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紹介シリーズ
大村の経筒紹介シリーズ
 用語解説

 はじめに
 このページは、大村の経筒紹介シリーズと関係ある用語の解説ページです。それは、主に末法思想経塚経筒滑石製平安仏(単体仏)などです。ただし、後で、例えば関連の深い仏教用語を始め、寺院跡、地名なども補足するかもしれません。(注:この枠の背景色違いは見やすくしているだけで、特に意味はない)
末法思想とは
 末法思想について、広辞苑の解説によりますと、次の<>内通りです。 <末法思想
(まっぽうしそう)=末法に入ると仏教が衰えるとする予言的思想。中国では隋代頃に流行し、三階教や房山石経を生んだ。日本では平安後期から鎌倉時代にかけて流行し、人々を不安に陥らせる一方、仏教者の真剣な求道を生み出した。(広辞苑より)

 大村の場合、戦国時代
(大村純忠の頃) の天正2年(1574)に、キリシタンによる他宗教弾圧事件(仏教僧侶・峯阿乗の殺害、神社仏閣の焼打ち・破壊・略奪、木製仏像を燃やし、石仏なども破壊した行為を指す。この時、現・大村市内だけでも41の寺社が壊された記録がある)が発生しました。そのため、それまでの古代からの記録が全く残っていないため、全国的に流行した末法思想の件が、経筒滑石製平安仏を除き、文書類(古文書)などは、全くない状態です。

 そのため、大村での末法思想を語ろうにも、記述するにも古文書類からはできません。しかし、大村では末法思想の関係で建立された経筒
(現存6個)経塚滑石製平安仏(現存9体)は、経塚を除き現存していますので、後で解説していきます。なお、全国例では、この末法思想の件は、たくさん書籍類・ホームページ類に紹介してあります。大村とも関係がありますので、一部ながら次に紹介していきます。


  (後半原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



経筒とは
 経筒について、広辞苑の解説によりますと、次の<>内通りです。 <経筒(きょうづつ)=経典を入れて経塚に埋めるために用いる筒。多くは円筒形・六角形・八角形で、青銅製・金銅製・鉄製・陶製・石製。筒の周囲に多くは埋経の趣旨が刻される。(広辞苑より)>

 大村の経筒は、現存6基(個)です。この6基(個)は、単独の別ページで一つづつ紹介します。ここでは、その名称だけを、次から書いておきます。「弥勒寺の経筒」 「草場の経筒その1」 「草場の経筒その2」 「草場の経筒その3」 「御手水の滝(裏見の滝)の経筒」 「箕島の経筒」です。あと、現存はしていませんが、「経ヶ岳の経筒」は、建立年が江戸時代の(大村)郷村記に記述されています。

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経塚とは
 経塚について、広辞苑の解説によりますと、次の<>内通りです。 <経塚
(きょうづか)=経典を永く後世に伝えるため、経筒などに入れて地中に埋め納めて塚を築いたもの。上に五輪塔などを建てることもある。経石・瓦経なども埋納する。。(広辞苑より)

 大村で、経塚そのものについて、現在では存在が確認されていません。ただし、「草場の経筒その1、その2、その3」は、大村市草場町、如法寺跡の北側約100mの畑から出土したといわれています。このことから推測しますと同じ畑周辺から、3つの経塚があったのではないかと思われます。

 「箕島の経筒」は、当時あった箕島の箕島分校近くの小高い所から出土したといわれています。


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滑石製平安仏(単体仏)とは
 滑石製平安仏(単体仏)について、2008年頃よりの福重郷土史同好会の調査・研究結果と、仏像専門家の竹下正博 氏
(佐賀県立博物館、学芸員)「2017年2月4日、福重の石仏」講演内容や、<2019年3月1日発行の冊子「福重の石仏」への寄稿文>からして次の通りです。

 (1)滑石製平安仏の名称通り、建立年代は平安時代後期が中心で、一部の石仏は鎌倉時代初期などと思われる。
 (2)本石仏は、末法思想との関係で経筒を埋めた経塚の上に信仰と目印のために置かれたものと思われる。
 (3)石材は滑石または緑色片岩などで、この産地は大村の位置からして西彼杵半島産出と思われる。

