。

 また、2010年10月現在、私の方に寄せられている情報をできるだけ掲載しようと思っていますが、これだけではないこと、あるいは飛び石関係の情報であっても様々な理由から編集上、割愛している内容もあることも事前にご了承願います。

(初回掲載日:2010年10月14日

1)主な調査内容など
 2010年5月17日朝、干潮時に増元さんと2名で現地調査に行きました。そして、盗人島や飛び石の概要を書きとめ福重郷土史同好会・第32回例会に報告書も提出しました。ただし、念のために、この例会時も、その後も「盗人島の飛び石」が、何か歴史的なものとか、史跡とは思わず、あくまでも”時の話題”として取り上げていきました。

・距離

玖島崎と盗人島までの直線距離は約24m。
・飛び石の数 28個=ほぼ一直線に並んでいる。陸地側に近い1個のみ40cm程ずれている。
・飛び石の大きさ 大小様々な石があった。そのため、陸地近くの1個のみを調べた。その1個の大きさは、横幅約1m、奥行き約50cm、高さ約50〜90cm位だった。
・飛び石の高さ状況 調査時に海は満ちた状態だったが、全部の石が海面より充分高い位置にあった。
・史料関係 これまで盗人島の飛び石についての記録は、特にないようだ。ただし、盗人島だけの紹介は大村郷村記に記述がある。(次の項目参照) 大村藩領絵図には、「盗人島」らしき島影が描かれているが、飛び石まではないようだ。
・盗人島の状況 自然石の大小が点在し、樹木や草が若干生えているだけである。石祠あるいは宗教上の何らかの遺物などはない。
・他の飛び石の参考例 郡川の飛び石』は江戸時代に決められていて1個の長さ2m10cm、幅84cmで、合計46個あった。単純な大きさ比較ながら盗人島の飛び石より、郡川の飛び石の方が、2〜3倍位大きいものだった。

 調査内容などは上記の通りです。ただし、その後も様々な情報が寄せられたことも事実です。それは、いつの年代に造られたのか、その使用目的なども含めて色々な説がありました。この件については、別項目で書くこととします。

・佐世保高等専門学校・学生さんによる
「盗人島」周辺、水中カメラ探査模擬訓練(概要紹介)
 上記の標題の件、私の『上野ログハウス』ホームページ、「聞いた言葉シリーズ・第125回目、水中カメラロボット」で掲載中です。佐世保高等専門学校の学生さんは、2010年7月28日、盗人島で自ら設計・施工された水中カメラロボットで探査模擬訓練をされました。しかし、残念ながら、この日は朝から雨だったため海中が濁って見えにくい状況でした。この時の海中探査模擬訓練の詳細は、ここから、ご覧願います

(掲載日:2010年10月16日、一部追加掲載:2010年10月25日

2)大村郷村記の関係記述と大村藩領絵図
 この項目は、江戸時代に大村藩によって描かれた大村藩領絵図と、(大村)郷村記
、どう書いてあるかを再点検する内容です。
(1)大村藩領絵図には、飛び石らしきものはない

まず、大村藩領絵図の方ですが、「盗人島らしき島影」が描かれています。しかし、「飛び石まではないようだ」と言うのが、私の絵図(縮小の写真版)を見た感想です。島の部分を描いたそれ自体でも、写真版では極小さなものです。

(2)大村郷村記には、島だけの記述はある

 次に、(大村)郷村記を見ていきたいと思います。下記「」内の太文字が、盗人島についての記述内容です。

「 一 盗人嶋 玖島崎の西磯邊より貳拾間程の所にあり、周廻貳拾間程の小嶋なり、眞中に少しの雑木生す、干潮の時は歩行渡りよし 」

 上記の現代語訳をしますと、次の<>内と思われます。ただし、私の素人訳ですから、あくまでもご参考程度に、ご覧願います。
 一つ 盗人島 玖島崎の西の磯部(海岸)より約36mの所にある。(島の)周囲が約36mの小さな島である。(島の)真ん中には雑木(ぞうき)が少し生えている。干潮の時は歩いて渡りやすい 

