紹介シリーズ |
大村の経筒紹介シリーズ |
箕島の経筒 |
箕島の経筒(みしま の きょうづつ) 概要紹介 <注:このページを書くにあたって、主に参照したのが、次の説明文や論文です。 大村史談・第七号(大村史談会1972年3月発行)の表紙写真とその表紙解説。 大村史話(下巻)「箕島の今昔」(志田一夫氏)。 本ページは、その部分を省略して概要のみを記述しています。そのため、もしも、引用・参照される場合は、必ず原本からお願いします>
まず、旧・箕島(みしま)は長崎空港ができる前まで、大村市の扇状地(陸地側)から約1km先の大村湾に存在した島です。その島から、大正時代末期頃に山口亀太郎氏が、当時あった西大村小学校・箕島分校の上部(丘)の畑から発見しました。 箕島の経筒は、滑石製です。全体の大きさは高さ45cm、周囲97.5cmです。 形は、円筒ですが蓋(ふた)の部分は、八角形の笠型をしていています。八角の形状は、(長崎県内や大村市内にある)経筒の蓋として、珍しいといえます。 経筒の中に入っていたはずの経文(経典)は、現在では全て紛失しています。しかし、発見当時の経文には、文治元年(1185)との銘(めい)が書かれいたようで、それを書き写したことにより、この経筒の建立年代は、先の年号がいわれています。 ただし、全体の出土状況や詳しい内容は、不明のようです。なお、この箕島の経筒は、現在、大村市立史料館に所蔵されています。大きさは、右側を参照願います。この石材は、滑石で推測ながら大村の距離的位置から西彼杵半島産出のものと思われます。 ・建立年代について この箕島の経筒の発見時に経文の銘(めい)年は、「文治元年(1185)」です。この年は、源平合戦の「屋島の戦い」「壇ノ浦の戦い」などのあった頃ですから、平安時代の末期あるいは鎌倉時代の初期です。私が学んだ歴史教科書には、「鎌倉幕成立は1192年(語呂合わせで「1192年」=いいくにつくろう鎌倉幕府」)と習った記憶がありますが。このことはさておき、この年代の前後は、一方では大きな流行があった年代でもあります。 それは、末法思想の大流行です。 (後半原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) (初回掲載日:2019年4月21日、第二次掲載日:10月18日、第三次掲載日: 月 日) |