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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 矢櫃・這坂(やびつ・ へーざか)

(史跡説明板)矢櫃・這坂(やびつ・へーざか)
 名称:矢櫃・這坂(やびつ・へーざか)  様式:説明板
 場所:大村市 平町(ひらまち)  設置者:住みよい町づくリ「チーム鈴田」
 設置年:2020年3月31日(令和2年3月31日)  GPS実測値:32度53分59.73秒 130度00分38.52秒
 全体の大きさ:高さ150cm、横幅70cm  (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm  グーグルアース用数値:32°53'59.72"N,130°00'38.52"E
(写真1) 中央部:矢櫃・這坂史跡説明板 (写真2) 左端側:矢櫃・這坂跡史跡説明板

史跡説明板写真周辺の説明
 (右下部のを参照) この項目、写真説明の前に史跡説明板に掲示されている絵2枚を参照願います。このは、今回紹介しています矢櫃(やびつ)這坂(へいざか)について、大変分かりやすいです。先に、このをもとに言葉の意味などを補足も含めて書いていきます。

絵:左側「矢櫃(やびつ)」と、右側「這坂(へーざか」(史跡説明板より)
(写真3) 這坂周辺の山(現地は急角度の斜面。奥側方向が諫早方面) 

・矢櫃(やびつ)とは
 (二つのの内、左側参照) は広辞苑の解説によれば「武具また狩猟の具。弓の弦(つる)につがえて弾力によって射る」とあります。(ひつ)は、(前同)「什器の一つ。大形の匣はこの類で、上に向かって蓋の開くもの」です。つまり、矢櫃(やびつ)とは、矢を入れて背中に背負っていた(ひつ)=籠(かご)のことをいいます。

 この場合、身軽になって逃げやすいようにするため、諫早軍が(戦国時代には大事な武具の一つだった)の入った(籠)を捨てたということです。たぶんに、命からがらの逃走だったのでしょう。(でも分かる通り、矢櫃や弓を捨てて逃げています)

 そして、このようなことから、(写真1、2)に写っています史跡説明板の裏面方向=鈴田川の西側の場所が「矢櫃」と呼ばれ、その後、地名として字(あざ)の「矢櫃(やびつ)」となったと考えられます。

・這坂(へーざか)とは
 (二つのの内、右側参照) この絵は、矢櫃(やびつ)を捨てた後、鈴田川を渡ったら直ぐにある急な這う(はう)ようにして諫早軍が登って、必死に逃げている状況を描いてあるものです。共通語でいえば、これは「這う坂(はうさか)」ですが、大村弁で言えば「這坂(へーざか)」と発音したと思われます。そして、長年、地元で、この急な坂のことを、「這坂(へーざか)」と伝承され、定着してきたのでしょう。

・掲載写真の説明
 (写真1、2)に写っています史跡説明板の裏側方向の山周辺が、(上記の絵の説明通り)「矢櫃(やびつ)」といわれている所です。そして、この周辺の地名が、字(あざ)矢櫃となっています。これは、先に紹介した通り、戦国時代の「三城七騎籠り(さんじょうしちきごもり)の戦い」で敗走した諫早軍が、この山や谷での入った(ひつ)=籠(かご)を捨てたことを由来にして、長年地名として呼ばれてきたのでしょう。

 (写真3)は、先の2枚の写真とは、逆の方角で史跡説明板の正面側(諫早方向)の斜面です。この写真では、雑木林が繁っているため分かりずらいですが、現地は、かなり急角度であることが確認できます。このような急斜面を先の絵=「這坂」のように這う(はう)ようにして必死に登ったので、「「這坂(へーざか)」と呼ばれてきたのでしょう。ただし、ここは、地名=字(あざ)までは付いていないようです。

史跡説明板の内容
 このページ(写真1)の中央部、(写真2)の左側に白く写っています矢櫃・這坂跡の史跡説明板には、、下記< >内の青色文章が書いてあります。その説明板を拡大したのが、右側下段の(写真4)です。

 なお、(写真4)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。

(写真4) 平町、矢櫃・這坂の史跡説明板(本体部)

 < 矢櫃(やびつ)・這坂(へーざか)
 鈴田川の上流、横山の谷に入った現在地から正面の大舟尾
(おおふなお)に登る中腹に矢櫃(やびつ)、背後の古田(ふった)の辻(今の「みどりの園」が見える丘)に至る中腹には、這坂(へーざか)という地名があります。

 元亀三年(一五七二・戦国時代)に、武雄・平戸・諫早の軍勢が大村純忠の居城である三城城を攻めた(三城七騎籠りの戦いの)時、純忠の家臣の一人、横山の住人(現在の平町一九七八番地)冨永又助が巧妙な策によって、諫早軍の総大将大渡野(尾和谷)軍兵衛を切りつけ、諫早勢は命からがら逃走しました。

 その際、諫早軍が武具全て、矢櫃(矢を入れる箱)まで捨て去って下ったところから、そこを「矢櫃
(やびつ)」と呼び、また、這うようにしてよろけ登ったので、「這坂(へーざか)」というようになったと言い伝えられています。
   
出典・『鈴田小学校創立百周年記念誌』より

 令和二年三月三十一日
 住みよい町づくり「チーム鈴田 >


補足



  (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)



(初回掲載日:2020年4月23日、第2次掲載日:5月7日、第3次掲載日:5月11日、第4次掲載日:5月13日、第5次掲載日: 月 日) 


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