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あとがき
福重のあゆみ、古代の道と駅
古代の道・駅 想定図(「延喜式」による)
彼杵郡家
と新分駅の位置に注目
古代の道と駅

 奈良時代〜平安時代には道路(官道)が整備されました。この官道は都と地方の役所(国府・郡家)を結んで、役人の往来や命令・文書の伝達に利用するための公式の道路で、役所と役所を結んでまっすぐ造られました。

 また、要所要所には「駅(うまや)」が置かれました。古代の駅というのは馬を常備しておき、役人や文書伝達の使いが通行する際には次の駅まで馬を利用できる、いわゆる駅伝・伝馬の制のための施設でした。肥前国の駅には馬5頭を備える決まりになっていました。

 肥前国の道は太宰府から肥前の国府(佐賀)へ、佐賀から彼杵郡の役所があった福重を通り、高来郡の諫早・島原を回って船で肥後国(熊本)へ渡るコースでした。

 国府から彼杵郡へのコースは、佐賀〜塩田駅(塩田か嬉野)〜大野原〜遠目〜野岳〜草場〜堀池(寿古)〜沖田〜大村と考えられます。

 長崎県内に置かれた駅は彼杵郡に「新分駅」、高来郡に舟越駅・山田駅・野鳥駅の4駅です。

 さて、彼杵郡に置かれた新分駅は「ニイキタまたはニキタ」と読み、大村市北部にあったとされますが、福重の草場にあったと考えられます。

 草場の地名(小字)に野岳に近いほうから石立・辰ノ口・馬込・出口平・京辻・今道・皆同の高繩手と交通に関係がありそうな地名が直線状に並んでいます。

石立様
 また、大村市草場町の一番上の石立の道端に「石立様」、石川さん宅横の道端に「立石」と呼ばれる大きな石(薄型150×150cm)が立っています。立石・石立とは古代〜中世の交通路の標識として石を立てた所をいう地名です。

 「馬込」という地名も駅との関係が考えられますし、高繩手の繩手というのは「長く続くまっすぐな道」の意味です。従って、「新分駅」は馬込を中心とした草場にあったと考えられるのです。

 道は草場から高繩手を下って寿古の堀池で直角に曲って南下して、寿古か沖田にあった彼杵郡の役所(郡司のいる郡家)に向かったと思われます。

 ※:草場とともに古代の駅とされる舟越(諌早)には、東上の馬場・立石、山田(南高吾妻)には牧の内という地名が残っています。

石立様についての補足
 左の写真でもお分かりの通り、立っている石の前にある平らな石は、タタミ一畳分くらいあろうかと思えるくらい大きいものです。また、現在はこの石などの周囲が道路になっていますが、ここの所だけが墳丘のように盛り上がっています。そのようなことから、石立様は、交通路の標識ばかりではなく「古墳ではないか」と推測される方もいます。

石走の道祖神(いしばしりどうそじん)
石走の道祖神
 矢上(現在、大村市福重町)の石走(いしばしり)に「道有」と刻まれた四角形の薄型の石が立っています。以前は一段低い水田傍にあったのを今の場所に移したものです。これは「道祖神」です。道祖神は通行の無事を祈る神として十字路・村境・峠などの道沿いの主な所に立てられました。道祖神は縁結びの神、性の神に変った所もあり、松原や萱瀬の「さやのごぜ」はこれに当たります。

 石走川のあたりは大昔は海だった所で、道祖神のあったあたりに船着場があり、道はここから始まっていたと思われます。なお、郡岳の太郎岳大権現に通じる参道の出発点として、道祖神のあるあたりに一の鳥居が立っていたといわれます。

 なお、石走には線刻石仏があり、石走の上方に「強力(ごうりき)」という地名(小字)があります。また、石走から道はまっすぐに登りますが、弥勒寺の釈迦峰に「お釈迦さまの足形石」という足形を刻んだ大きな石が道端に最近まであったそうです。

 太郎岳大権現への参道・線刻石仏・強力(山伏の道案内人を意味する。)・釈迦の足形石と並ぶと、山岳修験道との関連が浮かび上がってきます。(掲載日:2005年1月3日)

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