注:貳拾間(にじゅうけん)について、貳拾は漢数字である。間(けん)は尺貫法の長さの単位で1間=6尺=1.82m。

 上記の(大村)郷村記から分かることは、盗人島それ自体の紹介は、簡単でしかも短い文章ながらも、ちゃんと書いてあります。しかし、飛び石の記述は、全くありません。また、盗人島の中の状況についても、例えば神社(権現様)とか石祠とか、何か宗教に関係するものがあれば、(大村)郷村記には他の地域を見れば、ほぼ必ず書いてありますが、ここには記述そのものがありません。そのようなことから、島には「雑木が少し生えている」以外は、何もなかったと思われます。

 しかも、この(大村)郷村記には、ご丁寧に「干潮の時は歩いて渡れる」とまで書いてあるのですから、普通に考えれば「満潮の時には飛び石で渡れる」みたいにと書いてよさそうなものです。しかし、そのようなことは記述されていません。このようなことから、現在置いてある「飛び石」は江戸時代には、なかったと思えます。

(掲載日:2010年10月24日

3)寄せられた情報3説の内容、分析と結果
  
冒頭のはじめににも書きましたが、この盗人島の飛び石をいっぺんに有名にしたのが、西日本新聞2010年5月13日と5月19日の写真付きでの報道です。この直後あたりに、私の方へ口頭、電子メールあるいは雑談含めて様々な情報が寄せられました。その内容についても、単に「盗人島は、”どろぼう島”と呼んでいたバイ」と言う島だけの話から、「飛び石」の工事年代についての各種の説までです。

 その中には「かなりの重たい石なので、重機(クレーンなど)がない時代に工事するのは無理だったと思う」と言う工事方法から推定される方もいました。(この件は後で上野の反論を書いています)それらを工事年代別の区分けで、大別すると、主に次の3説でした。ただし、分かりやすくするため、番号や表現方法は、私の方で整理しました。

(1)「江戸時代に作られたのではないか?」=江戸時代の工事説
(2)「戦前の明治・大正・あるいは昭和の初め頃ではないか?」=戦前の工事説
(3)1952(昭和27)年の「大村ボート場開設時頃、競艇場への橋渡しのための石である」=(1952年頃)大村ボート開設時の工事説
などでした。

 上記に対して、私も上記<2)大村郷村記の関係記述と大村藩領絵図>から、このことを考えたり、また、何人かの方とも話しや連絡頂いたりして、これらの説を分析・検討してみました。一つひとつ書けば長くなりますので分かりやすくするため、下表の通り一覧表にしました。念のために、この表だけ見ると、まるで”木で鼻くくった”みたいな文章になっていますが、人の話はどなたの、どんな情報や説でも、それなりに由来や経緯があり、また様々な表現力で語られていることは当然のことです。

3 説 の 内 訳
情 報 の 検 討 内 容
上野の判断

(1)江戸時代の工事説

・江戸時代作成の大村藩領絵図と(大村)郷村記には記述なし。
 <上記2)項目を参照>
(2)戦前の工事説
・明治・大正・あるいは昭和の初め頃に工事した記録なし。
 <戦前の工事記録がない>
(3)(1952年頃)大村ボート開設時の工事説
・「大村ボート場開設時頃、競艇場への橋渡しのための石である」と話しされる人も実際にいて、また市役所内の歴史専門家は、「競艇場への橋渡しのための石であり、謎でも何でもない」と言われている。
 一番有力説と思われる

補足として、あと、先に書きました「重い石なので重機(クレーンなど)がない時代に工事するのは無理だ」とか言う話について、それは私の考えでは間違いと思います。なぜなら、例えば同じ飛び石でもある江戸時代の郡川の飛び石は、大きさも当時決まっていて「1個の長さ2m10cm、幅84cmで、合計46個」でした。この大きさは、「盗人島の飛び石」の約2倍から3倍ありました。郡川と大村湾岸と言う場所の違いはあっても近代的な重機のない時代でも「工事しよう」と言う計画さえあれば、工事自体は可能だったと思われます。

