(史跡説明板)妙光寺跡(みょうこうじ あと)
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名称:妙光寺跡 |
様式:説明板 |
場所:大村市松原1丁目(個人宅) |
設置者:松原地区活性化協議会 |
設置年:2021年3月31日(令和3年3月31日) |
GPS実測値:32度58分33.25秒 129度56分56.80秒 |
全体の大きさ:高さ1m15cm、横幅70cm |
国土地理院の地図、 (国土地理院)地図検索用ページ |
本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm |
グーグルアース用数値:32°58'33.25"N,129°56'56.80"E |
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(写真1) 中央部の白板が妙光寺の史跡説明板。右方向、石垣の上付近に供養塔の一部がある。(個人宅の敷地内) |
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(写真2) 中央部の白板が妙光寺の史跡説明板 |
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(写真3) 中央部、上から2段目が泥片岩製の供養塔 |
史跡説明板写真周辺の説明
(写真2)の奥側方向が国道34号線(大村湾側)になり、手前側が野岳湖へ登る方向となります。この道路は、この写真の右方向(北側)に2車線の広い県道ができてからは、「旧道」みたいにもいわれています。
(写真1)中央部の妙光寺跡の史跡説明板は、(写真2)の左端側に写る道路から北側方向へ約16m行きますと、左側(西側)に設置されています。なお、この史跡説明板の直ぐ近くには、(写真4)の中央部に写っています古い緑泥片岩製の供養塔があります。
あと、江戸時代の(大村)郷村記の松原村を見ますと、「妙光寺蹟 松原村の梶の尾と云所にあり、(注意:後略)」と記述されています。また、同じ(大村)郷村記の福重村を見ますと、「妙高寺蹟 草場にあり、(注意:後略)」と記述されています。(寺領の石高は頭の「三十六石」までは同じです)
現在、先の史跡説明板や緑泥片岩製の供養塔がある場所は、普通は「梶の尾」と呼ばれているので、松原村なのでしょう。もしも、そうだとしたら福重村に、この寺跡を書いた当時の役人(武士)が、場所を間違えて書いた可能性もあります。
ただし、さらに推測を重ねると、この場所も元々は旧・福重村の草場郷だったのかもしれません。さらに、最初は、この寺は、「福重村草場郷」にあったが、その後に「松原村梶の尾」に引っ越したとも考えられます。
いずれにしても、この場所は、寺があった場所としては、良い所ともいえます。
史跡説明板の内容
このページ(写真1)と、(写真2)の中央部に写っています妙光寺跡の史跡説明板には、下記< >内の青色文章が書いてあります。先の説明板を拡大したのが、右側の(写真4)です。
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(写真4) 松原1丁目、妙光寺跡の史跡説明板(本体部) |
なお、(写真4)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。
< 妙光寺跡
郡七山十坊の一つ。創立年号は不明。宗旨は真言宗で、寺領は三十六石七升四合。天正二年(一五七四年)異教徒によって破壊される。天保四年(一六四七年)阿弥陀如来を建立。
平成十一年、不明とされていた緑泥片岩製の供養塔の一部が発見されました。高さ二八センチ、幅二〇・五センチ、その上に高さ一メートルの蓮座を彫り込んだもので、数百年ぶりに日の目を見ました。
令和三年三月三十一日
松原宿活性化協議会 >
注:既に掲載中の各史跡説明板(もくじ)で、その内容中に例えば江戸時代に編纂された(大村)郷村記などの記述や、近代、現代でも難しい用語があれば、その解説も含めて書いている場合もあります。
しかし、今回は(写真4)や上記の横書き内容でも、お分かりの通り、大変分かりやすい文章なので、補注その他は今回書いていません。
補足
(この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)
・関係ページ:
(初回掲載日:2021年5月10日、第2次掲載日: 月 日、第3次掲載日: 月 日、第4次掲載日: 月 日、第6次掲載日: 月 日)
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