はじめに
この大村空襲(大村大空襲)、大村海軍航空隊、第21海軍空廠(講演概要)ページは、寿古町の増元さんが、2006年11月25日・福重小学校での講演、2012年6月25日・桜ヶ原中学校での講演、2012年8月9日・郡中学校での講演内容の一部分です。現在の大村では、戦争体験された方が段々と少なくなり、あるいは戦争当時のことを鮮明に覚えておられて、さらには大勢の前で講演などをされる方は、本当に少なくなってきています。
増元さんの講演内容の特徴は、実体験に基づく戦前の(1)日本国内外の状況、(2)子どもたちの生活、(3)大村の状況、(4)大村海軍航空隊、(5)第21海軍空廠、(6)大村空襲(大村大空襲)、(7)自らの戦争体験などの話しをされます。つまり、大村空襲や第21海軍空廠だけでなく、もっと幅広い観点で戦争当時を描写されます。
また、当時の子どもたちも含めて大勢の人達が、空襲や戦闘などで亡くなったこと、あるいは現在生きる人は二度と戦争を経験して欲しくないことなどを切々と話されています。私は、講演用の写真加工、スライド作成、パソコン操作によるスクリーン映写の補助役などを担当している関係上、講演は毎回聞いています。
あと、私は、大村ケーブルテレビさんの番組で、『戦争の記憶〜伝えんば未来へ〜』(シリーズ形式の番組)と言うのも何回か見ています。このシリーズは、市民の方々が自らの「戦争体験、戦争の記憶」 をテレビ局の求めに応じて話される内容です。
私は、上記の講演やテレビ番組を見て、ホームページ上で少しでも当時の状況が書けないかなあと以前から思っていました。ただし、私は、1952(昭和27)年生まれですから戦争を直接知らないので実感込めて文章を書けないことは、あらかじめご了承願います。また、上記の(1)〜(7)の講演概要だけでも多岐にわたる内容(1時間内外の講演)ですから、それらをまとめることは最初から至難の技とも思っています。
話されたことを議事録風に書くのも考えてみましたが、やはり、約1時間の話しを文章化するのは難しいと判断しました。それで上記の学校で講演前に配布された資料の共通部分を肉付けするような形、つまり講演全体の概要の骨子みたいな内容ならば私でも出来るのではと思いました。
この方法は、どうしても、講演や下記の参考書籍類に比べれば雑駁(ざっぱく)にならざるを得ませんが、ご勘弁願います。何かこのようなことばかり書いていますと、最初から言い訳がましくなりますが、閲覧者の方で、このページより大村空襲や第21海軍空廠などについて、もっと詳しい、よりワイドアップの内容掲載をお願いして、これから書いていこうと思っています。
講演内容と参考の書籍類についてですが、冒頭に書いています通り、主は講演前に事前配布資料を元にしています。そこに講演で聞いた内容を補足した、あるいは下記の書籍類から参照して書いています。あと、ホームページのサーバ・メモリーの関係上、多くの写真は載せていませんが、上野撮影分あるいは『大村のあゆみ』や『楠のある道から』から複写して掲載しています。
<参考書籍類>
・大村市史(1961年2月11日発行、編者:大村市史編纂委員会)
・大村のあゆみ(1972年2月11日発行、編者:大村市総務課)
・むかしの竹松(1997年12月20日発行、編者:竹松を語る会)
・放虎原は語る(1999年3月31日発行、編者:第二十一海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会)
・楠のある道から(2003年10月発行、編者:活き活きおおむら推進会議)
概略の用語解説
このページで何回となく登場します(1)大村空襲(大村大空襲)、(2)大村海軍航空隊、(3)第21海軍空廠の3項目について、講演内容とは別に先に概略版の用語解説を掲載します。念のため、私が色々な所で市民の方と話していた時に下記3項目のことを混在して同じことのように表現されていた場合もありましたが、本来から言えば、特に、海軍航空隊と第21海軍空廠は、その成立過程、場所、内容、規模も各々違っていますので、ご注意を願います。なお、この項目は今後も改訂する予定ですので、あくまでもご参考程度に、ご覧願います。(内容については国語辞典の大辞泉なども参照しています)
(1)大村空襲(大村大空襲)-----大村空襲は1944年秋から終戦まで約9か月間に数十回あったと言われ、その内で主なものだけで18回を数えた。この期間ほぼ毎日のように警戒警報・空襲警報が出された。アメリカ軍機から当時の軍事拠点だった大村海軍航空隊や第21海軍空廠を始め、ほぼ市内全域に爆弾・焼夷弾(建物などを燃やす目的で作られた可燃性の高い砲弾や爆弾のこと)が投下された。