 さらに 話しは大阪城のことですが、ここの石垣には蛸石(たこいし)や肥後石と言うタタミ何十畳の広さ、重さ推定トン数で2つとも百数十トンと言う巨石があります。これらは瀬戸内海周辺の島から運んで置いたと言われています。また、大村の玖島城(大村城)でも、「盗人島の飛び石」よりも何倍も大きな石が数え切れないほど沢山使用されています。このようなことから、今回の件とは違いますが、重機(クレーン)のない時代でも相当大がかりな工事自体は可能だったとも思えます。

 以上のようなことも述べつつ、2010年10月現在において、「盗人島の飛び石」の工事年代は、やはり先に述べた通り<(3)1952(昭和27)年の「大村ボート場開設時頃、競艇場への橋渡しのための石である」=(1952年頃)大村ボート開設時の工事説>が、一番有力だと私は思います。ただし、今後これらのことをくつがえすような工事記録などの新しい資料(史料)などが、何らかの機会に発見されれば、その年代に改めることは当然のことだとも思っています。

(掲載日:2010年10月27日

あとがき
  この「盗人島の飛び石」の件は、繰り返しになりますが冒頭にも書いた通り、何かの「歴史事項」とか「歴史上重要な事柄」みたいなことではありません。あくまでも、「大村の話題」事項であり、私自身も今回そのような種類で書いてきました。

 一方、私は様々な「話題」そのものを否定している訳では、決してありません。「盗人島の飛び石」のある大村地区とは違いますが、同じ大村市内の福重地区で地域起こしなどの活動をしている者として、何かの要因で”時の話題”とか”何かのヒット商品”などは、従来になかった観光客の誘致あるいは、お土産などの販売効果に結びつくことは私なりに知っています。そのようなことになるまでに、どれだけ地域の方々が、必死に努力され苦労されているか、少しでも分かるものです。

”時の話題”も、大切ではないか

 また、前歴第一主義で十年一日(じゅうねんいちじつ)のごとく、同じ観光地、同じ写真の観光ポスター、同じパンフレットや紹介方法しかしないやり方では、観光客の方にとって素通りの場所にしかならないことも予測できるのではないでしょうか。今回のことが全てにおいて当てはまるとは思いませんが、”時の話題”も味方や追い風にして、どう取り組んでいくかも考えさせられます。

 先にご紹介した通り、同じ飛び石でも『郡川の飛び石』は、大きさや数について古記録があり、しかも情緒ある長崎街道の風景としてシーボルトの描かせた絵もあるし、周辺には大村市教育委員会の立てた案内板まで設置されている状態です。ある種全ての素材や条件が揃っているのに、何故あまり話題にならないのか、地元の者として再考すべき機会なのかもしれません。

 あと、日常普段に見る道路脇などの石について、何も意味のない、ただの役立たずの石と思うか、逆にじっくり見たら石仏とか、あるいは何か意味あるものだっだと再発見するのかは結局、人それぞれかもしれません。たとえ、意味ある物と再確認して、それを”時の話題”まで持っていって、観光客の誘致またはお土産などの販売増進に結びつけるまでは、さらに別次元の努力とも思います。

 私は、「盗人島の飛び石」それ自体が、急に何かをもたらす物とも思えません。しかし、今回、”時の話題”や「大村の話題」として取り上げられた手法は、前歴第一主義のやり方では到底ありえないこととも考えました。”時の話題”にしていく着眼点や発想の転換は、学ぶべきことだろうとも思いました。

 以上、色々と書いてきましたが、今回のあとがきで、、「盗人島の飛び石」シリーズは、終了です。ただし、これからも何か新たな情報などがありましたら、追加掲載していきたいとも考えています。今後とも皆様よろしく、お願いします。今までの閲覧に感謝申し上げます。

(掲載日:2010年10月29日

参考資料(史料) 大村藩領絵図 大村郷村記
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