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石走の線刻石仏(CG写真)
石走の線刻石仏(CG写真)

石走の線刻石仏(元々は古墳)




(1)石仏名称  石走の線刻石仏
(2)所在地  大村市福重町、個人宅の裏庭(元々は古墳)<右上側写真、古墳の石棺の大きさ:高さ約121cm、横幅約185cm、奥行約105cm>
(3)石全体の大きさ  高さは約100cm、横幅は約115cm<右上側写真、奥の壁石に描いてある>(手前の4体は単体仏)
(4)仏様(線刻模様)の大きさ  高さ約95cm、横幅は約75cm(上左側写真通り上部と下部の線刻線は一部欠けている。また、見えにくい線もある)
(5)制作年代  詳細は、不明。
(6)主な特徴  納衣(のうえ)の下で拱手(きょうしゅ)した形(注)
(7)特徴点の補足  ・光背(こうはい)の模様線はある。 ・蓮華座(れんげざ)の模様線はない。
感想、その他
  私の個人的な感想ながら、線刻線の模様の出来栄えは、『弥勒寺の不動明王』、『上八龍の線刻石仏』、『下八龍の線刻石仏』の次が、この石走の線刻石仏と思われる。

  上右側写真でお分かりの通り、この場所は元々、古墳であり奥の壁石を利用して線刻石仏が彫られている。入口の左側側壁にも線刻石仏の線が一部あるが、これは練習あるいは失敗線と思われる。建立当時、どのようにして線刻作業をしたのか推測するしかないが、やりにくい場所で、「よくぞ、これほどの線刻線が彫れたなあ」と言うのが第一印象だった。

  場所の関係で、さらに言えば現在の町名で福重の線刻石仏は、この石走の線刻石仏を除き他は全部、弥勒寺町にある。その意味で、なぜ、一体だけ、この地にあるのか考えさせられるものである。

 あと、関係あるか、ないか明確になっていないが、この周辺は古代に創建された太郎岳大権現の「一の鳥居」があった場所付近でもある。(石走の道祖神も、この近くにある)分かりやすく簡単に言えば、この石走付近は、太郎岳大権現修験道の入口(登山口)に当たる。

<補足>上記左側の石走の線刻石仏CG写真についての注意
 この石仏自体はかなりの枚数を撮ったが、全部の線刻線が綺麗かつクリア―に出ている写真はなかった。また、石棺の蓋石(ふたいし)がかぶさっている関係上、線刻石仏の上部は暗く、逆に下部は太陽光線の関係上、明るいという状態での写真撮影であった。

 そのようなこともあり、線刻線が例えば、既に掲載中の『上八龍の線刻石仏』『下八龍の線刻石仏』に比べ全般に見えにくい中でのCG作業となった。特に、上部と下部の線刻線が、かすかな線しか判読できない部分も多くあった。そのため、他の線刻石仏のCG作業よりも、かなりの部分で推測しながら線を描くことになってしまった。

 この点は、ご了承の上、あくまでも上左側写真は参考程度に、ご覧願いたい。なお、線刻線の細部は当然違っているが、基本形としては、ほぼ『上八龍の線刻石仏』と模様は同じである。模様や形全体ならば、この石走の線刻石仏と『上八龍の線刻石仏』を見比べながら参照願いたい。

(注):納衣(のうえ)は粗末な衣類のことでボロ布で作った僧侶用の袈裟である。拱手(きょうしゅ)は中国式敬礼。「納衣の下で拱手した姿」は最上段のCG写真でも分かる通り、衣の下で両手で拝んでいる格好のことである。この姿が仏の何と言う種類か、2015年現在で専門家でも分かっていない。これを私達福重郷土史同好会では「福重の石仏 最大の謎」とも呼んでいる。大村市福重地区には同種の線刻石仏が合計13体ある。この件は、さらに継続、調査中である。

下記は関係ページ
『仏の里 福重』の石走の線刻石仏
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