そして、多数の犠牲者、工場の建物や民家の全焼、半焼など大きな被害が出た。その中でも当時の農家などは萱(かや)ぶき屋根が多く焼夷弾によって全焼させられたのも多かった。また、爆弾投下も多く戦後数十年経っても直径10m位の爆弾跡が至る所にあった。また、艦載機(戦闘機)による一般市民への機銃攻撃もあって当時の福重小学校生1名も殺害された。
この一連の大村空襲の中でも、特に1944(昭和19)年10月25日の空襲を”大村大空襲”と、一般に呼ばれている。この日、アメリカ軍機のB29爆撃機78機が中国の成都から来襲し午前9時55分から約2時間にわたって、第21海軍航空廠などを波状攻撃(爆弾・焼夷弾) した。その結果、航空廠の建物半分を破壊、死者272人(内、動員学徒70人) など多くの犠牲者が出た。その後も、たびたび空襲され工場は市内各地に疎開し、飛行機生産は不可能となっていった。(戦後になり毎年10月25日には、大村大空襲で犠牲になられた方々を慰霊するため第21海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会の主催により慰霊祭が開催されている)
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(2)大村海軍航空隊-----大村海軍航空隊は1922(大正11)年に今津及び(当時の)大川田(現在の富の原)に開設された。 広さは1100m×1200m(後で1600m×1400mに拡張)で芝生だった。1937(昭和12)年8月15日、大村海軍航空隊から攻撃機20機が中国の南京を爆撃をおこなった。これは世界初の海を越えた長距離爆撃(渡洋爆撃)とも言われ大村の名が全国に知られた。草薙部隊(くさなぎぶたい)は1944(昭和19)年8月、現在の郡中学校付近に空襲にそなえて主に爆撃機を迎撃するための戦闘機部隊が新設された。
1944〜1945(昭和19〜20)年に操縦士(パイロット)を多く養成する目的で次の3航空隊=元山海軍航空隊、諫早海軍航空隊、釜山海軍航空隊が大村海軍航空隊から分離独立された。戦争末期、沖縄での地上戦を支援するために特別攻撃(特攻隊)にも従事した。
1944(昭和19)年10月25日の大村大空襲を始めとする数十回の空襲により大村海軍航空隊も被害に遭った。そして郡川を挟んで対岸(右岸)側(=現在の今富町と皆同町にまたがる田畑)に福重飛行場を突貫工事でおこない1945(昭和20)年5月頃にコンクリート舗装の滑走路を完成させた。大きさは950m×30m(実際の滑走路面はもっと短く約885mであった。ただし計画上では1200m位を造る予定だったと推測される)で、この飛行場での一番機飛行は1945(昭和20)年5月27日の海軍記念日だったと言う。
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(3)第21海軍空廠-----(注:空廠とは航空廠の略で主に航空機やエンジンその関係の製造工場、修理などをおこなっていた)第21海軍航空廠は元々は佐世保海軍・航空機部で航空機の必要性から当初、同市の日宇(ひう)に移転予定だったが工場予定地の地盤が軟弱だっため大村移転となった。第21海軍航空廠は1941(昭和16)年10月1日、放虎原周辺(現在の大村警察署、大村工業高校、大村郵便局、入国管理センター、旧管理庁跡地、運転免許試験場、市民病院、放虎原小学校の周辺)に開設された。敷地が66万坪と言う広大さで東洋一の航空廠と呼称された。ここで零式水上観測機、紫電改などの海軍機や航空機部品などが製造され修理もおこなわれていた。
この空廠の開設に対応するため旧の大村町・三浦村・鈴田村・萱瀬村・福重村・松原村の1町5村は(地域住民の意向を無視して強制合併させられ)1942(昭和17)年2月1日、大村市が誕生した。空廠で働く人が増えたため一気に人口が(1940年は33,390人から1943年は67,728人へ)倍増した。官舎、工員住宅、寄宿舎などが空廠周辺地域に建てられた。
1944(昭和19)年10月25日の大村大空襲により空廠で働いていた学徒動員者含めて多数の犠牲者及び建物の甚大な被害が出た。その後、工場が市周辺部に疎開することとなった。空襲は空廠周辺や疎開工場のある地域(市内全域)にも、その後ずっと続いていた。1945(昭和20)年8月15日の終戦とともに空廠の役割も終わった。
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1)太平洋戦争の概要
