福重の名所旧跡や地形
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郡川、うなぎ塚、うなぎ漁(寿古町)
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郡川(こおりがわ)のうなぎ塚、うなぎ漁 | 場所:長崎県大村市 寿古町 |
大村市にある郡川のうなぎ塚とうなぎ漁の場所は、概要次の通りです。 郡川(こおりがわ、長さは15.9km、長崎県で長さ第4位、幅65m)の河口付近(寿古町と沖田町の境)です。この川に架かる郡大橋(こおりおおはし)の上流と下流付近で毎年おこなわれているのが、うなぎ塚とうなぎ漁です。 左写真は、うなぎ塚のある郡川河口周辺(右下がうなぎ塚) (注:下記掲載文章について、「郡川のうなぎについての歴史」の文章は、管理人の上野が作成し、それ以外の総ての原稿は大村市内在住の池田氏に執筆して頂いた原稿を一部修正したものです) |
郡川のうなぎの歴史について、まず確実な記述をご紹介します。江戸時代に大村藩が編纂した郷村記(通称:大村郷村記)福重村『川流之事』、郡川の項にうなぎのことが記述されています。その内うなぎの部分は下記の「 」内です。 「(前略) 孤川元来荒川にして(注1)鰻多く風味に佳なりと云」 (注1)文字は魚へんに「條」 上記の大村郷村記を現代訳すると次の< >の通りと思われます。< この川は元々荒川で、ハヤと鰻(うなぎ)も多く、味が美味しいと言われている > <注:これからの記述は、日比野光敏氏の著書『すしの歴史を訪ねる』(岩波新書)、『すしの貌』(大巧社)、『すしの事典』(東京堂出版)を参考に書いています> あと、この郡川のうなぎのことを指しているのかどうか、詳細に記されていないので分かりませんが、平安時代中期(905年=延喜5年)に編纂された『延喜式』(律令の施行細則みたいなもの)には、肥前国<佐賀県と(壱岐・対馬を除く)長崎県を指していた>のすしに「鮨鰻」と言う記述が見られます。 この肥前の「鮨鰻」の中に郡川のうなぎも入っていたのかどうか、不明です。ただし、肥前国(首府は佐賀大和)の(長崎県央の)役所=彼杵郡家(そのぎぐうけ)は、郡地区(大村市寿古町の好武城周辺)と言われ、この郡川の河口近くです。役人や人の往来から考慮すれば肥前国の「鮨鰻」に郡川のうなぎは全く入ってなかったとも言い切れません。 以上のように、あくまでも可能性として早ければ平安中期の肥前国の「鮨鰻」として登場し、確実には江戸時代の大村郷村記に書かれている時代くらいですから、実際はもっと古くから、うなぎがこの地域で食されていたと思われます。 郡川のうなぎ塚について 今インターネットで、この文章を見られている方は、「うなぎ塚」で検索して見て下さい。最初の方に大村市の郡川の「うなぎ塚」がけっこう表示されます。うなぎ塚の数は、郡川河口付近に約200個あります。毎年8月16日に近くの寿古町公民館で、抽選がおこなわれて塚が販売されます。 その権利は、8月16日から12月末日です。その間に雨が降る度に塚を開けて、うなぎを捕ります。うなぎ塚は、他に長崎県北の佐々川下流や川棚川にあります。でも、ぽつんぽつんとある位で、郡川ほど大規模ではありません。
江戸時代に平賀源内がうなぎ屋さんに頼まれて、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣になっていますが、うなぎの美味しい季節は秋です。梅雨時にはうなぎが釣れますが、秋にはうなぎは釣れません。 秋のうなぎ、つまり産卵に向かううなぎは体に栄養分をいっぱい貯めて、南海の産卵海域までの長旅にでます。梅雨時に釣れるうなぎは、食いだめをしている最中のうなぎです。その時に釣れるうなぎよりも、秋に丸々と太って産卵のために降りてくるうなぎが、本当は一番美味しいものです。 うなぎ塚の作り方 うなぎの塚は、川水と海水が交わる所に築きます。川底を約70〜80p掘り下げて、水がスムーズに流れるように船底形にします。そして、その中央に、直径20p位の石を約100個〜200個、積み上げます。 塚を築く方法にも、要領があります。まず丸く円状に石を並べます。川上に面する石は、大きく重く川の流れから塚を守ります。川下に面する石の間には、隙間を作ってうなぎが入りやすくします。そして円の中の一番底には、小さい石を敷き詰めます。 |