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大村の歴史
大村市庁舎(市役所)の歴史

 大村市庁舎(市役所)の現在地(玖島一丁目)は、1962(昭和37)年当時から不便で大問題の場所だった
 現在将来を考え、西大村・竹松地区境界地域が市役所の敵地であることを歴史は教えている

はじめに

  大村市は、1942(昭和17)年2月11日、大村町、萱瀬村、 松原村、福重村、鈴田村、三浦村が合併してからスタートしました。そして、その市役所が置かれたのは、旧・大村町役場でした。市庁舎の場所の変遷や関係の事項から、下表に年表のようにして書いていきます。

年 月 日
市庁舎や関係諸事項
補足など
 1942(昭和17)年2月11日 ・大村市発足(1町5村の合併。事実上の強制合併だったとのこと) 元の村役場は出張所へ
     (同上) ・市庁舎は旧・大村町役場、大村市250番地(現在の旭町か?) -
 1943(昭和18)年2月末完工 ・澱粉工場跡などへ市庁舎の増改築 -
 1948(昭和23)年 ・福重、松原で「再分村運動」が起こる (下記の補足参照)
 1952(昭和27)年4月6日

・大村競艇開場(数十年後、国道34号線など混雑地帯へ)

今も混雑解消にならず
 1957(昭和32)年7月25日 大村大水害(死者19名) 市庁舎も水に浸かる(一部資料流失) 老朽化さらに進む
     (この間) ・市庁舎の老朽化と狭いため建て替えの話が出て続いていた -
 1961(昭和36)年9月市議会 ・市庁舎移転の市側案=「三城小学校下」候補地を否決 注2
 1962(昭和37)年3月市議会 ・市庁舎移転の市側案=「玖島崎の海岸」候補地(現在地)を否決 注2
 1962(昭和37)年7月7日 ・水害発生(市内各河川の決壊、橋、道路、農地などに被害) -
 1962(昭和37)年11月19日臨時市議会 ・(同上案)=「玖島崎の海岸」候補地(現在地)を可決 -
 1964(昭和39)年10月 ・現在地(玖島1丁目)に市庁舎が竣工 -
 2017(平成29)年2月15日 ・記者会見で現在地周辺の建て替え案を発表 -
 2017年3月市議会 ・建て替え案の質疑応答 -
 2017年4月 ・大村8地区で市庁舎建替えの意見交換会 福重地区の概要報告
 2017年6月市議会 ・市庁舎建て替え案の質疑応答、・補正予算案は?? -
当時の大村市庁舎(大村市史・下巻 55ページ写真より)
当時の大村市庁舎(大村のあゆみ 41ページ写真より)

 注:上表の年月日や諸事項内容の参照先は、主に<大村市発行の1962(昭和37)年12月10日付け「市政だより」、「1964(昭和39)年11月庁舎落成特集号の「市政だより」、「大村市史・下巻 (1961年2月11日、大村市発行)」、「大村のあゆみ(1972年2月11日、大村市発行)などからである。

  注2:上表の1961年〜1962年の市議会で市側の市庁舎建替え案を同一表現で「否決」としているが、各々「継続審議となり」とか「同意を得られなかった」の表現で「市政だより」には書いてある。上表のスペースの関係で2事項とも「否決」としただけである。


・上表の補足や関連について
 まず、大村市の市政発足(1町5村の合併)について、住民が喜んでおこなったものではなく、第21海軍航空廠ができるということで事実上、国からの命令みたいにして半ば強制合併でした。そして、戦争中、飛行機製造工場と航空隊があることからアメリカ軍の空襲は苛烈(かれつ)を極め、市内が廃墟(はいきょ)になり、失業者が市内にあふれました。

 戦後になり、強制合併させられた5村の内、当時、米を中心とした経済力のあった旧・福重村旧・松原村住民は、「こんなヒドイ大村市とは一緒にやっていけない」と言うことで、「再分村運動(再び元の村に戻る運動)」まで展開していました。松原は市側の説得に応じて再分村を思いとどまったのですが、福重は住民投票までおこない再分村を決めたのでした。