(講演資料及び国語辞典の大辞泉も参照して極簡単に書くと) 日中戦争は1937(昭和12)年7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件(中国、北京郊外の盧溝橋付近で日本と中国の軍隊が衝突した事件のこと)をきっかけにして起こった日本と中国との間の戦争だった。はじめ日本政府は支那事変あるいは日支事変とよび、宣戦布告も行わなかったが、戦線は全中国に拡大し、予想外に中国の抵抗は大きく行き詰まった。
その後、日本は南進政策(日中戦争の全面化の中で、陸軍の北進論に対し、海軍などが戦略物資を求めてインドシナ半島など南方地域を確保しようとした政策)をおこなったため、当時この地域で植民地を多く持っていた欧米諸国との対立が大きくなった。そして、1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃<アメリカのハワイ、オアフ島の真珠湾(パールハーバー)にある米国海軍の太平洋艦隊基地に対して、日本海軍が加えた奇襲攻撃>から太平洋戦争が始まった。
当初、日本は優勢で東南アジア・南太平洋の島々を占領していった。しかし、アメリカが世界一の工業力や物量作戦によって徐々に反攻が開始された。その後、日本の本土空襲が数多くおこなわれ軍事拠点だけでなく全国どこでもおこなわれ一般市民までも多大な犠牲と被害をこうむった。特に、1945(昭和20)年8月7日の広島と9日の長崎への原子爆弾投下は小さな子どもたち含めた数十万人の人が犠牲となった。その後8月15日この戦争は終戦となった。
2)戦時中の大村"軍事都市"
大村は、明治時代後半頃より旧・陸軍の歩兵連隊を始め、その後、大村海軍航空隊が開隊し、さらに第21海軍航空廠も太平洋戦争前に開設された。まさに、大村は”軍事都市”のようになっていた。
・陸軍歩兵第46連隊
(旧・大日本帝国陸軍の連隊のひとつで)1897年(明治30年)に大村にできた連隊で場所は、現在の陸上自衛隊・大村駐屯地である。
<参考資料:1961(昭和36)年2月11日発行の大村市史・下巻477ページを参照すると、この連隊は主だったものだけでも記すと次の通りである。1904(明治37)年に日露戦争、1907(明治40)年の青島攻囲戦、1932(昭和7)年の上海事変、1936 (昭和11)年の満州事変、(昭和16)年開始の太平洋戦争などの戦闘に参加した。1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎え、その後1952(昭和21)年1月30日、浦賀に上陸し復員した>
・大村海軍航空隊
戦前生まれで年配の方は別としても、市民の中には大村海軍航空隊と第21海軍航空廠(21空廠)を混同し、同じようなものと勘違いしている人もいる。同じ海軍内だったが、両施設は開設からの歴史も内容も、さらには両施設のあった場所も明確に違うので間違わないように願う。極簡単に現代風に分かりやすく直すと大村海軍航空隊は現在で言えば海上自衛隊大村航空基地みたいなもので飛行場で航空機を飛ばす役割である。第21海軍航空廠は、航空機やその関連の製造・修理などだった。
大村海軍航空隊は、1922(大正11)年12月に今津及び(当時の)大川田(現在の富の原)に開設された。 広さは1100m×1200m(後で1600m×1400mに拡張)で芝生(草地)だった。(日本の海軍航空隊の開隊には諸説あるが大村海軍航空は、けっこう古い歴史があった)
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福重飛行場を滑走中の小型機(大村のあゆみ44ページより)
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当時の竹松村今津郷と大川田郷の人々は急な立退きとなり、大変苦労された。大川田と言う地名は郡川の流れていたことに由来しいる。強制立退き時に現在の竹松郵便局付近に引っ越しされたが、同時に地名も一緒に持ってこられたので現在は、この周辺が大川田の地名となっている。
また、沖田町(郡中学校、虹の原養護学校付近)から宮小路当たりには、1944(昭和19)年8月に草薙部隊(くさなぎぶたい)も新設された。この草薙部隊は、空襲にそなえて主に爆撃機を迎撃するための戦闘機部隊だった。このような部隊もできたため、自宅と農地が分断されてしまったひともいた。それで、離れた農地へ往復するための農道確保のため、宮小路にはトンネルまで作られた。
あと、福重の方には、今富町と皆同町の田畑を整地したり、あるいは福重小学校なども引っ越しさせて、コンクリート舗装の滑走路である福重飛行場を急いで造った。また、通称「皆同砲台」(皆同町、今富城址にあった)、「今富砲台」(今富町、大神宮と黄金山古墳の間の広い所に施設が点在していた)また、多くの防空壕もあった。
