(寿古町公民館)郷土史講演会例会報告
日時:2012年11月25日13時30分〜14時40分 、参加:35名 、場所:寿古町公民館
講師:上野、増元
講演内容(概要):
1)竈(かまど)権現
釜(鍋)の破片がご神体だったが、三宝荒神を祀っている。<三宝荒神=不浄を忌み、火を好むというところから、近世以降、かまどの神として祭る。荒神。>
(1)創建---------------不明
(2)江戸時代の再建------(江戸時代初期)寛永19(1642)年
(3)
明治維新-----------神仏分離令で破壊 (神仏習合の大村での特徴点二つ紹介)
(4)明治時代の再建------明治36(1903)年、奉献塔と寄付氏名控えが証明 奉献塔の碑文=明治36(1903)年正月、建立者=中尾吉三郎 寄付氏名控えと年月が一致
(5)水害に遭っていない---竈権現(地蔵も壊れていない)
2)鳥居の額束(銘板)が二つある謎
銘板<正式名称は額束(がくづか)>が、何故二つもあるのか? (ただし大村郷村記には「石の鳥居1基」とある) 推測ながら何故かの理由は、江戸時代のものと、戦国時代のものかもしれない。
3)竈権現前の地蔵=江戸時代の建立記録の分かる地蔵では“大村市内最古級”
地蔵の建立年=寛延3(1750)年、拓本作業結果の新発見が(下記)二つある。
(1)江戸時代の建立記録の分かる地蔵では“大村市内最古級”(現時点では最古だろう) (ただし、戦国時代の六地蔵=六体地蔵=六面地蔵は、大村市内には多い)
(2)大村郷村記の記述間違い。郷村記には「寛延二年」(1750)と書いてあり間違いである。 全体、スマートで形が良く、破損も少なく水害に遭ってないことの証明にもなる。
4)大日堂
・天正2(1574)年、僧侶の峯阿乗(みね あじょう)がキリシタンによって殺害された。
・峯阿乗は逃走中に捕まり殺害後、便所に捨てられた。その後、大村家に祟った。
・正保4(1647)年5月、(大村藩3代藩主純信の時)大村彦衛門純勝が大日堂を建てた。
・以降、ずっと峯家系と寿古町の下川原の人達とで祀っている。
5)峯阿乗の碑=殺害された344年後、峯7家系で建立された記念碑
(1)キリシタンによって殺害された峯阿乗には3人の息子(武将)がいた。(3人は下記参照)
・峯釆女(みね うぬめ)は、弟の弾正(だんじょう)とともに菅無田(すがむた)合戦で戦死。
・峯弾正(みね だんじょう)は、兄とともに菅無田合戦で戦死。当時、尾上城の城主だった。
・峯将監(みね しょうげん)は、郡村に住んでいた。三城の籠城戦などの合戦に参加し活躍。
(2)記念碑は峯釆女・弾正・将監からつらなる子孫の峯(峰)7家系によって大正7(1918)年に、建立された。実に殺害されて344年後のことである。
・峯(峰)7家系の状況(現在分かる情報の範囲内で。福重ホームページ閲覧のご子孫からeメールで連絡があった)
まとめ:これらの史跡は何を現代に語っているのか
・地域のまとまりの良さがある。
・防災上の心得にもなっている。
・政教一致政治は絶対ダメである。日本国憲法第20条の政教分離の原則は正しい。
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(補足や感想など)
質疑応答時、竈権現と大日堂などについて5名ほどの方から質問や情報など活発に行われました。その後、私の方へ10人近くの方から感想や意見なども寄せられました。主な感想の次の通りでした。
・(テーマが町内の史跡でもあり)身近な内容だった。
・今回は話も質問も活況があった。
・また、講演会の機会あれば聞いてみたい。
・拓本展示は実物(の史跡)が分かりやすい。
ご参加された寿古町、皆同町、市内の郷土史愛好家の皆様、大変お疲れ様でした。また、福重郷土史同好会が、このような講演会を企画しました機会に、よろしく、お願いいたします。
(以上)
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