 なお、念のため、「単体仏」という表現は、2008年頃より福重郷土史同好会が長年使用してきた名称です。特に、他の二体仏や三体仏などと区別するためでした。ただし、現在では、その紹介文で「滑石製平安仏」とか「滑石製平安仏(単体仏)」と表記し、名称の一例として「石堂屋敷の単体仏A」とか「草場の単体仏」とも書いています。


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弥勒とは
 弥勒(みろく)とは、広辞苑によると、次の<>内が解説されています。<弥勒
(みろく)=釈迦牟尼仏に次いで仏になると約束された菩薩。兜率天(とそつてん)に住し、釈尊入滅後56億7千万年の後この世に下生(げしょう)して、竜華三会(りゅうげさんね)の説法によって釈尊の救いに洩れた衆生をことごとく済度するという未来仏。弥勒菩薩。弥勒仏。>


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弥勒寺とは
 大村市弥勒寺町にかつてあった弥勒寺について、その場所は弥勒寺公民館の東側(現在、田んぼ)、当初は真言宗、寺領は約21石などは分かっているが、創建年は不明です。これらのことについて、大村市の文化財(改訂版)
<大村市教育委員会、2004年3月発行>と言う本には、弥勒寺跡について、次の< >内が記述されています。

  <弥勒寺跡 弥勒寺町公民館の裏手の水田の所にあった寺院です。郡七山十坊の一つで、建てられた時期は不明ですが、平安時代後期には寺の名が出ています。寺領21石といわれ、初め真言宗であったのが、貞治5年(1366)禅宗に変わっているようです。天正2年(1574)キリシタンによって壊されました。

 江戸時代になって、寺の名が地名となって残り、郷名となり、現在も町名となっています。3代藩主大村純信の時の.正保4年(1647)堂を建て、弥勒菩薩を祭り、寛保2年(1742)再建されました。(以降省略)>(弥勒寺跡の詳細紹介ページは、ここから参照)


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如法寺とは
 大村市草場町にかつてあった如法寺について、その場所は、大村市草場町、字
(あざ)「女法寺」の地名がある所です。石走川に掛かる草場橋から東へ約280m登った民家周辺で、逆に草場町公民館からならば南南西へ約350m下った所です。江戸時代に編さんされた(大村)郷村記の如法寺跡を現代語訳すると、次の<>です。

 <如法寺跡 (この寺は)草場(郷)にある。 (この場所は)大昔、寺地(と呼ばれている所)であって、古い石塔や石仏などが多数ある。 宗旨(宗派)は、(何宗だったのか)不明である。 寺領は、七石九斗四升と伝わっている。 (この寺は)天正年間(1573〜1592年)、キリシタンによって堂(建物)が破壊され、その後は在家となった。>

 ある仏像専門家によりますと、「如法寺跡は(別名)”経筒製造工場”みたいな寺」とのことでした。つまり、この如法寺跡近くの畑から、「草場の経筒その1、その2、その3」が出土したのは、先の言葉からして当然のことでした。 (如法寺跡の詳細紹介ページは、ここからご覧下さい)

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経典とは
 経典(きょうてん)とは、広辞苑によると、次の<>内が解説されています。<経典(きょうてん)教徒の信ずべき信仰内容や守るべき信仰生活の訓戒・規範を示した文献。仏教の教義の典拠となる書籍、キリスト教の聖書、イスラム教のコーランの類。>

 また、経文(きょうもん)とか、一般には「お経」ともいわれています。日本では平安後期から鎌倉時代にかけて末法思想が流行った頃、この経典・経文を書いて大村の場合、滑石製の経筒に入れて経塚(地面)に埋めました。これを埋経(まいきょう)ともいいます。なお、大村に残る現存6個の経筒には、いずれも経典・経文は残っていません。


埋経とは
 埋経(まいきょう)とは、広辞苑によると、次の<>内が解説されています。<埋経(まいきょう)経典を後世に伝えるため、書写して経筒などに封入し、経塚に埋納すること。また、その経典。>


(準備中)


 (初回掲載日:2019年1月29日、第二次掲載日:1月30日、第三次掲載日:2月2日、第四次掲載日:2月4日、第五次掲載日:2月9日、第六次掲載日:2月10日、第七次掲載日:2月11日、第八次掲載日:2022年6月15日、第九次掲載日: 月  日)
 

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