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<資料1:大村海軍航空隊の開隊>
大村海軍航空隊の開隊については、むかしの竹松(1997年12月発行、編者:竹松を語る会) の大村海軍航空隊項目部分で147〜148ページに分かりやすくまとめてあるので、そこを引用して書く。次からの<>内の通りである。なお、原文にある元号だけでは分かりにくいので、( )内の西暦は、今回補足で上野が付けた。
< 開隊 第一次世界大戦(大正三年〜同七年)(1914〜1918)の終結後、戦勝国の問に軍備拡張の競争が激しくなった。我が国も他国に遅れを取らないため軍備の増強につとめた。大正九年(1920)には、竹松の地に海軍航空隊を開隊するという通告がなされたのである。この地は大村の扇状地で平坦、併せて気象条件が飛行機の発着に、最適であるという海軍省の判断からこうなったのであろう。
航空隊の敷地となる今津郷や、字大川田の住民たちは、行き先を探さなければならない。その上、新しい耕作地も求めなければならない。それは大変な騒ぎであった。 大川田の人々は、長い間親交を重ねて来た近隣の人々と別れ難く、数回に及ぶ話し合いの結果、現在の大川田町の竹松郵便局一帯に、そろって「大川田」 の地名と共に移転したのである。大正十一年(1922)航空隊は開隊され、今津と八幡南は遮断された。僅かに飛行場の中に狭い一本の通路があるだけだった。しかし人々はその通路を往来して、買い物をしたり、諸々の用を足していた。
そのころは波静かな大村湾上に廃船になった駆遂艦を浮かべて、爆撃訓練が行われていた。現在も海上自衛隊内に着艦訓練跡があるが、飛行機の訓練と共に一時期は賑やかなものであった。飛行場の上 空では、時々飛行機の射撃訓練が行われていた。その時空砲の薬爽を落とすので、八幡の子供達が、飛行場の真ん中あたりまで拾いに行くと、兵士が車で追いかけてくる風景がよく見られた。
当時の飛行場は舗装ではなく草原であった。クローバーがあちこちに生い茂り、子供達はクローバーの四つ葉を見つけて戯れていた。また農家ではこの草原の草を刈り取って、牛馬の飼料にしていた。 昭和十二年(1937)には日中戦争が始まり、大村海軍航空隊に攻撃機がたくさん集結して、上海、南京へ向けて渡洋爆撃が行われた。又朝日新聞社の神風号が世界一周の快挙を成し遂げ、大村海軍航空隊にその姿 を見せた。地区の人達はこの神風号を拍手で出迎えたものであった。やがて零式艦上戦闘機が出現し、後に零戦の名で勇名をとどろかせた。 >
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<資料2:大村海軍航空隊周辺の概要地図>
右側の地図は、放虎原は語る(1999年3月31日発行、編者:第二十一海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会)に付いている地図である。あらかじめ、お断りを書いておくが、ホームページのメモリー不足で極端に画像が粗いのと小さいのは、ご了承願いたい。1999年当時の地図に彩色されたものであるため、例えば道路、街並み、海岸線、海の埋め立て状況などが違っている。
また、先に、この地図の大雑把な説明をする。画像下側が大村湾で、中央部付近を斜めに走る赤い線が、現在の国道34号線。地図左側付近で上部から、やや斜めに青色の太い線みたいに見えるのが、郡川で大村湾に注いでいる。
右画像は写真加工ソフトで一部修正・加工したものである。主な加工箇所は、1,大村湾(海の色)の水色彩色、2,地図左側に楕円形の赤線部分=通称「皆同砲台」、3,同じく地図左側の四角の赤線部分=通称「今富砲台」部分である。
<地図の補足説明>
(1)元々(空襲前)の大村海軍航空隊の場所は、地図中央部の四角形状で薄紫色部分である。しかし、実際の広さは、もう少し広かったようだ。特に、地図の薄紫色の上側あるいは左側部分が、先に紹介したむかしの竹松に掲載されている海軍航空隊の地図と比べても狭いようだ。
(2)草薙部隊は、この面積(現在の郡中の敷地内)にとどまらず、もっと宮小路側に伸びていたはずである。そうでなければ、離れていた農地との往復をするために農道用トンネルまで宮小路にあった意味が分からなくなる。
(3)左側で郡川と並行して薄紫色の細長く見える部分が、福重飛行場である。
(4)上記の福重飛行場と海軍航空隊との間、あるいは空襲から飛行機を隠す目的もあり、現在の竹松町周辺には数本の誘導路があった。(その誘導路を使って、兵隊が戦闘機を押したり、引いたりしているのを見た人もいる)
