最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク

福重の写真集 その203

2012年 郡中学校・平和集会(概要報告)

日時:2012年8月9日08時30分〜 12時00分 場所:大村市沖田町、郡中学校・体育館 主催:郡中学校  参加者数:約650名(先生・生徒さんなど)  講師:寿古町の増元さん
平和集会の主な内容:(下記の「5.戦争体験講話」は下段に、その概要報告を書いている。それ以外の項目内容は省略)
1.はじめのことば
2.実行委員長あいさつ
3.校長先生のお話
4.実行委員による発表(アンケート結果発表、平和標語の紹介、体育館側面の壁新聞など)

5.戦争体験講話「大村大空襲の記憶」 講師:増元義雄さん
6.黙祷
7.講師の先生へお礼の言葉(実行副委員長)
8.平和宣言
9.教頭先生のお話
10.終わりのことば
                 (下記写真は講演中のもの)

戦争体験講話「大村大空襲の記憶」(概要)-----講師:増元義雄さん
(1)第21海軍空廠

・昭和16(1941)年10月1日に、この空廠は開設された。
・東洋一の飛行機製造工場として有名になった。
・軍用飛行機の製造・修理、飛行機用エンジンの製造・修理などをしていた。
・昭和19(1944)年10月25日の大空襲でほぼ全滅したため約3年間の実働だった。
・大村の人口推移、空廠が出来て一気に増えた。

(2)大村海軍航空隊
・大正11(1922)年に今津・大川田(現在の富の原)に開設された。
・飛行場、1100m×1200m(後で1600m×1400m)、芝生だった
・(現在の郡中学校の敷地前には)草薙部隊(くさなぎぶたい)が昭和19(1944)年8月 、空襲にそなえて戦闘機部隊を新設された。
・世界初の渡洋爆撃が昭和12(1937)年8月15日、大村航空隊から攻撃機20機が中国の南京を爆撃した。大村の名が全国に知られた。

(3)大村空襲
 主なものだけで18回、1944年末から終戦まで9か月間に数十回 → 警戒警報・空襲警報はほとんど毎日、出された 。大村が狙われた理由は、海軍航空廠・海軍航空隊のある軍事拠点だったためである。空襲の回数だけなら長崎市や佐世保市よりも大村が多く、その理由は航空機製造や航空隊(飛行場)の存在が大きかったので、米軍は徹底的に空襲をおこない航空関係を壊滅しようとした。

 10.25大村大空襲 、昭和19(1944)年10月25日 、B29爆撃機78機、中国の成都から来襲した。午前9時55分から約2時間、航空廠を波状攻撃(爆弾・焼夷弾) をおこなった。結果、第21航空廠の建物半分を破壊されられ、死者が272人(内、動員学徒70人)も出た。その後も、たびたび大村は空襲を受け工場疎開、飛行機生産不能となった。市内どこでも空襲があり、死亡や民家の全焼などもあった。

4)私の戦争体験
 (内容省略)
5)戦時下の生活
 (内容省略)
6)戦争と子ども
 (内容省略)

終りに
 戦争は最も弱い者、子どもや女性などを犠牲にする。 しかも、戦争は人間性を破壊するもので、戦争に関するルールはあっても守られないので、そのため原爆や無差別爆撃などで一般市民までも沢山の犠牲者が出た。戦争はつらく、惨めで悲しいものである。日本は戦争に負けて「もう二度と戦争は しません」と誓った。戦争を知らない君たちの時代になっても、「絶対に戦争はし ないんだ」という気持ちを持ち続けてください。

-------------------------------------------------------------------
 概要以上の話しがあった。ご参考までに、上記内容含めて増元さんの話しによる他の学校での講演記録も含めて、現在「大村空襲、海軍航空隊、第21海軍空廠」(講演概要)ページを順次作成し掲載中である。完成までには、かなりの時間かかると思われるが、先のリンク先ページの閲覧も、お願いしたい。

(上野の感想と補足)
 郡中学校の生徒さんの報告発表、壁新聞、平和宣言、垂れ幕あるいはそれまでの準備作業など、いずれも真面目で良く頑張ってされたと思う。このような内容は、一般の市民の方にも聞いてもらいたいとも思った。あと、報告や壁新聞作りの参考になるような、大村空襲や長崎原爆などについて、誰でも分かりやすい総合的な本(冊子)の必要性も感じた。



最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク