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第4回講座
2003年12月22日開催
・中世=鎌倉時代から
室町時代なまで
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第2回講座 第6回講座
第3回講座 第7回講座
第4回講座 第8回講座
講座目次

史跡探訪
特別講座
福重郷土史講座、第4回講座の概要
日時:2003年12月22日 19時00〜21時25分 参加者:13名

郷土史講座第4回目講演  講師:増元さん(寿古町内会長)

1)福重の歴史(2)、中世=鎌倉時代〜室町時代〜戦国時代
 郡地域には平安時代末期頃から『郡七山十坊』(下記)と呼ばれたお寺がありました。
福重地区5寺=・龍福寺(禅宗) ・弥勒寺(禅宗) ・白水寺(禅宗) ・冷泉寺(真言宗)・東光寺(禅宗)
松原地区2寺=・延命寺(真言宗)、・妙光寺(真言宗)
竹松地区3寺=・極楽寺(真言宗)、・本来寺(真言宗)、・浄宮寺(禅宗)

 現在の「深重山妙宣寺」と言うように山号と寺号を呼称するようになったのは、14世紀(平安時代末期)鎌倉時代と言われています。

福重にあったお寺の名称
 平安、鎌倉、室町時代に福重に存在した寺院は下記の通りです。 注1:( )内は現在の町名注2:東光寺も当時は草場です。
 (1)龍福寺(立福寺)  (2)弥勒寺(弥勒寺)  (3)白水寺(皆同) (4)冷泉寺(今富) (5)東光寺 (6)妙法寺(草場) (7)正(聖)蓮寺(寿古) (8)不動寺(今富) (9)唐泉寺(福重) (10)無量寺(寿古・皆同) (11)済福寺(皆同) (12)教通寺(草場) (13)祇園寺(福重) (14)立石庵(草場) (15)常徳寺(草場)

白水寺跡

福重にあった神社仏閣、二度にわたる一斉焼き討ち
 福重にあった寺院は、二度にわたり一斉焼き討ちにあっています。
 1回目=龍福寺の文書によると1366年頃「昔時寺共焼梵」との記録があります。何者かについては、当時地元豪族の竹松氏、今富氏などを打ち破り、郡地域に進出してきた大村氏説が有力です。
 2回目=1574年キリシタン(大村純忠)による焼き討ち。
1回目焼き討ちの後、寺院は再興しましたが、2回目の焼き討ち以降は再興しませんでした。

寺院の役割について
 初七日や三回忌などは江戸時代からのもので奈良・平安時代は、寺院の役割そのものが今とはまったく違っていました。
 ・奈良時代=仏教で、国を守ってもらう。
 ・平安時代=藤原氏や貴族を守ってもらう。あるいはお坊さんに病気から守ってもらう。
 そのため、福重に京都の荘園もありました。だから、住民との結び付きや檀家の数に関係なく、この地にたくさんの寺院があったと思われます。つまり、田園の管理や今で言う総合商社の役割を果たしていました。

仏の里ふくしげ=日本一の線刻石仏郡
 専門家によると、「これほど多くの線刻石仏が集中した所は全国的にも珍しい」とのことです。現存は、下記の通りです。
 ・線刻石仏(自然石)=13体
 ・仏頭(頭部のみ彫刻)=3体
 ・単体仏(小仏像)=7体
 弥勒寺町を中心にか数多く分布している線刻石仏は、鎌倉時代から南北朝時代(仏頭は室町後期)に作られています。

史実にない大村氏系図と大村純伊の存在、偽装ばかりで逆矛盾
 (第3回講座で)「大村氏系図」は江戸時代、幕府提出時に大村藩が偽造したことを明らかしました。(内容は前回報告書をご参照のこと) 大村藩の資料によると、まず、大村氏の歴史は、「大村純伊(すみこれ)」の敗戦、6年間の流浪、大村領土の奪還の歴史から始まっています。普通は、敗戦の歴史から書く例はありません。

