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福重郷土史同好会
2005年の活動報告(2)
佐賀県白石町史跡巡りと
生涯学習課の方との懇談

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佐賀県白石町史跡巡りと生涯学習課の方との懇談
手前:歌垣公園、山頂:肥前犬山城
須古城(隆城、高城)跡
須古寿し

日時:2005年12月12日07時45分〜16時30分
内容:白石町史跡巡りと生涯学習課の方との懇談
参加者:3名(増元、中村、上野)
応対者:白石町教育委員会生涯学習課の方

1)主な史跡めぐり
・肥前犬山城(展望台)  ・歌垣公園
・水堂安福寺=通称:水堂さん(みっとうさん)
・須古小学校横の史跡案内板
・三近堂コミュニティセンター(須古鍋島家屋敷跡=三近堂)
・須古城(隆城、高城)跡
・杵島神社

肥前犬山城(展望台)
 この展望台は、標高342mの杵島山山頂「犬山岳」にあり晴れた日には、佐賀平野、有明海、福岡県・熊本県も見えるが、この日は雪で近景が少し見えた。ここから白石平野にこんもりした小さな山が三つ見えるが、その中央が須古城跡である。

歌垣公園
 この公園は杵島山にあり常陸の筑波山、摂津の歌垣山とならび日本の3大歌垣である。歌垣とは古代、男と女が神の棲む山に登り歌を詠み交わし踊り互いに求婚したこと言う。万葉集に「あられふる 杵島が岳を険(さか)しみと草とりかねて 妹(いも)が手をとる」と詠われている。

水堂安福寺=通称:水堂さん
 境内の案内板によると水堂安福寺の開山は奈良時代の聖武天皇の頃(726年)と言われ、平重盛にまつわる石塔があった。

須古小学校横の史跡案内板
 この案内板と地図は、須古城の由来が書いてあり分かりやすかった。このまわりは戦国時代、牟田で百町歩もあり、猛将の竜造寺も攻めにくかったと言う。(下記に案内板の全分を掲載)

須古鍋島家屋敷跡
 現在コミュニティ施設になっているが、庭には池や石などが残っていて屋敷跡らしかった。

須古城(隆城、高城)跡
 平井経治(?〜1574)が城主だった頃「九州の熊」とも恐れられていた竜造寺が攻めたが難攻不落だった。永禄6年(1563年)より数回失敗したが、ついに3度目の天正二(1574)年の戦いで、平井氏は滅亡した。

杵島神社
 隆造寺隆信の弟・信周(のぶかね)が須古城に入り、須古鍋島家の始祖となった。杵島神社は三代領主・茂周が始祖を祀って宗社としたものと言われている。

(須古寿し)
 
史跡訪問ではないが、昼食時間となり大村寿司と良く似ている須古寿しの弁当を食べた。寿しの高さと具の違いはあるが、作り方も見た目も味も似ていた。大村寿司も須古寿しも同じ肥前の国、須古踊(大村の寿古町も江戸時代までは”須古郷”と呼称し当然踊りの名前も同じ「須古踊」と呼んでいた)の名称の共通性などから、両寿司には何らかの関係があるのかもしれない。

2)生涯学習課の方との懇談
 白石町教育委員会生涯学習課の方より13時15分から15時15分まで、長時間に渡り多方面から教えて頂いた。また、数多くのことをお聞きしたが、主な内容は須古踊、須古城主だった平井氏、その後の須古鍋島家などについてだった。

須古踊について
 須古踊の記録が残っているのでは、寛永14(1637)年江戸城西の丸、徳川家光の前で合計29名踊った記録が最後でその後絶えている。この江戸城での上演記録は踊りや衣装の記録まで詳細に残っているが、むしろ特別なものと思われる。

 須古から伝わっている長崎県大島の須古踊(念仏踊りの様式)などは、歌詞の冒頭「めでたき御世・・」などは同じであるが、たぶんに本来の須古踊と違うと思われる。今となっては、どれが当初の踊りか分からない。

須古城(隆城、高城)について
 須古城の築城や起源は、不明だが、たぶんに12世紀頃と思う。難攻不落だったのは、城まわりが掘や牟田(百町)だったこと、さらにこの城以外に近くに二つ(杵島城、男島=小島城)があったためと思われる。「隆造寺は4回城攻めをした」と言われているが、実際は3回である。本丸跡に古墳らしきものがあるが、あれは古墳ではない。

