史跡説明板の内容
このページ(写真1)の中央部、(写真2)の左側に白く写っています矢櫃・這坂跡の史跡説明板には、、下記< >内の青色文章が書いてあります。その説明板を拡大したのが、右側下段の(写真4)です。
なお、(写真4)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。
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(写真4) 平町、矢櫃・這坂の史跡説明板(本体部) |
< 矢櫃(やびつ)・這坂(へーざか)
鈴田川の上流、横山の谷に入った現在地から正面の大舟尾(おおふなお)に登る中腹に矢櫃(やびつ)、背後の古田(ふった)の辻(今の「みどりの園」が見える丘)に至る中腹には、這坂(へーざか)という地名があります。
元亀三年(一五七二・戦国時代)に、武雄・平戸・諫早の軍勢が大村純忠の居城である三城城を攻めた(三城七騎籠りの戦いの)時、純忠の家臣の一人、横山の住人(現在の平町一九七八番地)冨永又助が巧妙な策によって、諫早軍の総大将大渡野(尾和谷)軍兵衛を切りつけ、諫早勢は命からがら逃走しました。
その際、諫早軍が武具全て、矢櫃(矢を入れる箱)まで捨て去って下ったところから、そこを「矢櫃(やびつ)」と呼び、また、這うようにしてよろけ登ったので、「這坂(へーざか)」というようになったと言い伝えられています。
出典・『鈴田小学校創立百周年記念誌』より
令和二年三月三十一日
住みよい町づくり「チーム鈴田 >
補足
(この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)
(初回掲載日:2020年4月23日、第2次掲載日:5月7日、第3次掲載日:5月11日、第4次掲載日:5月13日、第5次掲載日: 月 日)
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