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福重の名所旧跡や地形

今富の高野大権現(今富町)
今富の高野大権現(いまどみのたかのだいごんげん) 場所:長崎県大村市 今富町
 はじめに、この高野権現は江戸時代、大村郷村記が編纂当時、所在地も祭っておられるのも野田郷(現在の野田町)でした。それで郷村記通りなら本来「野田の高野大権現」とすべきです。

 しかし、現在は所在地町名も祭っておられるのも今富町なので郷村記通りの表現なら複雑になりますので、あえて今富の高野大権現と言う呼称にしました。

  あと、郷村記には高野権現の項目に馬頭観音も記述されていますので併せて、ご紹介します。下記に
大村郷村記と国語辞典を引用しながら、今富の高野大権現馬頭観音を書きます。(左写真は、高野大権現の全景)
 権現とは、国語辞典の大辞泉によると、 1 仏・菩薩(ぼさつ)が人々を救うため、仮の姿をとって現れること。 2 仏・菩薩の垂迹(すいじゃく)として化身して現れた日本の神。本地垂迹説による。熊野権現・金毘羅(こんぴら)権現などの類。 と、書いてあります。

 馬頭観音とは、国語辞典の大辞泉によると、 《(梵)Hayagrva》六観音・七観音の一。宝冠に馬頭をいただき、忿怒(ふんぬ)の相をした観音菩薩(ぼさつ)。魔を馬のような勢いで打ち伏せ、慈悲の最も強いことを表すという。江戸時代には馬の供養と結び付いて信仰されるようになった。馬頭明王。  と、書いてあります。

  下記に大村郷村記を引用しながら、この高野大権現馬頭観音について、紹介します。下記の 内が、その文章です。(注:文章は続いていますが、分りやすくするため文章の区切りと思われる箇所に、スペース=空白を挿入しています)

  野田 高野大権現
 本地大日如来木座像 宮代善助 例祭九月七目 宝円寺勧請 氏子中祭
 石祠
 拝殿 弐間梁ニ 三間 萱宇
 石鳥居 壱基

高野大権現の馬頭観音
  馬頭観音
 
神躰石ニ切付 例祭十一月十九日 宝円寺勧請 百姓 勝五郎一手祭
 右者勝五郎祖父安次郎と申者依心願文化五戊辰年建立
 境内 入弐拾間横拾八間程

 当社は正保年中建立先年権現垂跡有し処と云伝 右神躰万治元戊戌年九月七日善之丞建立 願主一瀬伊兵衛善之丞并村中導師観音寺寛盛宝永七寅年再建 天明四甲辰年閏正月宮殿石祠に建立 享和二壬戌年三月拝殿一宇再建 今の社是なり 」

  上記を現代風に口語訳すると次の< >内の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の素人訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。

   野田 高野大権現
   ご神体は大日如来の木製の座像である。宮代(神社の代表)は善助で、例祭は9月7日に宝円寺に来てもらって執りおこない、郷中で祭っている。石の祠がある。拝殿は横幅3.6メートル、奥行き5.4メートルの萱ぶき(かやぶき)屋根である。石の鳥居が一基ある。

   馬頭観音
 ご神体は石に彫られている。例祭は11月19日に宝円寺に来てもらって執りおこない百姓の勝五郎が一人で祭っている。右の者=(百姓の)勝五郎の祖父で安次郎と言う者が神仏に心から願って戊辰(ぼしん=つちのえたつ)の文化五年(西暦1808年)に建立したものである。境内は、入口から奥まで約36メートル、横幅約32メートルほどである。

  当社(高野大権現)は、以前あったと言う権現跡の場所に、正保年代(西暦1644〜1647年)に建立された伝承がある。右のご神体は万治元(西暦1658)年、戊戌(つちのえいぬ)の年に善之丞が建立した。願主(ねがいぬし)の一瀬伊兵衛善之丞ならびに村中導師観音寺寛盛が宝永七(西暦1710)年の寅(とら)年に再建した。天明四(西暦1784)年の甲辰(きのえたつ)年に社殿と石祠を建立した。享和二(西暦1802)年の壬戌(みずのえいぬ)年に一棟(ひとむね)を再建し、これが現在の神社である。 

桜が綺麗な所と郷村記の補足
 この高野大権現は、春になれば桜が綺麗な所です。また、記憶あいまいなところもありますが、私の中学生の頃まで、境内横に大村郷村記にも「高野権現堤」と書かれていた堤(溜池)がありました。

 ここの堤は、その後埋め立てられ草地になっていますが、堤から水が出ていた所は今でも残っています。現在は、本来の境内と高野権現堤跡の草地が一体になっているために広い敷地(境内)に見えます。

 あと、はじめにも書いていますが、大村郷村記が書かれた頃、この高野大権現は当時の野田郷の地名(旧字で「高野」)もあり、当初は野田郷で祭っていたと思われます。それが、いつ頃から今富郷の地堂でまつるようになったのか、明確な伝承は残っていないようです。

 ただ、「今富郷の地堂には当時、権現様(神社)がなかったし、野田郷には本蔵大権現もあったので地堂でまつるようになったのでは」と言う方もいます。ここからは私の推測にしかなりませんが、当時、権現様が地堂になかったことと併せ、この高野権現の場所は坂の多い野田郷(野田町)の一番下側の端で、しかも高野権現堤の水利用が今富の人がほとんどだったからではないかと思っています。

(掲載日:2007年11月5日)


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