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福重の名所旧跡や地形

野田の六地蔵(野田町)
野田の六地蔵 場所:長崎県大村市 野田町
 この『野田の六地蔵』の所在地は、大村市野田町の峰さん宅(私有地)にあります。六地蔵の建立は、戦乱の続いた戦国時代のものが多いといわれます。(建立時期が不明のため)今回この説に基づいて記述しています。

(左写真は、野田の六地蔵)

 なお、今回このページ全ての字句で
六地蔵と言う表現を(大村)郷村記を参照して統一しています。しかし、全国では別名、六面地蔵六体地蔵とも言われて、その名前別に若干意味が違う部分もあります。でも、この地域では、いずれの呼び名も、ほぼ同様のこととして呼称されていますので、ご了承願います。

 
下記に(大村)郷村記を引用しながら、私の現代語訳と補足を紹介します。



 下記の 内が(大村)郷村記からの引用文です。(注:全文文章は続いていますが、分りやすくするため文章の区切りと思われる箇所に、スペース=空白を挿入しています)

  野田本倉  一 六地蔵

六体一石ニ切付 例祭十月廿四日 妙宣寺勧請  峰長左衛門一手際 
雨覆 三尺ニ武尺五寸 竹瓦
右地蔵長左衛門名地堤の脇に在り同人先祖建立のよし 年号不知  」


 上記を現代風に口語訳すると次の の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。

  野田の本倉に六地蔵が一つある。 一つの石に六体(六面)が切り付けてある。例祭は(毎年)10月24日である。妙宣寺に来てもらって峰長左衛門がまつっている。(六地蔵の形は)雨の覆い(おおい)があり、(全体の)高さは約90センチで(本体部分までは)約75センチである。竹瓦の屋根がある。 

 
上野の補足:上記の文章中で、特に「三尺ニ武尺五寸」は、私の現代語訳でいいのか不明です。あと、「竹瓦」(竹瓦の屋根)は、現在ありません。

お地蔵さんは堤の中から発見されたとの伝承
 この土地の所有者の峰さんのお話によると、「この六体地蔵さんは堤の中から出てきた」との伝承があるとのことです。(注:念のため、口頭による「伝承」は、石の碑文や古文書よりも常に真偽の点が、つきまとうそうです)

 あと、なぜ堤の中から出てきたとの伝承があるかについて書きます。これからはあくまでも私の推測ですが、大村純忠時代にキリシタンがおこなった(1574年の)神社仏閣、石塔類の徹底した破壊と関係あるのではないかと思われます。

 この六地蔵は一部欠けた部分もありますが、(上記写真の通り)六面が見えます。このような形をしたまま残ったのはなぜかの疑問もあります。これまた推測ですが、(石を壊すのはけっこう邪魔くさいので)キリシタンが破壊せずに(本倉堤ができる前にあったかもしれない)小さな堤にそのまま、お地蔵さんを投げ入れたかもしれませんし、また、キリシタンによる一斉破壊から、お地蔵さんを地面に隠したとも思われます。いずれにしても、真偽は分かりません。

 その後、江戸時代に入り野岳湖などをつくった深沢義太夫(ふかざわぎだいゆう)の二代目(弟の)深沢勝幸にて野田町内ある赤似田堤(あかにたつつみ)が寛文年代(1661年から1670年頃)に築堤されたと伝えられています。その2代目深沢義太夫は、赤似田堤の完成後の1679年から本倉地域の新田開発を進めていますが、この時に本倉堤を完成させたと言われています。

 以上のことを六地蔵の関係で時系列に並べてみますと、私の推測も含めて下記の通りになると思います。 
1)戦国時代(1500年前後頃) 六地蔵が建立された。
2)1574年の大村純忠時代、キリシタンが神社仏閣、石塔類を徹底破壊した。この時、この六地蔵は地面に隠されたか、あるいはキリシタンによって(本倉堤できる前の小さな堤かに)捨てられたのか?

3)1679年、本倉の新田開発の頃、本倉堤も完成した。
4)再発見時期は不明だが(本倉堤の完成後と思われる)秋や冬の時季たまたま溜池の水が空になった時、六地蔵が堤の中から発見された。
5)その後ずっと峰さんのご先祖さんが現在に至るまでまつってこられた。

6)江戸時代、大村藩によって編纂された大村郷村記に、この六地蔵が記述されている。
7)その後、現在に至る。

 六地蔵(六面地蔵)は、あと福重地区には野田町以外に今富町の武田さん宅、御手水の滝(おちょうずのたき、通称:裏見の滝)に同じ形式のものがあり、三つとも、円筒形の石の周囲に6体の地蔵を彫り込んだものです。

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<参考文章>(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
六地蔵
 日本では、地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。

 六地蔵の個々の名称については一定していない。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げている物もある。いずれにしても、像容のみからそれぞれの地蔵がどれに当たるかを判別することはほぼ不可能である。

 日本では、六地蔵像は墓地の入口などにしばしば祀られている。中尊寺金色堂には、藤原清衡・基衡・秀衡の遺骸を納めた3つの仏壇のそれぞれに6体の地蔵像が安置されているが、各像の姿はほとんど同一である。

(掲載日:2007年5月1日)



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