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大村の歴史
薩摩芋の栽培は肥前が早かった

「唐芋」の輸入と栽培は薩摩より肥前が約10年早かった(薩摩芋の歴史、サツマイモの歴史、さつま芋の歴史)

 全国的にサツマイモは、薩摩から広がってきた作物として有名です。しかし、今回私は、長崎から江戸へ 象の旅(著者:石坂昌三氏、新潮社、出版:1992年5月)と言う本を読んで薩摩芋=サツマイモの歴史について興味深い記述を見つけました。大村とも関係がありますので、今回ご紹介します。

 その記述は、この本の47ページ後半から48ページ前半にかけて書かれています。念のため、本は縦書きです。なお、この象は将軍吉宗に献上するため、1728(享保13)年6月に長崎港に来て、その翌年3月から長崎街道、京都や東海道などを経て5月に江戸に着きました。

サツマイモ(イメージ写真)
 大村には、1729(享保14)年3月14日諫早から鈴田峠を越え、その日は大村に泊まり、次の日の15日には郡川の飛び石を起用に渡り、松原宿を通っています。次の< >内が、本からの引用です。

 (矢上村で泊まった後) < (前略) 諫早まで四里。昼食を摂り、林を抜け、鈴田峠の登り道を草を分けるようにして進み、急坂を下って大村に着いた。この日は合計八里を歩いた。

 象は大村で、赤い根を貰うと大喜びで食べた。「唐芋」、薩摩芋である。後年、吉宗は明の帰化人系で幕府の書物奉行となった長崎の深見有隣(ありちか)の上申で飢饉対策に、青木昆陽に命じて浜御殿、吹上御苑、小石川御薬園に試作栽培させ、関東一円に広めて多くの人命を救うことになる。ちなみに享保十九年に肥前大村藩主純富は、大岡越前守の要請で薩摩芋三百斤八箱を幕府に献上している。

 薩摩芋といわれているが、実は薩摩より肥前の大村の方が先に入っている。平戸の英国商館長リチャード・コックスが、元和元年、(一六一五)に中国から伝わったという芋の種を琉球から持ち込み、商館の畑に植えたのが始まりで、たちまち肥前の台地に広がって作られるようになった。ちなみに薩摩が琉球から取り寄せて移植したのは寛永二年(一六二五)のことであった。 (後略) >  (引用を終わります)

サツマイモの呼び方は、「大村芋」か「肥前芋」になっていたのかしれない?
 上記の引用文の通り、唐芋は薩摩よりも10年も早く1615年に平戸に輸入、栽培され、それから一気に大村を含む肥前全域に広まったのでしょう。それから約120年後、大村藩第7代藩主・大村
純富(すみひさ)が、1734(享保19)年に芋三百斤=約180kgを幕府に献上しています。この年と同じ(1734年)に青木昆陽は「薩摩から薩摩芋を取り寄せ栽培した」と従来から記述がされています。

 しかし、同じ年の話ですから、もしかしたら「薩摩から取り寄せた」のではなく、大村
純富が幕府に献上した(仮に)「大村芋」か「肥前芋」を使って青木昆陽は栽培した可能性は全くないのでしょうか。ただし、この時期は既に薩摩でも広範かつ大量に栽培されていたでしょうから「薩摩から取り寄せた」説も充分ではあるのですが。

 歴史に「もしも」は禁物なのでしょうが、もしも青木昆陽が江戸で本当に「大村芋」か「肥前芋」を使っていたら、全国的には「サツマイモ」の呼び方は、ずいぶん変わっていたのかもしれません。

 江戸時代、ほかの藩では米が取れない飢饉や害虫などで困難だった時、大村藩はそのようなことはあまりなかったと言われています。それは、いち早く栽培したサツマイモの恩恵と、鯨(くじら)の油が害虫対策になったからと推定されます。いずれにしましても、サツマイモは約390年前から数多くの人を飢饉から救い、栄養面からも助けた優良作物と言えるのではないでしょうか。

(掲
載日:2007年6月29日)

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