大村の史跡説明板・案内板シリーズ | 経塚と陰平町の寺跡(きょうづか と かげひらまち の てらあと) |
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史跡説明板の内容
< 経塚(きょうづか)と陰平町の寺跡の史跡説明板 陰平町には、陰平上西明園(せーもず)に西明寺(さいみょうじ)、田久保地区に庵寺(あんでら)、隅(すみ)地区の久良川(きゅうりょうがわ)水源の上に久良寺(きゅうりょうじ)がありました。 現在、西明寺・庵寺は跡形もなく、久良寺だけが水源(水神様)の上方に、寺跡と思われる平地(五五〇平方程)を残しています。また地元では、修行寺として言い伝えられています。 大村純忠のキリスト教への改宗により、天正二年(一五七四)には、大村領民六万人がその信徒になったそうです。よって、あちらこちらで寺社の破壊が行われました。久良寺がその暴徒に襲われた時に、経文(きょうもん)を持ち出して寺の東の山に埋めたのが、「経塚(きょうづか)」だと伝えられています。 現在も、代々の地主である丸田家によって、本経寺から住職を招き、供養が行われています。 出典・『鈴田小学校創立百周年記念誌』より 令和二年三月三十一日 住みよい町づくり「チーム鈴田> 補足 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください) ・関係ページ:(大村の城シリーズの)「塔の峰城」 (初回掲載日:2020年6月8日、第2次掲載日:6月17日、第3次掲載日:6月18 日、第4次掲載日: 月 日、第5次掲載日: 月 日) |
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