 また、この最初の「大村純伊」自体その存在も史実にない人物です。大村藩によると1474(文明6)年に「大村純伊」は、島原の有馬氏に攻められ、萱瀬の中岳合戦で敗北し、各地を敗走し、加々良島(かからじま)に6年間流浪し、佐賀側の加勢を受けて1480(文明12)年大村領を奪還したことになっていますが、これは史実に全くないことです。

 実際は、「純伊」は史実に出てくる大村純治(すみはる)と同一人物と思われます。この純治は、現在の佐賀県鹿島市大村方(今も地名あり)の大村氏で、島原の有馬氏に攻められ数回負けて、各地を徘徊して1507年に渋江氏の加勢で藤津郡の本領に帰ったと、佐賀側史料(北肥戦記)に書かれています。

 大村藩が藤津郡の大村氏の出来事を大村での話しに変えたり、数回の敗戦を1回にしたり、系図や歴史を偽装しため、逆に大きな矛盾が起きてしまいました。例えば、家臣の年齢がゼロ歳か90歳位で戦いに参加したり、「純伊」を敗北させた有馬氏の娘が妻として嫁いできたりと本来ありえないことばかりです。

大村氏のルーツは佐賀県藤津郡
 大村氏の始祖は、藤原直純の孫で四国から渡ってきたと言うのは江戸時代の偽装の話しです。本当のルーツは、現在の佐賀県藤津郡から来たと思われます。ですから、大村純治(「純伊」と同一人物)以前の始祖から14代は全部史実に存在しない、偽装の系図です。

郡三踊りは戦勝踊りではなく、神事芸能踊り
 郡三踊り(黒丸踊、沖田踊、寿古踊)いずれも、「大村純伊」が領地回復した時の戦勝踊りと伝えられています。しかし、民俗学者によると一目見て神事芸能踊りで、伝承で言われているような"戦勝踊り"ではないと見ています。また、寿古踊りは、佐賀県白石町の須古(以前の須古村)から来ていると言われております。(寿古町の名前も同様)室町や戦国時代頃から始まっていた三踊りをわざと戦勝踊りに結びつけたと思われます。

大村純忠、初のキリシタン大名だけではなく戦国武将の評価としては
 史実にも確認されている大村純忠は、1538年島原の有馬氏から養子で来ています。大村氏には実子がいたにもかかわらず、なぜ、実子を養子(後藤貴明)に出してまで純忠を迎えたのか。それだけ、有馬氏が強大で、大村の安定をはかるための政治的な意味がありました。 

鳥越・伊理字の古戦場跡

 大村の家臣団も、純忠派、貴明派、良純派とバラバラで、反乱が多発しました。その機に乗じて、養子に出された後藤貴明は、純忠憎しで、何回も大村に戦をしかけてきました。また、西郷氏(諫早)、龍造寺氏(佐賀)、松浦氏なども侵入してきました。福重地区では、1566年鳥越・伊理字(とりごえ・いりゅう)の合戦が、起こっています。

 純忠は、1562年横瀬浦で南蛮貿易を開始し、1563年には初のキリシタン大名にもなっています。その後、領民をキリシタンに改宗させることもしました。福重地区にあった多くの神社仏閣を一斉焼き討ちしています。このキリシタン改宗は、宗教上の教義もありますが、領民の民心統一を図る政治的な狙いもあったと言われています。大村純忠は、教科書にも「初のキリシタン大名」と出ていますし、出版物でも小説みたいにも書かれています。

 「初のキリシタン大名」だけの一面だけで見るのではなく、純忠が島原・有馬氏からの養子で、家臣団に信望がなかなか得られない中、しかも、各地の豪族から何回も攻められながらも、とにもかくにも危機を乗り切り、自らの地位と大村領地を守り、基礎を築いていった戦国大名としての評価も見ておく必要があると思います。

(第4回講座報告は、以上)

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