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2025年6月30日、福重小学校4年生、学校まわりの史跡巡り(しせき めぐり)(概要報告)
手前側は福重小学校4年生、中央部奥は上野が矢上の天満宮(てんまんぐう)を説明中
奥側の丘:今富城跡'(いまどみじょうあと)に向かって歩く 奥側の丘:皆同砲台跡(かいどうほうだいあと)の見学
 もう少しで福重小学校へ戻る(左奥側は新校舎)
福重小学校4年生、学校まわりの史跡巡り(しせき めぐり(概要報告)
日時:2025年7月4日09時05分~10時25分
主内容と場所:見学(校外学習場所は下段の史跡名を参照
参加:83名(4年生80名、先生3名含む)<ご参考までに、2025年5月1日現在で福重小学校の児童=426名
案内担当者:上野(福重郷土史同好会)
 注1:下記の講話内容は、分かりやすくするため一部、補足、改訂も含めて書いている。
 注2:写真の掲載順は順不同であり、上からの順番などには何の意味もない。
今回の質疑応答(Q&A)は、ここから、ご覧下さい。
今富城跡'(いまどみじょうあと)と、皆同砲台跡(かいどうほうだいあと)

<主な内容>
 今回、下記通り、福重小学校まわりにある史跡(しせき)を巡りました(見学しました)。ただし、すでに「6月30日の授業(じゅぎょう)」で話した場所(ばしょ)ばかりでした。そのため今回(こんかい)は、「授業(じゅぎょう)」のおさらいで、説明(せつめい)よりも、4年生へ、たずねて答(こ)えてもらうやり方も多くしました。
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矢上の天満宮(てんまんぐう)、学問(がくもん)の神様(かみさま) 
舟つなぎ石(1万年以上前)
舟つなぎ石や福重小のまわりは1万年以上前は海もしくは入り江だった
今富城跡'(いまどみじょうあと)
皆同砲台跡(かいどうほうだいあと)
<学校まわりの史跡(しせき)説明(せつめい)
 ① 白馬様(しらうまさま) ---白馬様(しらうまさま)は子どもと先生の守り神様(かみさま)ですが、工事中なので見学できません。<「福重のあゆみ」の本を参照>

 ② 学問の神様(がくもん の かみさま) 矢上の天満宮(てんまんぐう)---延享(えんきょう)元年(がんねん)(1744)7月23日にできました。今から約280年まえからあります。中学3年生が、高校受験(こうこうじゅけん)前(まえ)に、おねがいにこられるそうです。

舟つなぎ石(ふなつなぎいし)---1万年以上(いちまんねん いじょう) まえまで、この近くや学校まわりは海(うみ)でした。つまり海の高さとあまりかわらないので、5年前の水害(すいがい)のとき、運動場(うんどうじょう)が冠水(かんすい)しました。このような石は、もっと、たくさんありました。

今富城(いまどみ じょう) --1469~1486年ころにできた?---<「今富城跡'(いまどみじょうあと」を参照(さんしょう)> あの丘の南北約400m、東西約200mくらいの、ほぼ全部が「今富城跡'(いまどみじょうあと」です。とくに、あのアンテナのある所の上側が本丸(ほんまる)のあった所です。

皆同砲台(かいどう ほうだい) ---1945年4月ころにできました。<「皆同砲台跡(かいどうほうだいあと)」ページを参照> 砲台(ほうだい)とは、空にむかって打つ(うつ)機関銃(きかんじゅう)のことです。この砲台(ほうだい)の下にあった防空壕(ぼうくうごう)で、5名くらいが亡くなりました。
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質疑応答(しつぎ おうとう) (Q &A)
 質疑応答(しつぎおうとう、Q&A)は、主に「皆同砲台跡(かいどうほうだいあと)」でした。

Q1:この砲台(ほうだい)の機関銃(きかんじゅう)は、何発(なんぱつ)くらい打てたのか?
A1:戦前(せんぜん)の砲台(ほうだい)が1分間に何発(なんぱつ)打てたのかまでは調(しら)べていないので上野の宿題(しゅくだい)としたい。今の機関銃(きかんじゅう)ならば、1分間に少なくても何十発(なんじゅうはつ)とか、何百(なんひゃくつ)打てるようである。はやく飛(と)でいる飛行機(ひこうき)へ、何十発何百発と打たないと、あたらないからだ。

Q2:飛行機(ひこうき)以外(いがい)にも打ったのか?
A2:皆同砲台(かいどうほうだい)」は、アメリカ軍(ぐん)の飛行機(ひこうき)を打つためだ。とくに近くの福重飛行場、竹松にあった大きな飛行場(大村海軍航空隊)に空襲(くうしゅう)をしてくる飛行機だ。しかし、スピードが速(はや)すぎて当(あ)らなかったという。

Q3:この砲台(ほうだい)の所で、家族(かぞく)3人が亡くなったのか?
A3:母子3名などが亡くなったのは、(今見ている)砲台の所ではなく、もう少し先に行った砲台の下側(したがわ)にあった防空壕(ぼうくうごう)であった。

Q4:あそこに見えている入口は、何があったのか?
A4:あのコンクリート2カ所の入口の所は、弾薬庫(だんやくこ)または倉庫(そうこ)だ。皆さんは見学できないが、あの中に入ると、80年前にできたものとは思えないくらい今でも良くて、頑丈(がんじょう)である。

Q5:砲台(ほうだい)は何名(なんめい)だったのか?
A5:この「皆同砲台(かいどうほうだい)」には、約50人くらいの兵隊(へいたい)がいたと思われる。なぜなら顔(かお)につけるマスクが約50個(こ)あったと書いてあった。マスクは共用(きょうよう)ではなく、個人支給(こじんしきゅう)だったので、ほぼ人数分(にんずうぶん)の数(かず)があったからだ。

4年生からお礼
 最後(さいご)に、4年生全員から元気な声で、お礼がありました。
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<上野の感想>
 福重小4年生の皆さん、暑い中、良く頑張って歩きました。皆さんの疑問(ぎもん)や質問(しつもん)は、これからの勉強のエネルギーになるでしょう。お疲れ様でいた。
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・関係ページ:「2025年6月30日の授業(じゅぎょう)」 「矢上の天満宮(てんまんぐう)」 「舟つなぎ石」 「今富城跡'(いまどみじょうあと)」 「皆同砲台跡(かいどうほうだいあと)」 「招魂碑しょうこんひ)」 白馬様(しらうまさま)=子どもと先生の守り神様(かみさま)」 



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