日時:2012年6月6日13時10分〜 14時50分 場所:大村市桜馬場2丁目、桜ヶ原中学校・体育館 主催:桜ヶ原中学校 参加者数:約250名(中学1年生) 講師:寿古町の増元さん
主な講演内容:(下記は講演資料の概要で実物の資料はもっと詳細で、なおかつ講演時には写真などのスライド数十枚をスクリーンに映写しながらの話しだった。上記写真の右端は講演中の増元さん、左側全体は桜ヶ原中学校1年生の皆さん)
1)第21海軍空廠
・昭和16(1941)年10月1日に開廠(太平洋戦争開戦の2月前)
・東洋一のマンモス飛行機製造工場
・軍用飛行機の製造・修理、飛行機用エンジンの製造・修理
・工員住宅・寄宿舎
・昭和19(1944)年10月25日の大空襲でほぼ全滅 → 実働3年
・大村の人口推移
2)大村海軍航空隊
・大正11(1922)年に今津・大川田(現在の富の原)に開設
・飛行場、1100m×1200m(後で1600m×1400m)、芝生
・草薙部隊(くさなぎぶたい)、昭和19(1944)年8月 、空襲にそなえて戦闘機部隊を新設(現在の郡中学校付近)
・世界初の渡洋爆撃 昭和12(1937)年8月15日、大村航空隊から攻撃機20機が中国の南京を爆撃→世界初の海を越えた長距離爆撃 → 大村の名が全国に知られる
3)大村空襲
全国の空襲の状況、米軍機による日本本土爆撃。当初は軍事都市・工業都市を爆撃 → 後、都市部を無差別爆撃 →戦争と直接関係のない子ども・女性・老人を大量に殺害。(3.10東京大空襲では死者83,793人、268,000戸焼失)
大村空襲、主なものだけで18回、1944年末から終戦まで9か月間に数十回 → 警戒警報・空襲警報はほとんど毎日、出された
・大村が狙われた理由 → 海軍航空廠・海軍航空隊のある軍事拠点←戦争の勝敗は空軍力
10.25大村大空襲 、昭和19(1944)年10月25日 、B29爆撃機78機、中国の成都から来襲。午前9時55分から約2時間、航空廠を波状攻撃(爆弾・焼夷弾)
→航空廠の建物半分を破壊、死者272人(内、動員学徒70人)
→その後もたびたび空襲され工場疎開、飛行機生産不能へ
4)私の戦争体験
(内容省略)
5)戦時下の生活
(内容省略)
6)戦争と子ども
(内容省略)
以上の話しがあった。いずれ、準備できれば上記のような概要版だけでなく戦時中の大村の写真数枚も使って詳細版「大村空襲、海軍航空隊、第21海軍空廠、戦時下の生活など」のページ作成も検討していきたい。
|