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中央部の矢印周辺が岩屋権現跡 (写真はグーグルアースより) |
岩屋権現跡の場所について
この岩屋権現跡の場所について、上記にも紹介しています通り、今富町の冷泉寺集会場から南方向へ約40m行った民家の石庭(自然石が沢山おいてある築山)もしくは、その上側にある雑木林周辺と言われています。右側の航空写真について、岩屋権現跡の場所は、黄色の矢印周辺(写真説明文通り)です。
下記項目の大村郷村記に、字(あざ)の橋口にあると記述されています。また、地元でも、上記の写真に写っている所が、その権現跡と伝承されてきました。なお、この土地の所有者は、江戸時代、岩屋権現の宮守をしておられたご子孫にあたる方と思われます。ただし、大村藩領絵図には、場所(文字)が描かれていないようです。
あと、大村郷村記には、(現代語訳で)「権現と崇(あが)める丸い大きな石があり、その石には五六寸(15〜18cm)の穴があいている」という記述があります。私は、この内容もヒントに、その石の目星も付けました。
しかし、2016年8月現在、「この石が間違いなく、そうだ」と言える状況ではありません。(念のため、今後、判明すれば、この項目は補足、改訂を考えています)
大村郷村記内容について
岩屋権現について、復刻版=活字版の大村郷村記(発行者:図書刊行会、編者:藤野保氏)第2巻(福重村)119ページに記述されています。まず、その全文を下記の太文字で書いていきます。また、原文は、縦書きの続き文で旧漢字体などです。
念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。 なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。一文章が二行になっているところは( )内で表示もしています。なお、引用、参照される方は、必ず大村郷村記の原本から、お願いします。
橋口
一 岩屋権現 (神躰木立豫 例祭九月十三日 妙宣寺勧請) 岩永弥忠次一手祭
石祠
境内七問方程雑木山
当社は寛交年中建立 先年より権現と崇る石あり 丸き大石なり 其石に五六寸の穴あり 社もなし何の由緒もなき処なり 元社殿壱間方なり 破損ニ付天明四甲辰年石祠に再建 此社先年同郷百姓国平先祖夢相に依て此処に建立のよし申伝ふ
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手前側の石庭か上部の雑木林周辺が岩屋権現跡 |
・現代語訳
上記の大村郷村記を現代語訳しますと、下記 < >内の青文字通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。下記は、見やすいように太文字や改行など変えています。
( )内は、大村郷村記上で2行ある部分が一部あり、プラス私が付けた補足や注釈です。また、大村郷村記は、今回の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。
< 橋口 一つ 岩屋権現 (ご神体は木の立像=仏像である。例祭は9月13日で妙宣寺に来てもらっている) 岩永弥忠次が一人で祭っている。
石の祠(ほこら)がある。境内は約13メートル四方ほどで、雑木林である。
当社は寛文年間(1661〜1672年)の建立された。昔から権現と崇(あが)める石がある。丸い大きな石である。その石には五六寸(15〜18cm)の穴があいている。(今は)社殿もなく、なんの由緒(これまでの歴史などが記述された古記録)もない。
元あった社殿は約1.8メートル四方だった。破損により天明4(1784)年甲辰(きのえたつ、こうしん)に石祠(せきし)が再建された。この社殿は、昔、同郷(注:今富村の橋口のこと)百姓(ひゃくしょう)の国平の先祖が、夢想(夢判断)によって、この場所に建立したとの伝承がある。 >
補足
(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)
(初回掲載日:2016年9月3日、第二次掲載日:9月4日、第三次掲載日:9月5日、第四次掲載日:9月6日、第五次掲載日: 月 日、第六次掲載日: 月 日)
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