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大村藩領絵図の今富村の一部分(中央が「岩名ノ城」)
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字の「岩名」(中央の黄色部分) |
岩名城(いわなじょう)
この城の名前は、江戸時代、大村藩が作成した大村藩領絵図に図示されています(このページ右側上部の絵図左側に幅広くて薄い紺色に見えるのが郡川です。
その郡川から北東側(絵図では右側に)から流れて来ているのが、佐奈河内川(さながわちかわ)です。さらに、やや中央部から下側方向に薄く見えるのが野田川(絵図では山田川)です。なお現在、野田川はもう一本、この絵図の上流側に支流が用水路みたいにあります。
大村藩領絵図の今富村の部分)のほぼ中央付近(上野が薄い青の蛍光色で四角に囲ったところ)に「岩名ノ城」の文字が大変薄い文字色ですが見えます。
また、「岩」の文字の左横には”○”印みたいなものがあり、この地点が「岩名ノ城」のあった場所と推測できます。さらに、この「岩名ノ城」の西側(絵図では上部)に「尾ノ城」(=尾崎城のこと)が図示されています。
字(あざ)の「岩名」について、右側下の図に「岩名」と言う地名があります。この文字と、先ほどの「岩名ノ城」の文字は、ほぼ同じような位置関係と思われます。
あと、古文書や文献関係の記述について調べてみますと、江戸時代に作成された(大村)郷村記の福重村の巻には、尾崎城(現在は今富町)、好武城(現在は寿古町)、今富城(現在は皆同町)は記述されていますが、この「岩名城」については示されていません。その意味では、今のところ大村藩領絵図のみの表示と言えます。
地元での伝承がないかどうか、(2008年2月)現在調べていますが、今富町内の方々に聞いても「あの福重郷土史講演会で初めて聞いた」とか「知らなかったなあ」と言う話が多く、それ以外にないようです。
いずれにしても、今富氏が佐奈河内川(さながわちがわち)流域を支配していたとなると、かなりの面積だったと思われます。また、このことは、大村純治が1507年頃に本拠地の佐賀(藤津郡)側から大村側に進出してきたと言われていますが、それよりもずっと以前のことです。(掲載日:2007年8月15日)