聖宝寺跡の遺跡発掘調査 現地説明会(概要報告)
期間:2021年10月23日10:00~11:00 場所:長崎県大村市竹松本町1113-4周辺(聖宝寺跡発掘場所)
主催:大村市教育委員会 参加数:(目算で)約110名(市教委7名、見学者100名以上)
注1:聖宝寺の読みは「しょうほうじ」で統一
注2:このページの掲載写真は順不同。写真整理番号には何の意味もない。
概要:下記は、現地説明会で配布された資料を引用・参照し、さらに説明された内容含めて書いている。
(1)名称:聖宝寺跡(しょうほうじ あと)
(2)所在地:長崎県大村市 竹松本町1113-4周辺
(3)調査主体:大村市
(4)調査:竹松駅前原口線道路改良工事に伴う埋蔵文化財調査
(5)主な説明:
今回の成果:戦国時代の寺院(聖宝寺跡)の発見
概要紹介:(詳細内容は後で記述し、発掘場所や遺物の写真も多数掲載予定)
この聖宝寺跡の発掘作業は、周辺の市道改良工事前に大村市教育委員会がおこなった。この聖宝寺跡の場所について、現在は大村市竹松本町である。実は、昔の地名の字(あざ)に「聖宝寺」がある。そのくらい明白であったが、ある意味「ピンポイント的に昔の寺院跡が分かるのは珍しく、注目に値する」との説明も聞いた。また、竹松の地元の方の話しによると、長らく、「ここ周辺には聖宝寺の寺院跡があるとの言い伝えがあった」とのことであった。
次に、この聖宝寺の創建(開山)の年代は、正確には不明ながら大村市内では古い寺院群(奈良・平安時代含め一部中世時代早期頃まで)と違っていた。今回の発掘遺物によって、それが中世(戦国)時代に創建され、1574(天正2)年のキリシタンによる破壊により一旦消滅し、江戸時代に再建されたことが明白となった。
先の事柄から建物跡も新旧大別すると「中世時代当時の基礎部分(柱穴や基礎石など)」と、「江戸時代の再建当時の基礎部分」と、二つの時代であった。また、その基礎(建物基底部)の高さ調整のため、石の大きさ・段数や土の高低差も見えていた。さらに、この発掘場所からは、16世紀頃の中国景徳鎮産の腕(わん)や、17~18世紀の陶磁器なども出土したので、そられらの展示もしてあった。
なお、聖宝寺の石高(こくだか)は、1574にキリシタンから焼き討ち破壊されるまでは、(年間)174石あったが、江戸時代の再建後は、4石であった。
以上のことから今回の特徴点や成果を一言でまとめると、次の<>内と思われる。<発掘場所・遺構・遺物などから、戦国時代の寺院(聖宝寺跡)が発見された>
なお、 今後、まだ周辺部の発掘作業は、続くとのこであった。
出土した遺物の写真と説明
下記の出土した遺物の写真は、2021年10月23日に撮影したものである。写真解説文は、遺物の入ったガラスケース内の紹介文、配布された資料、あるいは説明者の話しなどをもとに簡単に書いたものである。なお、写真の掲載順は、順不同であり、写真整理番号には何の意味もない。
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(遺物写真A)
土師器(はじき)、小皿(こざら)
14世紀中頃~15世紀前半 |
(遺物写真A)
上段の左側:青花 皿(中国景徳鎮窯) 16世紀〜17世紀
中央:青花 皿(中国漳州窯) 16世紀〜17世紀
右側:青花 碗(中国漳州窯) 16世紀中頃〜17世紀後半
上記の読み:青花(せいか)、景徳鎮窯(けいとくちんよう)、皿(さら)、
漳州窯(しょうしゅうよう)、碗(わん)
下段の左側:青花 碗(中国景徳鎮窯) 16世紀中頃〜16世紀
中央:黒釉陶器 壺(中国産か) 時期不明
右側:青磁 碗 (中国龍泉窯系) 13世紀前半
上記の読み:黒釉陶器(こくゆうとうき)、壺(つぼ)、青磁(せいじ)、
龍泉窯(りゅうせんよう) |
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---------(写真は準備中)---------
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---------(写真は準備中)---------
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(遺物写真C) |
(遺物写真D) |
---------(写真は準備中)---------
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---------(写真は準備中)---------
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(写真E) |
(写真F) |
聖宝寺跡の発見の意義と重要性など
(この項目の原稿は準備中。しばらくお待ちください)
---------(写真は準備中)---------
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(写真7) |
(この項目の原稿は準備中。しばらくお待ちください)
---------(写真は準備中)---------
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(写真8) |
現地説明会での質疑応答
(この項目の原稿は準備中。しばらくお待ちください)
上野の感想など
(この項目の原稿は準備中。しばらくお待ちください)
・参考ページ
(第一次掲載日:2021年10月26日、第ニ次掲載日:11月4日、第三次掲載日:2022年7月26日、第四次掲載日:8月2日、第五次掲載日: 月 日、第六次掲載日: 月 日、第六次掲載日: 月 日)
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