 しかし、県議会の承認手続きの間隙(かんげき)をついて、当時の大村市長は上京し、直接マッカーサー総司令部と第8軍司令官に対し、分村取り消しを福重地区代表に命令するように懇請(こんせい)した結果、聞き入れられ所轄(しょかつ)の長崎駐屯地司令部を通じ、分村取止めの命令が出されたのでした。

 この再分村運動の原因となった税収不足を補うため、大村市が考えたのが大村競艇の開場(
1952年)でした。日本初の大村競艇の苦労は、大きかったと推測されます。その後、10年してから税収確保も可能になったためか、それまで老朽化と狭かった市庁舎を上表通り、紆余曲折(うよきょくせつ)はあったものの現在地(玖島一丁目)に建替えられたのでした。

 この現在地に市庁舎が建替えられる以前に、実は1961(昭和36)年頃からの数年間、その建設候補地が市議会や市民間で討論されています。そして、今から考えれば、やや珍しいことも起こっています。それは、市議会で市側の建て替え予定地案を場所は違えど二度も否決(「市政だより」には、各々「継続審議となり」とか「同意を得られなかった」との表現あり)したのでした。

 大村は、昔も今も、大人しい穏やかな人の多い土地柄で、行政側に面と向かって反対論を述べるなど、なかなかしない雰囲気があります。そのような状況下、先に述べた通り、当時の市民や市議会議員は、市側案を2回も否決したことが、当時の「市政だより」に書いてあります。

 なぜ、市側の予定地案に、市議会や市民は反対もしくは不満を表明していたのかには、いくつか理由がありました。そのことは、次の項目に書いていきますが、(2017年の)現在も当時と同じようなことが続いています。

市庁舎の現在地は、なぜ問題だったのか
 この項目テーマは、市庁舎の現在地(玖島1丁目)が、なぜ、1962(昭和37)年頃から市議会で否決(市側案が「同意を得られず」)される大問題だったのかを述べています。そのことを調べるには、背景の一部しか分からない状況もありますが、大村市発行の1962(昭和37)年12月10日付け「市政だより」を参照し、私自身も今回、各地区の方へ聞き取り調査もしました。

 まず、先の「市政だより」
内容を極簡単に書けば、1961昭和36)年9月市議会で、当時の案として「三城小学校下」が否決されています。さらに1962昭和37年3月市議会で、「現在地(当時、海岸埋め立て前)」も否決されていました。 つまり、候補地の場所は違いますが、2回も市議会で、市側案は同意が得られなかったということです。

1964(昭和39)年10月完成の現市庁舎(手前側=北側は、まだ海のままである)

 これには、色々と訳がありました。私は、現在の市庁舎が建った頃は、学生でしたので、父母、親戚や周辺地域の人達が、この場所について話題にしていたことは、少し覚えています。その不満の中心は、「(現在地は)あまりにも不便で、しかも市の中心地ではない」ということでした。その不便の主因は鉄道駅近くでもなく、バス路線もない所だったからです。<ご参考までに、旧市庁舎(以前の大村町役場で現在の裁判所周辺)は、大村駅やバス停留所から、そう遠くない場所にあった>

 そして、今回(2017年に)いくつかの地区の方々へ聞き取りをしたところ、当時、他の地区の方々も市側案に反対者が多く、特に大村地区の方も反対されていたようです。何故ならば、それまであった旧市庁舎は本町にも近かったが、現在地は当時、玖島城跡、海岸や国道34号線くらいしかなく経済効果上もない、むしろ本町(商店街)がさびれていく(現在の状況を予測したような)ことを予感されていたからと思えます。

 また、交通手段として、「市役所へ行くには自転車で行っていた」とのことでした。当時、まだまだ自家用車は少なかったのでした。竹松地区在住の方は、「昔の市役所ならば竹松駅から汽車に乗り、大村駅で降りて、そこから歩いて行っていた。でも、現市役所へは、行くに行けない所になった」と、当時を振り返り嘆いておられました。

 この約53年前と、現在の状況と違う(改善された)のかと言いますと、基本的に市庁舎の現在地の問題点は何も変わっていないのです。たしかに、当時よりマイカーは極端に増えましたので、長崎県下有数の混雑さえなければ、なんとか自宅と市役所間の往復は可能でしょう。しかし、子供、学生、高齢者など自家用車や運転免許のない方は、約53年前の状況と全く変わりなく、バス路線さえない地区もあるのです。

  なお、補足として、大村は昔も今も、大人しい、穏やかな人柄の多い土地柄で、行政側に面と向かって反対論を述べるなど、なかなかしない雰囲気があります。そのような状況下、当時の市民や市議会議員は、様々な観点から市側案を2回も否決されたのは、特筆に値することだったと思われます。

市庁舎、現在地が敵地でない理由
 
まず、再確認の意味で、(2017年6月現在で)大村市役所ホームページの「新市庁舎の建設候補地に現地周辺を選定しました」ページの「市庁舎建設候補地について(PDF:293KB) 」と、「市庁舎建設に関する質問と回答(PDF:800KB) 」、あるいは(福重地区での)大村市・新市庁舎建設意見交換会(概要報告)ページも、ご参照願います。

 先の市側案(2017年)の説明を極簡単に書きますと、市庁舎建替え候補地は、様々(候補地と28箇所)あったが、結局は現在の市庁舎周辺しかないと言うものです。しかも、口頭説明では、「現在地で既に50年以上もなっているので市民間にも定着している」、「建替え地の最速最適地である」との補足説明までありました。はたして、その市側の説明通りで正しいのでしょうか。

当時の大村市庁舎の予定位置図(1962(昭和37)年12月10日付け「市政だより」)
埋め立て地は何百年経っても地震や液状化現象に弱い

 その点の検証を歴史から、現在の市民の声からも再検討していこうと思っています。既に、重複内容になりますが、先の項目「市庁舎の現在地は、なぜ問題だったのか」、(福重地区での)大村市・新市庁舎建設意見交換会(概要報告)ページも引用し、さらに私が今回、他の地区の方々から聞き取り調査も集約して箇条書き風に下記に書いています。

(1) 現在地は海岸埋め地なので、地震時の液状化現象や津波などに弱い場所である。(注:埋め立て地は何百年経っても地震や液状化現象に弱い場所であることは、新潟地震始め多くの地震で証明済みである。私の推測ながら、この証明が当初から分かっていれば、市庁舎候補地として、現在地は挙がらなかったのではないかとも思う)

(2) もしも大地震が発生し内田川に架かる橋が落下したならば、本来、対策本部や避難場所となるはずの市庁舎は「陸の孤島」となる。また(西大村地区=市の中心部にある)市民病院と、防災一体化対策は出来ない。

(3) とにかく、車以外は不便な場所であり、市庁舎へ行くバス路線さえない地区もある。(長崎県南部の長崎市、諫早市、島原市などの市庁舎は鉄道駅の近くで便利である) 市側案説明は、まるで「市役所への交通手段として、”マイカー奨励”する、全国でも珍しい自治体である」との指摘や意見もある。

(4) 交通混雑のヒドイ場所である。(特に、大村競艇・桜・花菖蒲祭り開催時は車が動かない。緊急発生があった場合、なんの対処も出来ないのではないか?)

(5) 市庁舎の適地として考えるべき後の項目=「市庁舎、立地場所の基本的考え」などから現在地は考えたものではない。これは、1964(昭和39)年、現在地に市庁舎を建てた時も、同じことで当時の主な理由として、他の候補地より安くできるからとの市側説明であった。

(6) 現在地になる53年前も、市議会や市民から批判を浴び、結果、市議会が現在地案を1回否決した場所である。

(7) 「現座地周辺、先にありき」の結論があって、他の例えば「西大村案」や「竹松案」などは否定する理由ばかり述べていて、現在地周辺の問題点などを市側案はほとんど書かず、説明もしない、不公平なやり方である。

(8) 現在地は大村市の中心地でなく、これからの50年100年後を考えれば現在地は適地ではない。 <それに比べ、長崎空港と工業団地を結んだゾーン(地域)には、長崎空港、大村郵便局、大村入国管理センター、長崎県消防学校、大村市民プール、大村市小学校給食センター、長崎県運転免許試験場、大村市民病院、陸上自衛隊大村駐屯地、新幹線新大村駅、高速道路・池田インターチェンジ(IC)、長崎県工業技術センター、工業団地、その他(小中高校など)多数の公共施設が並んでいる。(民間企業は省略)

