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郡中学校の敷地は元・第三五二海軍航空隊(草薙部隊)の跡地だった
(写真1) 1944(昭和19)撮影の「三五二航空隊(草薙部隊)
(出典:2015年度 大村市立史料館特別展の冊子「軍都」大村の歩みと市民~回顧1896ー1945~>の6~7ページ掲載写真より。トリミングし、一部CG加工した)
上(写真2) 1947(昭和22)年11月7日、アメリカ軍撮影の航空写真より郡中学校周辺のみをトリミングしたもの
左側に郡中中学校の短い校舎と、そのやや右側上下にも小さな校舎、さらに右側にも長い校舎が写っている。
運動場を挟んで、その右側は
後で長崎建設大学と呼ばれた校舎と思われる。 
郡中学校の敷地は元・第三五二海軍航空隊(草薙部隊)の跡地だった
(写真3) 2021年9月現在のグーグルアースより
中央部:現在の郡中学校の校舎・体育館・武道館・プール・運動場・テニス場など

概要紹介
 (写真1参照) 現在の大村市立郡中学校敷地は、戦前の一時期に存在した第三五二海軍航空隊=通称「草薙部隊」(くさなぎぶたい)の一部(沖田町側)跡地を利用して造られた。<第三五二海軍航空隊についての詳細は先のリンク先ページから参照>

 その敷地の南側(写真では、左端側)境界線は、(写真1)にある第三五二海軍航空隊(草薙部隊)文字の「航空隊」部分周辺である。逆に、北側(前同・右端側)の線は、兵舎の左端に黒い幅のように見える所である。

 北東側(写真では上側)の境界線は、白色線のように見えている道路=国道34号線の手前までで、この線は現在も、ほとんど同じである。西側(前同・下側)は、やや分かりにくいが、先ほどの三五二航空隊(草薙部隊)文字の下部(西側)に2本の白色のような道路の下側が境界線と推測される。

郡中学校の敷地は元の第三五二海軍航空隊=通称「草薙部隊」(くさなぎぶたい)跡地だった
 (写真1)と(写真2)を見比べて頂きたい。先に説明したように(写真1)には、撮影年(1944年)からして第三五二海軍航空隊(草薙部隊)隊舎敷地がそのまま写っている。(写真2)は終戦2年後の1947年11月7日、アメリカ軍撮影写真であるが、先の隊舎の一部はあるようだが、かなり減っていることが分かる。

何故なら、郡中学校が1947年4月1日に正式に開校した関係上、その前の準備期間も含めて徐々に学校の校舎として改築が進んだためと思われる。さらに、生徒数の増加にともない、校舎の棟数は、後年増えていった。これ以後は、校舎の変遷」、1957(昭和32)年の航空写真を参照願う。
(写真1) 注:この写真の説明は最上記写真を参照
(写真1) 注:この写真の拡大版や説明は,上から2番目写真を参照 
 
 ただし、(写真1、2、3)とも中央部に写っている運動場の場所などは、当初と現在も、ほとんど変わっていない。この運動場の南側(写真の右側)は、後で長崎県立建設大学校と呼ばれる長い校舎や運動場と思われる。(ここは現在、虹の原特別支援学校、さらにその右側(南側)は長崎県立ろう学校となっていった)

 以上のように郡中学校も、その周辺(特に南側)も終戦後から2024年現在で約80年近く経つので様々な変遷があったことは確かだ。そのような結果、この周辺は、先の3校を中心に、「学園地域」でもある。

郡中学校の敷地(運動場など)造りのため地元の献身的な努力について
 あと、郡中学校の開校(1947年4月1日)当初は、繰り返しになるが、元の第三五二海軍航空隊(草薙部隊)跡地隊舎を活用して始まったのも事実である。その後、生徒数の急増もあり、校舎も続々と大村市によって増改築された

 ただし、当初の運動場などについては、生徒が安心して運動できるように、元は飛行機の駐機場跡地を周辺地域に住む父兄や青年団などの多くの方々によって、手作業で苦労しながらも献身的に整地されたとの伝承も残っている。このように第三五二海軍航空隊の跡地を郡中学校敷地にすべく大村市・保護者・地域一体となって、戦後の混乱期ながらも中学校教育に力を注がれたのが良く分かる事例の一つといえる。

補足


(この原稿は、現在準備中。しばらく、お待ちください)



初回掲載日:2021年9月19日、第二次掲載日:2024年6月5日、第三次掲載日:6月8日、第四次掲載日: 月 日

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