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第6回講座
2004年1月26日開催
・江戸時代から明治時代
(郷村記を中心に)
第1回講座 第5回講座
第2回講座 第6回講座
第3回講座 第7回講座
第4回講座 第8回講座
講座目次

史跡探訪
特別講座
福重橋(通称:郡橋)は、1886(明治19)年に架橋された。
福重郷土史講座第6回講座の概要
日時:2004年1月26日 19時00〜21時30分 参加者:13名

郷土史講座第6回目講演 講師:増元さん(寿古町内会長)

1)福重の歴史C、江戸時代から明治時代(郷村記を中心に)
 まず、郷村記がこれだけ詳細に存在しているのは、全国で2例(大村藩、萩藩)しかありません。その中でも福重村は分量も多く、神社仏閣、武士の人数から、堤、川、井手、馬、農機具の種類や耐用年数に至るまでこと細かく記されています。

武士について
 江戸時代は、通常武士は城下町、町人は町、百性は農地に住むことになっていました。しかし、大村藩では、農地にも住んでいました。武士の位は、城下大給(高級武士)=毎日城に登城、村大給、小給、足軽などがありました。中には、新田開発を奨励していたため、開発を多くした者が今までの身分を越えて足軽に取り立てられた例もありました。

年貢について
 年貢について、一応4割5分と決められていました。この数字自体、当時の収穫量からして厳しいものでした。さらにそれ以外にも道路の整備とか色々な理由を付けて決まった期間働かされていました。結果すべての単位で米をお金かわりに出すことになり、百性の多くが自ら米を作ったにもかかわらず、食べられなかったのが実態でした。

沖田踊、寿古踊りについて
 郷村記には、この踊りについての成り立ちから、歌詞まで書かれています。歌詞の内容は、艶っぽいものです。

権現様について
 元々、権現様とは、仏が民衆を救うために、神・人など仮の姿をもってこの世に現れることです。それが明治政府になり、神道の関係から、権現様は禁止となりました。

明治時代の福重について
・1871(明治4)年7月大村県
・1871(明治4)年11月長崎県

役場を巡る住民の争い
 1901(明治24)年、水害で役場が流された後、役場をどこに置くかで「西側」と「東側」が争いとなり、村長選挙もかなり激しいものでした。その結果、福重村には、12年間役場がない期間がありました。このようなことは、一見大人しいと思われている福重の人から、想像できないことです。

 (このような住民の動きは、戦前海軍の飛行場建設が目的で、無理矢理大村市に合併させられた後、戦後になりその合併の意義がなくなったため、昭和24年福重村再分村運動が起こり、住民投票で分村賛成が勝利したことにも表れています。この再分村は、GHQの指令などにより結果中止させられました)

福重村出身の人物について
<濱田彪(はまだひょう)さん>
 福重村野田郷出身1870(明治3)年11月に一瀬信造さん(士族)の次男として生まれました。その後濱田家の養子となり、三菱造船所所長、常務、会長などを歴任されました。1929(昭和4)年今で言う「奨学資金」1万円を出資し、福重の学生を援助し、これとは別に松本寅一(元市長)さんの留学費用も出されました。また、東京の国際フレンドリー会館や長崎県立図書館設立の出資金も援助されています。

<岩永欽八郎さん>
 戊辰戦争(角館)時、一番隊の隊長として活躍されました。(戸長=村長にも就任)

その他、交通、橋などについて
・鉄道は、18998(明治31)年に開通。
・福重橋(郡橋)は、1886(明治19)年に架橋。
・バスは、1918(大正7)年に開通。

(第6回講座報告は、以上)

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