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日時:2013年7月1日07時30分〜08 時30分 場所:大村市草場公民館、参加者数:全体で約30名、講演者:上野(福重郷土史同好会)
草場町の郷土史講演会の主な内容(概要)
1)松尾神社について
・元の松尾神社は、現在地より北方にあったと言われている。 ・条件は、1,水源地、2,見晴らしの良さで広域農道の直ぐ下付近か?
・創建は1548(天文17)年だが戦国時代にキリシタンに破壊された。
・江戸時代の1670(寛永17)年に再建。1918(大正7)年の旧暦9月28日建立の石祠もあり。改築を重ね現在に至る。福重村があった当時、今富の大神宮とともに村社だった。
・酒の神様としても有名。御手水滝の水を汲み、松尾神社で酒を造ったと言われている。
2)「大村原人」は高地に住んだ(草場町との関係)
1万3千年前、旧石器時代(野岳遺跡など)に住み始めた大村原人は標高200m〜300m位に住んでいた。木の実や野草を求めて家族単位で西は大野原から武留路、草場、野岳、立福寺、重井田、萱瀬を経て東は大多武あたりまで行ったり来たりしていた。
3)古代肥前国の官道(古代の道)跡が現存する草場町の中心道路
(1)馬込の水神(馬込水源)周辺が、古代の道と駅=新分駅(にきた、にいきた)と思われる。役人用に馬5頭が常時置かれた。馬には大量の水が必要で馬込水源が適した場所だった。
(2) 草場町に現存する古代の道と関係ある地名(字=あざ) ・馬込(まごめ)=宿場町(木曽路の馬籠宿が全国的に有名)と言う意味あり ・京辻(きょうつじ)=都(当時は佐賀大和に国府=首都があった)に通じる高い所と言う意味あり ・高縄手(たかなわて)=高くて真っ直ぐな道路と言う意味あり(役人の道は直線中心だった)
(3)現存する古代の道の道標=石立様その1、石立様その2(以上は旧・草場郷だった)、立石様(草場町)
4)末法思想(平安時代末期、鎌倉初期など)と関係ある単体仏、経筒
(1(単体仏は経筒を埋めた経塚の上に信仰と目印のために置かれた。
(2)草場町、弥勒寺町、福重町と合計約10体の単体仏が大村にはある。
5)戦国時代、江良城
草場には戦国時代に江良城があった。今富城の北方にある砦みたいな城だったのではないか。
6)戦前の草場郷の古写真
1941(昭和16)年10〜11月頃に撮影、兵隊への慰問袋用の福重村写真集(「銃後の郷土」より)
・草場郷の軍人家族 、・草場郷の男女青年団、・草場郷の国防婦人会などの写真
まとめ
・草場には松尾神社はじめ多くの名所旧跡がある。
・どこの家からも大村湾岸や夕日が素晴らしい風光明媚な所だ。(新しい家も増えている)
・人情細やかで皆で協力しながら様々な町内や松尾神社の行事をされている。
機会あれば、また呼んで下さい。いつでも、駆けつける。今日のご清聴に感謝申し上げる。
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講演終了後、「あんたは草場の者より、草場のこと知っておられるね」、「話しの内容は分かりやすく、ずっと聞いていた人が多かった」、「また、こんな話を聞いてみたい」などの感想を頂きました。草場町老人会の皆様、参加されて、お疲れ様でした。また、重ねて感謝申し上げます。
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