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福重郷土史同好会
2016年の活動報告(5) |
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鈴田小学校での郷土史講話(概要報告) 「全校地域学習」
日時:2016年11月10日09時15分〜10時50分 、 講話担当:5名 、 場所:鈴田小学校 |
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・下級生に教えることは良いことで、すばらしいこと 先生から皆(みな)さんは、下級生(かきゅうせい)におしえるために、今回(こんかい)しらべているときいた。人へ、おしえることは自分も勉強(べんきょう)しないと、おしえられないし、たいへん良いことで、すばらしいことだとおもう。ぜひ、がんばってほしい。
(1)名前(なまえ)、 (2)年月日(ねんがっぴ)、 (3)場所(ばしょ)、 (4)目的(もくてき)、 (5)だれが作ったのか など このようなことは、むずかしいことではない。たとえば自分におきかえてみて、(1)は自分の名前、(2)は自分の誕生日(たんじょうび)の年月日、(3の場所は自分が現在住んでいる所、(4)の目的は、鈴田小学校で勉強することなどと同じである。 ただし、全部(ぜんぶ)がぜんぶ、史跡(しせき)の記録(きろく)は、そろってあるわけではない。上記のことが分からないことが多い。だからこそ、しらべるし、そこが、おもしろいのかもしれない。また、このような項目(こうもく)は、下級生(かきゅうせい)から質問(しつもん)も、おおい内容(ないよう)かもしれない。あと、分からないこともおおいので、その点は「分からない」と書いた方が、正しい。 ・史跡(しせき)とは 今日(きょう)は、鈴田の史跡(しせき)の話で、この言葉(ことば)が、たくさん出てくる。史跡(しせき)の国語辞典(こくごじてん)の解説(かいせつ)は、かえって難しい(むずかし)ので、下記のことではないかとおもう。 史跡(しせき)=歴史(れきし)のあった、ある場所(ばしょ)のこと。 1,記録(きろく)に書いてあるところ。 2,言い伝えがあるところ。 など 下記からは、上記の講話の主な内容と、各班から出た質問と、それに対する答えなどである。 |
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いつできたか、分からない。ただし、江戸時代 (えどじだい)の初期(しょき)と言われている。石のほこらのまんなかに、「文政」(ぶんせい)九年」の文字(もじ)がある。西暦(せいれき) 1826年に、このほこらは、たてられた。 鈴田の名前のきっかけ=田んぼから出てきた鈴のはなし ・地主大明神(ちゅうずだいみょうじん)近くの田んぼから鈴(すす)が出てきた。それを、きっかけに、それまでの今里村(いまぞとむら)から、鈴田村(すずたむら)にかわった。 ・鈴(すず)の意味(いみ)=清水(しみず)、わき水---豊か(ゆたか)な水のある水田(すいでん)---コメなどがたくさんとれるところ <質疑応答(しつぎおうとう)> Q1:最初(さいしょ)からあったのか? A1:最初(さいしょ)から、ここにあったのかは分からないし、記録(きろく)もない。あの広さと鳥居(とりい)があることからして、元(もと)は建物(たてもの)があったとおもわれる。 Q2:なんの神様(かみさま)か? A3:最初(さいしょ)は、なんだったのか、分からないし、記録(きろく)もない。ただし、文字の「地主」からして土地(とち)をまもる神様(かみさま)だったともおもわれる。 |
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この鈴田牢屋(ろうや)跡については、様々な説がある。場所について、陰平町にあったことまでは正確(せいかく)である。今回は、普通(ふつう)に言われている説を話したい。江戸時代(えどじだい)はじめから、つよくキリスト教(きょう)は禁止(きんし)された。 鈴田牢屋(ろうや)は、元和(げんな)3年(1617年)より同8年まで、一つの牢屋(ろうや)に30数名のキリシタンを閉じ込めた。せまい部屋(へや)のため横(よこ)になって寝ることもできなかったという。ここで、2名が亡くなった。 スピノラ神父(しんぷ)ら25名は、元和(げんな)8年9月9日長崎へ送られ、翌(よく)10日西坂(にしざか)で殉教(じゅんきょう)し、フランコ神父(しんぷ)ら8名も9月12日大村の放虎原(ほうこばる)で、殉教(じゅんきょう)した。 (別途、CG写真を示しながら)大きな十字架(じゅうじか)のある広場にあるプレート= 平面図(へいめんず)には、広さは、「5.6m×3.6m」とある。ただし、『大村市の文化財』の本には、 「6.6m×4.6m」との説も書いてある。いずれにしても、たいへん、狭(せま)かった。 悲しいできごとではあるが、このような犠牲(ぎせい)もあって、今の日本では、どんな宗教を信じても自由となったとおもう。 <質疑応答(しつぎおうとう)> Q1:見張り(みはり)は、いたのか? A1:見張り(みはり)は、いた。CG平面図(へいめんず)にも管理棟(かんりとう)の文字(もじ)があり、かならずいた。 Q2:だれが、つくったのか? A2:大村藩(おおむらはん)と、おもわれれる。 Q3:牢屋(ろうや)は、何で出来ていたのか? A3:普通(ふつう)の民家と同じように、木、かわら、竹、壁(かべ、土)などで出来ていたおもわれる。さむかったと言われている。 Q4:なぜ、鈴田につくったのか? A4:なぜ、この場所(ばしょ)につくったのか分かる記録(きろく)がない。この牢屋(ろうや)は長く使われず、あとで大村城下(じょうか)に新しくつくられたといわれている。 |
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この鬼の石の場所(ばしょ)は、小川内町の墓(はか)から直線(ちょくせん)で西へ200メートルくらい行った畑の脇(わき)である。石の大きさは、高さ約4.5m、横幅(よこはば)約8mくらいある大きな石である。 この鬼の石については、「鈴田小学校100周年記念誌」の114ページに書いてある。それによれば、おもに次のとおりである。 鬼(おに)がフンドシ(したぎ)に石をのせて、鈴田の谷(たに)をわたっていたところ、ポロリとおとしてしまったので、「鬼の石」とよばれてきた。 みなさんも、鬼の石に先生と行かれた時に、巻尺(まきじゃく)で測って(はかって)みてほしい。そうすれば、良く分かると思う。 <質疑応答(しつぎおうとう)> Q1:いつ、できたのか?(言われてきたのか?) A1:それは、記録(きろく)がないので分からない。しかし、火山(かざん)からできたものともおもわれる。何万年、何十万年も前のことであろう。 |
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上野の感想 鈴田小学校は、「平成28年度 全校地域学習実施計画」という冊子を発行されています。その計画の「ねらい」に「(1)鈴田地区の自然や歴史的遺産にふれながら歩くことを通して.『郷土の自然や歴史く の興味・関心を高める。 (中略) (4)異学年集団の中で活動することにより相手を思いやる気持ちを育てるとともに,協調性や協力性を養う。協力し合い工夫しながら活動していくことにより、互い良さを認めあう。」などと書いてあり、大変良い内容だと思います。 私も、今回、1項目1班ごと、合計3班に鈴田の史跡について話しましたが、いずれも児童は真剣な眼差しでした。また、鈴田小学校児童の評判は、地域の方からも事前に聞いていましたが、改めて素直で真面目だと実感しました。むしろ、講話した私が、児童に教えてもらったと思いました。質疑応答含めて、一緒に勉強して良かったです。今度、下級生に現地で教える日が、天気が良くて、成果が出られますように祈念しています。 最後に、今回の「地域学習」(郷土史講話)に出席された皆様、お疲れ様でした。 (以上) |