福重のあゆみ、古墳時代
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野田古墳
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野田古墳についての概要説明 | 掲載中 |
野田古墳<長崎県埋蔵文化財調査集報 V長崎県文化財調査報告書第50集> | 掲載中 |
未発掘も含め野田古墳群について(聞き取り調査によると少なくても合計5基あった古墳) | 掲載中 |
野田古墳についての概要説明 野田古墳は、1962(昭和37年)3月長崎県大村市野田町(当時、野田郷)4332番地、福重久雄さん宅近く)の山林原野をみかん畑に開墾中、偶然、発見発掘されました。
その後直ぐ隣の人にも来てもらいさらに、大きい石のぐるりの土などを取り除くと、明らかに古墳の跡と分かり、大村市などにも直ぐ連絡したとのことでした。 なお、ここは開墾している場所でも山の上側に当り手作業中のため、古墳だと分かったのですが、その下側にはすでに重機で工事していたため、これと似たようなものもあったとのことでした。他にもこの当時あと数基古墳があったと思われます。 (しかし、その後残念ながら、長崎自動車道建設工事の時に全て壊されて、現在は残っていません。また、この道路工事中、この古墳以外にもほぼ似たような古墳があと2つ、近くから出たと町内の方は話しておられました。これは、推測ですが、最低でも合計3つですから、この付近一帯古墳群に近い状態だったのではとも思われます) |
この野田古墳は、多良山系から伸びた尾根づたいの標高80メートルの斜面にありました。ここから眺めれば遠くは西彼杵(にしそのぎ)半島、大村湾、郡川、佐奈川内川や平野部も見えます。下記の須恵器説明文の通り、この古墳は、7世紀頃のものと推定されていました。また、この近くには、水の湧き出る泉もあったそうです。 この古墳の主体は、両袖式の横穴式石室と言われています。大きさは奥ゆき及び幅とも約2メートルありました。この石室の上に天井板のような平たい石がかぶさり、さらにその上の盛り土が施され、墳丘のようになっていたとおもわれましたが、その大きさまでは当時確認できなかったようです。 |
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上記掲載写真と須恵器実測図は、同じものです。この須恵器は、当時の専門家の話しによると、7世紀頃のものと言われています。 (なお、この野田古墳より約1キロ離れたところにある『黄金山古墳』(今富町)は、5世紀頃といわれています) この須恵器についての分析した詳細な文書が残されています。その中で、左図では最上部(写真では上部)の杯蓋と同じくその下(写真では下側右)の杯身について、「胎土に若干砂粒を含むが、焼成は良い。灰色を呈する。」と記述されています。 |
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その後、まわりは、みかん畑に開墾されても、この古墳(石室)は、長崎自動車道の工事が開始されるまで、そのままにしてあったので、さらに何回か見る機会もありました。 私の大阪時代に高速道路の建設はおこなわれたようですが、せめてこの石室だけでも、近くに移設されて、保存されていれば、古墳時代ものを実際に今の子供たちが見れるのになあとも思いました。 今回掲載しました写真や図は、現物ほどの迫力はないかもしれませんが、この野田古墳のあらましを想像していて頂ければと思い、スキャニングして掲載致しました。 写真提供の福重さん、資料提供の長崎県教育庁学芸文化課久原資料整理室のご協力に、感謝申し上げます。 ・『福重のあゆみ、もくじ』ページは、ここから、お戻り下さい。 (下記の背景が薄き色の部分は全文が、 <長崎県埋蔵文化財調査集報 V長崎県文化財調査報告書第50集>の『野田古墳 』からの引用です。なお、説明文にある図は上記に掲載しています2枚の図面のことです。 |
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野田古墳<長崎県埋蔵文化財調査集報 V長崎県文化財調査報告書第50集>より 本古墳は、大村市野田郷4332番地にあり、周囲はみかんを植えた設々畑となっている。多良山系から西に向いて伸びた山裾の、南側に面した標高80mほどの斜面に立地し、南の方に向いて開口する。本古墳のすぐ上に立てば、西の方1qほどもなく樹木の茂った黄金山古墳があり、眼下には郡川、佐奈川内川の作った沖積平地が見渡せる。さらに大村湾とその向こうの西彼杵半島にも眺望がきく。 本古墳の発見はさほど古いことではない。土地所有者の記録によれば、「昭和37年3月」、「原野を開墾中」に発見されたということである。当時の状況を聞いたところ、みかん畑にするために、山林原野であったところに重機を入れたということであった。この際、この古墳に使用されているような石材の出たところがまだあったということであり、壊されたものもあったものと思われる。 遺物もここに図示しただけでなく、まだあったが、「昭和39年12月13日、九大教授其の他の調査団の鑑定」を受け、その日に「長崎博物館と大村市公民館に寄贈」されたとのことである。しかし、これらの他にもまだ野田古墳出土の須恵器があり、第10図4のように大村市内在住の人の所有になっているものもある。 羨道は東・西側とも1枚の石材を残し,上部は失っている。幅は1.4mほどで,玄門と同じく耐則石とも西側に傾いている。刺則壁では,この石の外側に,石材を立てて使用しているが,当初からのものかどうか若干の疑いが残る。石材の質は玄武岩である。 |
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未発掘も含め野田古墳群について(聞き取り調査によると少なくても合計5基あった古墳)
あと、このミカン畑開墾当時壊された2基の古墳の石は、直ぐ近くの農道(現在、大村市道)工事とも関係しています。右写真の『農道開設記念碑』をご覧下さい。裏側の碑文を見ますと「昭和39年12月起工、昭和41年3月竣工」となっていますので、この記念碑は1966(昭和41)年の3月頃に建立されたものです。 この記念碑は、この農道との関係からか「先に壊された古墳の天板にあたる石が使用された」と近所の方は言っておられます。写真で見るとおり、天板にもってこいの平らな形状をしています。 発掘調査を受けた野田古墳1基の規模や形態は、大村市指定史跡になっている小路口本町の『鬼の穴古墳」とほぼ同じでした。しかし、大村市の指定史跡や保存などになっていなくて、立て看板や案内板さえも設置されず、放置された状態でした。 それから約20年後、高速道路・長崎自動車道の工事がありました。この周辺の工事年月日の詳細は不明ですが、1982(昭和57)年11月17日大村〜多良見間が開通、1990(平成2)年1月26日大村〜武雄北方間が開通していますので、これより工事は以前です。 結果、高速道路工事で古墳の移設や移動もされず、(立て看板や目印もなかったため)工事関係者も知らずに残っていた野田古墳1基も壊されてしまいました。同時に、この道路建設時この野田古墳の西側の下方当たり(上記イメージ図の左側の二つのマークです)に、さらに新たに2基の古墳がブルドーザーなどにより、壊されました。この時、表面に土器なども見受けられたと近所の方は証言されています。
しかも、5基とも大村市指定史跡の『鬼の穴古墳」とほぼ同じ規模や形態で共通していました。さらに古墳の向き=入口も5基とも同じだったと証言されています。このことから野田古墳は1基ではなく最低でも5基、しかもほぼ同じ規模や形態の古墳群だったと思われます。 (追加文掲載日:2007年1月20日) |
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