須古鍋島家について
 平井経治を滅ぼした隆造寺隆信も島原で戦死し、その後この須古を支配したのは、隆造寺隆信の弟・信周(のぶかね)→改名後、周光(ちかみち)で、須古鍋島家の始祖となった。善政をおこない地元では「宋桂(そうけい)さん」と親しまれている。ちなみに鍋島家の分家の当主は、邑主(ゆうしゅ)と呼ばれている。

3)まとめにかえて
 白石町(の旧・須古村)と大村市の福重との関係は、以前の福重郷土史講座報告に概要次の通り書いた。最低4事例の共通性(1.寿古踊と『須古踊』、2.寿古(
江戸時代までは”須古郷”)の地名と『須古村』、3.大村寿司と『須古寿司』、4.弥勒寺町の妙宣寺初代住職の出身地は『須古村』)があり、何か深い結びつきを感じると。

 今回実地を歩きまわり大村寿司と同じような須古寿しも食べてみて、これまでの文章だけではない何か地域全体の雰囲気の共通性も感じた。例えば寿古町の好武城跡(郡川の湿地帯に埋め立て用として長年に渡り相当土砂が取られたため当初より相当低くなっているが)と、白石町の須古城(隆城、高城)跡も戦国時代にタイムスリップしたとして想像するなら似た雰囲気があるなあと思った。

 また、大村市立福重小学校は1872(明治5)年に開校してから1891年の水害に合うまで好武城跡の前にあった。白石町の須古小学校は須古城跡の前に建っていて、もしも福重で水害がなかったと仮定して明治時代の小学校を想像するなら、これまた状況が似ているだろうなあと思った。いずれにしても白石町は、色々な角度から興味を引く所だった。 

(報告書は以上、下記は須古城址説明文)

須古城跡説明版(左後方が城跡)
右側:地図(須古小学校の校門横に設置)
須古城址の案内板(説明文全文)
須古城址
 戦国時代にはいると、我が郷土は、小城の千葉氏と高来の有馬氏にはさまれて、戦場と化すことが多かった。千葉氏は家来の平井氏を須古にとどめ、有馬氏に備えた。後、平井経則は、有馬に組し杵島の地を支配した。

 平井氏は、居城を高城(のち隆城ともいう)に定め、城濠を南、北共に百町牟田まで延長して、周囲をかこみ、大手口から搦手(からめて)に通じる城郭には、一間の土堤を巡らし、尚南には二重濠になったげす殻土手を築いて防備をかためた。

 又、搦手以西の百町牟田を、浅瀬でも泥濘(でいねい)膝を没して渉る(わたる)ことができない地とし、これも利用した。更に、西に杵島城、東に男島(小島)城を配備し、高城の両翼とした。

 当時、九州の諸豪と相競いながら勢力の拡張をはかっていた龍造寺隆信は、有馬氏に応じていた須古高城の城主平井経治をうつことにした。かくして永禄六(1563)年から天正二年(1574)にかけて十二か年の歳月をついやし平井経治の居城高城を落城させることができた。

 隆信は、五州二島(肥前、肥後、筑前、筑後、豊前、壱岐、対馬)の太守として君臨していたが、有馬攻めが意の如く進まないので、急遽、島原に出陣したが、地形を利用した島津・有馬の計略にかかり、惨憺たる敗北を喫し、隆信は戦死した。時に、天正十二年(1584)三月二十四日未の刻、行年五十六才であった。

 隆信戦死後、舎弟龍造寺信周(のぶかね)(須古鍋島家始祖・杵島神社祭神)は、須古城に入城、南・北外濠を埋め、百町牟田を排水し、溜池を築造して、良田百余町を開拓した。

 右の地図は、安政三年(1856)につくられたもので、往年の城郭の構造を、そのまま見ることはできないが、この須古城は、北及び東の第一防衛線に六角川と有明海があり、西と南には杵島山を背にして百町牟田があり、将に周辺の自然をうまく利用した鎮西の要害であった。
白石町教育委員会

掲載日:2006年10月9日
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