史跡巡り報告
日時:2009年11月18日 08時50分〜14時50分
場所:川棚町、東彼杵町 参加者: 7名
1)史跡跡巡りコース
・川棚町
(1)特攻殉国の碑 (2)川棚魚雷艇訓練所跡 (3)弁天島 (4)薬師如来像 (5)片島魚雷発射試験場跡 (6)百津聖観音、塩釜大明神 (7)城山公園 (8)川棚町のキリシタン墓碑 (9)川棚町郷土資料館
・東彼杵町
(10)東彼杵町のキリシタン墓碑
2)各史跡の概略紹介
(1)川棚町、特攻殉国の碑(新谷郷)
第二次大戦(太平洋戦争)中、川棚町小串郷で魚雷艇隊の訓練をおこない、その後特別攻撃隊でなくなった方々を顕彰する碑です。この顕彰碑の近くに震洋特別攻撃隊(木造の小型高速艇に爆薬を設置して敵艦に体当たりする)の模型が置かれていました。
(2)川棚魚雷艇訓練所跡(新谷郷)
この魚雷艇訓練所の跡は、小串湾の一角にあります。現在、湾内にコンクリートの四角形の起重機の基礎が見えます。当時は桟橋があり陸地と繋がっていたようです。
(3)弁天島
惣津の漁港から目算で約300m先の沖合に浮かぶ弁天島にモーターボート船で渡りました。島の周囲は100mもないような小島ですが、海岸線近くに鳥居があり、そこをくぐりながら階段を上ると弁天様の石の祠がありました。弁天様は、銅製でした。
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片島魚雷発射試験場跡(川棚町三越郷)
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川棚町のキリシタン墓碑(下組郷)
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(4)薬師如来像(小串郷)
土盛りしたような、こんもりとした所の上に、この薬師如来はありました。
(5)片島魚雷発射試験場跡(三越郷)
ここの案内板には、次の< >内のことが書いてありました。 < 片島魚雷発射試験場跡 佐世保鎮守府が開庁されて間もなく、海軍工廠が佐世保湾の北岸 に開設された。この工場で製造される魚雷を実地に発射試験するために大正七年(一九一八年)川棚村 三越郷の片島に魚形水雷発射試験場が設置された。
発射した魚雷の進行状況を頂上の観測所から観測し性能試験を 行った。 太平洋戦争勃発後、昭和十七年 (一九四二年)川棚に分工廠が設置さ れたことに伴い、魚雷発射場の施設がさらに拡張され、その際に片島は海峡が埋め立てられて陸続きとなった。 平成十八年(二〇〇六年) 川棚町教育委員会 >
ここには、陸地側に今では倉庫跡のようにも見える魚雷発射試験場本部跡、海岸沿いに監視所みたいな施設が2か所ありました。本部跡の建物は壁が一部石造り、床がタイル張り、近くにタンクのような設備もありました。陸地から突き出た監視所へはアーチ式の橋になっていて、なかなかの風情になっていました。(右上側1番目写真参照)
(6)百津聖観音、塩釜大明神
ここの案内板には、次の< >内のことが書いてありました。 < 百津聖観音と塩釜火明神 百津聖観音は百津郷の鎮守で、寛永十四(一六三 七)年九月・郷内の松山平(現在の川棚駅前)に創祀されたが、明治二十九年頃九州鉄道長崎本線の建設に際して現在地に奉還された。観音像は高さ四十八糎、閻浮檀金(えんぶだごん)という希有の金属で作られたという伝誦もある。
塩釜火明神はかつての塩田の守護神で当初百津古浜(現在日本ハム一帯)奉祀していたものを、 嘉永年間に大村藩が塩の専売のため新に十三町歩(ha)の新浜(現在東芝セラミック工蝪一帯)を 開いたので、その一隅(現在五島鉱山工蝪の東南隣)に還したが、海軍工廠新設によって昭和十七年更に現在地に奉還したものである。 昭和六十三年度川棚町教育委員会 >
(7)城山公園(城山町)
ここからは、かつての「川棚海軍工廠」が、ほぼ全部の建物や施設などが見渡せたと思われる良い眺めでした。
(8)川棚町のキリシタン墓碑(下組郷)
ここの案内板には、次の< >内のことが書いてありました。 < キリシタン墓碑 長碕県指定史跡 大村藩では明暦三年(一六五七)の郡崩れ( 郡村を中心に数百名の隠れキリシタンが発覚、処刑された)のあと、領内のキリシタン墓は 徹底的に破却されたが、元和八年(一六二二 )に没したこの富永二介の妻の墓碑は奇しく もその難を免かれたのである。
常在寺の過去帳に明麿二年に死亡した富永治介の名があるが、この過玄帳は一度書き直しされていて、そのとき二を治に書き違えたのではないかとと云われている。 墓碑の中央・〜は略の意で、その下はクルス、 ○の下MACi(マンシア)はキリシタン名 と云われが異説もある。このような和洋折衷様式の墓碑は全国でも珍しいという。 一九八五年 川棚町教育委員会 > (右上側2番目写真参照)
(9)川棚町郷土資料館
ここには、川棚町指定文化財の永仁5年銘緑泥五輪塔(有形民俗文化財)などが展示されていた。概要の説明は、「鎌倉時代末の永仁5年(1297)に、源長盛の後家尼・比丘尼法阿が逆修のため生前中に造立したもので、長崎県では一番古い五輪塔である」とのことであった。あと、以前使用されていた農機具、生活用品その他、現在ではほとんどみかけないようなものが展示されていた。
(10)東彼杵町のキリシタン墓碑(瀬戸郷、庄屋公園内)
ここの案内板には、次の< >内のことが書いてありました。 < 県指定有形文化財 東彼杵町のキリシタン墓碑 昭和三十七年十一月八日 向って左側の石碑は、花十字と「元和七年卯月 一瀬志ゅ阿ん(ジュアン)」 右側の石碑は、梵字と「寛永二十年」の銘が彫られている。 元和七年(一六二一)は三代藩主大村純信のときで、キリシタン 弾圧が激しくなろうとする時代であった。
キリシタン墓碑は徹底的に破壊されたため、旧大村藩内に現存するこの手の墓碑は少ない。 この墓碑は、個人の屋敷内(瀬戸郷・一瀬修平宅)にあったもので、 平成一二年に所有者から町に墓碑が寄贈され、現在地に移設した。 県内に残る百余基の多くは無紋無名で、花十字・年号・氏名を 有する墓碑は少なく、キリシタン資料として重要な価値がある。 東彼杵町教育委員会 >
史跡巡りの概要報告は、以上です。
次回の例会
日時:12月15日18時〜
場所:(今富町で懇親会兼ねておこなう)
(以上)
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