 また、将来も、まだまだ、大規模な建物や敷地は可能である。このようなことだけでも、既に何十年も前から、この地域が大村市の地形、人口(北部に約6万人在住)、経済力、交通の中心地だけでなく、公共施設でも中心地だと分かるし、今後の50年100年後の将来発展の可能性も秘めた地域であることが歴然としている>

  以上の歴史的経過市民の声からして、市庁舎の現在地(玖島一丁目)が敵地でないことが良く分かる事例ではないでしょうか。このようなことも踏まえて、本来、市庁舎の適地としての基本的な考えが必要であることを次の項目でまとめています。

市庁舎、立地場所の基本的考え
 この項目は、大村市庁舎(大村市役所)の件について、上記の歴史、市民の意見要望、現在地(玖島1丁目)の問題点などを総合的に考えていきたいと思います。そして、何事も基本が大事であって原点に戻って考えれば、やはり市庁舎の立地場所は、主に次の事項が重要・不可欠と思われます。

大村平野部の空中写真(グーグルアースより)  何十年も前から長崎空港と池田IC・工業団地を結んだ地域が本当の大村の中心地(人口、地形、交通、経済力、将来発展の中心地域である)

 1)人口の中心地=市北部地域に6万人在住。(市全域の人口分布上で市民病院周辺が中心地との説あり)

 2)市の地勢の中心地。(地形上から南北の中心地は西大村地区、平野部だけならば竹松地区南部。右側の「大村平野部」空中写真参照
)

 3)交通アクセスの中心地。(長崎空港から池田ICを結んだ地域。新幹線の新駅も入る)

 4)経済力の中心地。(長崎空港から工業団地を結んだ地域)

 5)大村の50年100年後も中心地。(市北部は面積も広いので長期で経済も人口も伸びると予測)

 6)地盤が強固で防災上問題のない適地な地域。

 上記の観点に立てば自然と、長崎空港と高速道路池田IC・工業団地を結んだ地域(西大村地区と竹松地区の境界周辺)が、何十年も前から大村市の本当の中心地でした。そのことからも本来この地域に大村市役所はあった方が良かったのです。また、この地域は、大村市役所を除き、国・県・市の公共施設が集中しています。

 そして、先項目と繰り返しになりますが、この地域の今までの歴史、県下有数の平野部、人口、経済力、交通拠点(空港、高速道路、新幹線新駅、在来線駅など)を考えるならば、大村市の50年100年後は、さらに飛躍し、他地域を圧倒するでしょう。

 (このページに詳細書きませんが) 大村は、長崎県央地域で他市町にない本当に有利で、恵まれた環境・条件があります。しかし、市外・県外の方にとって、「偉大な通過都市・大村」、「素通りのまち・大村」でもあります。

 この主要因は、何十年も前から毎年同じ「超ベリー・スペシャル・ワンパターン」のような市の宣伝(大村公園、大村ボートなどが中心)方式にあります。さらに、その要因は、市役所の現在地(玖島一丁目)周辺に、その大村公園やボート場があるからでしょう。他の地区に、どんな良い所があっても、それらは目隠しするようなやり方で扱いは小さいのです。

 このように市庁舎(市役所)は、単に市長や市職員が仕事する建物だけでなく、ある意味、市民にとって中核的な建物であり、過去も現在も将来も、市を代表する象徴的な建物とも言えるでしょう。

 そして、いくら口先だけで「日本一住みやすい大村」と宣伝しても、「市役所の現在地はマイカーでないと行けない大変不便な所」です。そして、それらは、この大村市庁舎(市役所)の歴史ページ冒頭に書いています通り、約55年前から先人は「市庁舎の現在地は敵地でないこと」を教えておられるのです。

 そのことからの結論として過去からの歴史は、 「大村市庁舎(市役所)の場所は、現在・将来を考え西大村・竹松地区周辺地域が最敵地であること」と教示しておられるといえるでしょう。

補足


 (この原稿は、準備中。 しばらく、お待ちください)


関係ページ:「福重村の合併(大村市)と再分村運動について」 、 「(福重地区での)大村市・新市庁舎建設意見交換会(概要報告)

(掲
載日:初回:2017年6月21日、第2次掲載日:6月22 日、第3次掲載日:6月23日、第4次掲載日:6月25日、第5次掲載日: 月 日)

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