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福重郷土史同好会
2007年の活動報告(3)

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福重郷土史講演会、講師:大野さん
満席の会場
第2回福重郷土史講演会・報告
日時:2007年2月10日13時00分〜15時15分
場所:福重住民センター大会議室
参加者:80名
1)司会者挨拶:増元さん
2)主催者挨拶:吉本さん
3)講師紹介:増元さん
4)講演:大野安生さん
 テーマ:福重の遺跡や古墳について
福重の多くの遺跡や古墳は、福重の人に何を語りかけているのか

(上野注;2時間近くの講演内容を簡潔にまとめるのは難しいので、特徴的な内容のみを掲載している)

(1)今富町の岩名遺跡は大村市内最古の縄文集落で中南部九州系土器群縄文早期後半(約7000年前頃)であった。

(2)沖田町にある黒丸遺跡は農地形成と大農耕集落が発生した。その規模(100〜120ha)も大きく、内容も素晴らしいもである。

(3)木材の発掘が多数あり、縄文時代、沖田には森林があり木が茂っていた。

(4)『ガタスキー』が発掘され大変珍しいと言うことと。沖田は沼地・湿地地帯であったことを意味する。

(5)『黄金山古墳』は長崎県に一つしかない特徴のあった古墳である。大和王権(大和政権)に影響を受けた人がまつられていたと思われる。たぶんに地元の豪族と言うより大和王権から来た人とも思える。(その後できた東彼杵町の『ひさご塚古墳』は従来の地元古墳の造りに戻っている)破壊されていなければ国指定古墳になった可能性がある。

(6)竹松地区小路口町の『鬼の穴古墳』は、前方後円墳の可能性があるかもしれない。

(7)ある大学教授の言う「沖田にあった6町四方の彼杵郡家(そのぎぐうけ、肥前国の郡役所跡)」の造りは、沖田の面積からしてあまりにも大き過ぎて、その説は違うと思われる。

(8)(彼杵郡家は沖田にあったと言うより、むしろ)寿古の好武城跡に、ぴったり2町四方の造りがある。しかも当時の陶磁器の遺物などが多数出土しており、彼杵郡家は好武城跡の可能性が高いと思われる。

(9)古代の道は軍事道路で真っ直ぐな道が多い。真っ直ぐに作るため切り通しの道も多くあった。

(10)寿古の好武城跡からは中世(戦国時代)の遺物が出土していない。従来から、大村純治が好武城を築いたと言われてきたが、その可能性は低いと思われる。
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<質疑応答> 講演後、若干の質疑応答があった。(内容省略)
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アンケートの特徴) 「分かりやすかった」、「再度、大野氏の講演を望む」との意見が多かった。

(報告書は、以上)

掲載日:2007年2月22日
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