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大村市、郡地区にかつて存在した仏教寺院の名前と場所
(『おおむらの史記』18ページより。注:海・川・国道などは彩色加工した) |
牛頭天王とは、国語辞典の大辞林によると、< もと、インドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神。悪疫を防ぐ神として、日本では京都祇園の八坂神社などに祭られる。 >と、書いてあります。また、全国の仏像例では、その名のとおり仏様の頭の上に牛頭が乗っています。
また、祇園については、国語辞典の大辞泉には、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)=「須達(しゅだつ)長者が、中インドの舎衛城(しゃえじょう)の南にある祇陀(ぎだ)太子の林苑を買い取り、釈迦とその教団のために建てた僧坊。祇陀林寺。」の略された言葉と解説されています。
矢上の祇園牛頭天王(祇園寺跡)の場所について
右図=郡地方の寺院群をご覧願います。この図は、『おおむらの史記』(1982年9月30日、大村史談会青年部・発行)18ページに載っているものです。図の中央部に白水寺があり、その上側(北側)に祇園寺、あと右側(東側)に唐泉寺が、図示されています。
この祇園寺と同じ場所が、現在ある矢上の祇園牛頭天王です。そのことは、下記項目の大村郷村記に書いてあります。
大村郷村記の記述内容について
矢上の牛頭天王について、まず(大村)郷村記からの引用致します。下記の「 」内が、その文章です。(注:文章は続いていますが、分りやすくするため文章の区切りと思われる箇所に、スペース=空白を挿入しています)
「 矢上 一 祇園牛頭天王
神躰木座像彩色 例祭六月十五日 宮代富永弥七 妙宣寺勧請 氏子中祭之
神殿 壱間方 萱宇
拝殿 弐間梁弐間半 萱宇
石鳥居 壱基
石仏 弐躰
右石仏先年福重村百姓近右衛門と申もの寄進のよし申伝
境内入七間横拾間
当社は元砥薗寺と云寺地なり 天正年中耶蘇の徒破却 其後地主此所に社を建立す 享保七壬寅年九月十三日再興 開眼導師深重山七世本城院日春
・現代語訳
上記の大村郷村記を現代語訳しますと、下記 < >内の青文字通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。見やすいように太文字や改行など変えています。( )内は、私が付けた補足や注釈です。また、大村郷村記は、今回の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。
< 矢上 一つ 祇園牛頭天王
ご神体は彩色された木製の座像である。例祭は6月15日妙宣寺に来てもらって代表の富永弥七や氏子で祭っている。神殿は1.8メートル四方で萱(かや)ぶき屋根である。拝殿は横3.6メートル、奥行き4.5メートルの萱ぶき屋根である。石の鳥居が一基ある。石仏が2体ある。(先に述べた)右の石仏は何年か前に福重村の百姓である近右衛門と言う者が寄進(寄付)したものと言われている。
境内は入口から奥行まで12.6メートル、横幅18メートルである。 当社(祇園牛頭天王)は元、祇園寺と言う寺の土地だった。天正年間に耶蘇(キリシタン)信者の破壊に遭い、その後、地主がここに神社を建立し享保七(西暦1722)壬寅(みずのえとら)年9月13日に再興(再建)された。開眼(仏像に魂を招き入れること)は、深重山(妙宣寺)の第七世、本城院日春導師に来て頂いて執り行われた。 >
以上が大村郷村記関係の記述ですが、次に(2007年11月)現在、神社に掲げられている『社の由来』には郷村記以外に明治時代以降の再建や建て替えなどが書いてありますので、上野の注釈・補足も含めて次の「 」内に記述しておきます。
『社の由来』より
「 明治弐拾六(西暦1893)年12月に冨永興市より武蔵野寅七に所有権が移転した。昭和43(西暦1968)年10月老朽化のため萱葺き(かやぶき)から木造瓦ぶき屋根に改築した。この時の棟梁は冨永清巳である。ご神体の木坐像を(彩色の)修復を行った。氏子の協力を得て厨子(注1)もおこなった。平成三(西暦1991)年9月の台風被害により神殿拝殿ともに倒壊した。平成四(西暦1992)年7月、福重町の冨永清巳が神殿拝殿ともに寄進した。そのほかに氏子の浄財をもとに敷地内の整備をおこなった。 棟梁 吉田栄次 」
(注1):厨子とは国語辞典の大辞泉によると「仏像・舎利・経巻を安置する仏具。正面に両開きの扉をつける」である。
私は、この矢上の祇園牛頭天王(祇園寺跡)が近くにある福重幼稚園と福重小学校に7年間通いましたので、学校正門近くに何かあるなあとは思っていましたが、詳細は知らないままでした。それが、祇園牛頭天王(祇園寺跡)とは、福重郷土史同好会に入るまで恥ずかしながら知りませんでした。
(初回掲載日:2007年11月17日、第二次掲載と改訂日:2016年9月17日)
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