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(写真1) 広い宮崎新田跡<大村市陰平町、写真奥側の橋脚は長崎自動車道>(2017年4月29日撮影) |
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(写真2) 中央:宮崎新田跡の史跡説明板 |
(写真3) 大村湾側から東側方向を写す |
史跡説明板写真周辺の説明
今回設置された宮崎新田跡の史跡説明板内容や、「大村市の文化財(改訂版)」(2004年3月31日、大村市教育委員会・発行)を参照して、その水田の場所や広さなどから書きます。右下側の(写真4)のグーグルアースの空中写真を参照願います。説明板の内容通りなら宮崎新田跡は、北側(写真は上部が北側)の鈴田川、東と南側は県道、西側は大村湾の防潮堤までの範囲内と思われます。(黄色のAの場所に史跡説明板が立っている)
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(写真4) 宮崎新田跡の空中写真(グーグルアースより)
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ここを目算してみますと、鈴田川と県道の南側(南北)間が約360m、中央の水路の長さ(東西間)が約330mです。広さについてですが、説明板によりますと、「面積は七町四反四畝二歩(約七三、七九〇平方メートル)」と記述されています。(写真1、2、3、4)とも、その広いことが、お分かり頂けるかと思います。
それを現地で確認するのに東西南北どの位置でも良いですが、とりわけ大村湾側から長崎自動車道(東側)方向を(写真1)のように展望しますと、奥側には宮崎新田以外の旧来からある田んぼも見通せますので特に広く感じます。説明板に「干拓田としては、現在鈴田地区の一番美しい水田」と書いてあることが、名実ともに実感できるものです。
(写真2)の中央部に白い板のように写っていますのが、宮崎新田跡の史跡説明板です。この写真の左端側に、やや小高い場所が写っています。この小山が、由緒不明ながらも、この新田名の元となった「宮崎様」と呼ばれる碑がある所です。
(写真3)は、大村湾側から東方向を撮影したものですが、中央部やや奥の右側に写っている建物は、クリーンセンター陰平(農業集落排水事業)です。この施設の敷地南端から道路を挟んで反対側(西側)に史跡説明板が立っています。この宮崎新田跡の史跡説明板は、県道貝津大村線の2車線道路の近くにあり、また、先の通り目印としてクリーンセンター陰平の南端側直ぐにありますので、大変分かりやすい場所です。
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史跡説明板の内容
(写真2)の中央部に白く写っています宮崎新田跡の史跡説明板には、下記< >内の青色文章が書いてあります。その説明板を拡大したのが、(写真5)です。 なお、(写真5)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。
< 宮崎新田(しんでん)跡
陰平町(釜川内)に県道貝津線と鈴田川と海に囲まれた、広い水田があります。
この県道より海側が宮崎新田跡で、面積は七町四反四畝二歩(約七三、七九〇平方メートル)あります。海岸には防潮土居(潮を防ぐ土手)があり、その内には、塩害を除く方法としてのかなり広い池が造られています。潮止めの石垣の石は、西彼杵郡の時津と亀岳から船で運んだと言われています。当時としては、大工事であったと思われます。
郷村記によると、「文政五年(一八二二)から着工し、天保三年(一八三二)に完成した。その造成費は、十代藩主大村純昌の生活費の中から全額出された」と記されてあります。干拓田としては、現在鈴田地区の一番美しい水田となっています。
そしてここより海の方を見ると、丸みを帯びた山(鰻頭山)があります。この雑木林の中に、由緒はわかりませんが新田名の元となった「宮崎様」と呼ばれる碑があります。
平成二十九年三月三十一日 柱みよい町づくり「チーム鈴田」 >
補足
(この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)
(初回掲載日:2017年12月16日、第2次掲載日:12月21日、第3次掲載日:12月22日、第4次掲載日:12月 日、第5次掲載日: 月 日)