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挨拶中の妙宣寺・ご住職 (右側は2基の拓本) |
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手前側は熱心に聴講中の仏子会の皆様、中央奥で講話中は上野 |
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左側から大村権七郎の墓、山口幸太夫祖母の墓 |
妙宣寺(仏子会)での講話(大村権七郎の墓碑など)の概要報告
日時:2017年2月13日 10時00分〜10時30分
場所:妙宣寺・本堂(大村市福重町)
参加者:33名
講師:上野(福重郷土史同好会)
講話の議題
1)大村権七郎の墓碑
2)山口幸太夫祖母の墓碑
内容:(概要のみ。墓碑の文字解読の話が中心だった)
最初に、ご住職から概要次のような話があった。上野の紹介があった。そして、以前から大村の殿様と関係ある墓があることは知っていたが、昨年(2016年)墓碑の調査を依頼したなどであった。
上野の方からは、今日の報告・発表の場を設けて頂いたことに感謝の言葉を述べた。そして、今回は講話時間(30分間)の関係上、調査した2基の墓碑で、主に最も大事な文字解読を中心に話すことを申し上げた。
既に、詳細調査報告書(ほぼ完了)もあるので、多くの方に知って頂きたいため、いずれ大村市役所、報道、郷土史愛好家などへ、公表(発表)する予定であることを述べた。
<2基の墓碑の場所>
1)大村権七郎の墓碑、2)山口幸太夫祖母の墓碑の場所は、妙宣寺・位牌堂東側の小高い丘の上に現在並んだ状態で立っている。(右側3番目写真参照) ただし、ご住職の話によると、1)の墓碑は元のままの場所だが、2)の墓碑の方は、少し下側付近にあったのを現在地に移設したと言うことであった。
1)大村権七郎の墓碑
この墓は、土台含めた全体で高さ約2メートル50センチある。正面にある3行の文字で、中央の「南無妙法蓮華経」の大きな文字は、肉眼(目視)でも見えている。しかし、他の小さな2行の文字は、判読しづらい状態である。そのため、昨年(2016年)4月に拓本作業を実施した。
その結果、全文読めることになった。命日は1661年5月13日である。あと、この墓碑内容を記述した(江戸時代、大村藩が編さんした)大村郷村記は、何か所も転記ミス、あるいは記入間違いがあることが、今回分かった。
大村郷村記によれば、この大村権七郎は、大村藩第四代藩主・大村純長(すみなが)と、当時の郡村の山口氏=妾(めかけ)との間に生まれた子どもであると言う。その関係もあり、この地に墓が建立されたようだ。
2)山口幸太夫祖母の墓碑
この墓は、土台含めた全体で高さ約1メートル50センチある。正面にある3行の文字は、(白いカビみたいな地衣類がこびりついているので)ほとんど見えない。そのため、昨年(2016年)4月に拓本作業を実施した。
この墓碑については、大村郷村記に記述されていない。だから、拓本からの文字解読など、全て一からおこなった。その文字の中で、石工の独特な省略文字みたいなことから、山口幸太夫の「幸」が、「泰」にも似ている。今回は、「幸」で統一して表現している。
2基の墓碑に彫られている命日には、(新旧)23年間の差はある。しかし、「同じ山口氏」、「同じ郡村の在住」、「同じような墓の場所」などからして、上野の推測ながら2基の墓碑には関係があると思っている。
注:以上は概要のみである。1)大村権七郎の墓碑、2)山口幸太夫祖母の墓碑についての詳細報告書は、A4サイズ約5ページに作成しているので、いずれ公表(発表)あるいは、このホームページにも同内容を掲載予定である。
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(上野の感想)
妙宣寺のご住職はじめ仏子会(檀家の会の一つ)の皆様には、今回の講話を熱心に聞いて頂いた。また、上野作成の表裏2ページの墓碑2基の概要報告も、ずっとご覧になっていた。そして、講話終了後、「話が分かりやすかった」とか、「また、聞いてみたい」など、評価と励ましの言葉も数名から賜った。皆様へは、改めて感謝申し上げたい。
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