(5)地図左側、楕円形の赤線部分=通称「皆同砲台」であるが、これは今富城址部分の3分の2近い面積があった。
(6)地図左側、四角の赤線部分=通称「今富砲台」部分である。
(7)地図左側、丸形状の薄紫部分は、原版に「福重壕内指揮所」と書いてある。確かに大村海軍航空隊や第21海軍空廠へ幾度かの空襲があった。両方とも大被害を受け、その後、疎開・引っ越しが、福重へも多数あった。そのような施設があった防空壕は、現在でも沢山ある。しかし、先の丸形状の薄紫部分は、当然一部においては正しいが、違う部分も多い。(この件について、私は現在調査中である)
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・第21海軍航空廠
この項目、講演概要あるいは概略の用語解説として、既に「(3)第21海軍空廠」に掲載中です。この用語解説の元になっている書籍があります。それは、下記<>内の『(改訂)大村市の文化財』(2012年3月19日発行、編集・発行:大村市教育委員会)の「第21海軍航空廠本部防空壕跡」(211ページ)です。まず、この内容から、第21海軍航空廠を知る上で参照願います。
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第21海軍航空廠本部防空壕(古賀島町)
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なお、原文にある元号だけでは分かりにくいので、( )内の西暦は、今回補足で上野が付けました。(右下側写真は先の掲載ページ写真と、ほぼ同じような位置から防空壕跡を撮ったもの。中央部やや左側の柱が、大村市の指定史跡を表す案内門柱。後方が防空壕跡)
< 第21海軍航空廠本部防空壕跡 第21海軍航空廠(こうくうしょう)の本部庁舎前にあった防空壕跡です。 第21海軍航空廠は、太平洋戦争直前に設けられた海軍の飛行機を製造・整備をする工場です。当初、海軍工廠があった佐世保市内に建設される予定でしたが、地盤が悪かったことから大村への移転が決定し、昭和16(1941)年10月1日に開設されました。古賀島、森園一帯の面積約217万uの敷地に建物180棟が建ち、工員5万人が働く、東洋一と称される巨大な工場でした。
これによ り工員とその家族が大村に集まり、大村の人口は著しく増加し、また、空廠の関連施設が大村町だけではなく、周辺の村にもでき、これを契機に、大村町は 周辺の5村(三浦村、鈴田村、萱瀬村、福重村、松原村)と合併し、昭和17(1942)年2月11日に大村市が誕生しました。 しかし、巨大な工場は敵の攻撃目標となり、昭和19(1944)年10月25日、中国から飛来したアメリカ軍のB-29による空襲で壊滅的な被害を受け、死者約300人、負傷者約400人という犠牲者が出ました。
この空襲は「大村大空 襲」と呼ばれています。 防空壕は、地上部分はコンクリートの上に土を盛り、側面に2つの入口を設け、階段を下りた地下に24uほどの一室がありました。入口周辺のコンクリートには空襲の際の銃撃によってできた多くの弾痕が残っており、激しい空襲の模様を今に伝えています。 >
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<資料3:第21海軍空廠周辺の概要地図>
右側の地図は、放虎原は語る(1999年3月31日発行、編者:第二十一海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会)に付いている地図である。あらかじめ、お断りを書いておくが、ホームページのメモリー不足で極端に画像が粗いのと小さいのは、ご了承願いたい。
右画像で大村湾(海の色)の水色彩色などは写真加工ソフトで一部修正・加工した。先に掲載している「大村海軍航空隊周辺の概要地図」と縮小比率が違うため、あくまでも大きさや長さなどは、参考程度にご覧願いたい。次から、この地図の概要説明をする。
<地図の補足説明>
(1)中央部だいだい色が、第21空廠関係があった場所である。21空廠総合庁舎(本部)は、現在、長崎県消防学校前に広がる空き地(元・大村入国者収容所跡地)にあった。
(2)右上側の島(赤色で彩色)は、臼島で「臼島 補給部、疎開工場」との文字がある。この島自体は、現在もそのままである。
(3)右下側に白く見える部分が、現在の長崎空港(箕島)である。この島と本土側を繋ぐ箕島大橋は、長崎空港開港時に出来たものであり、戦争中は当然なかった。
(4)左側付近に太い黒点線がある。これは当時の国鉄・大村線(竹松駅)につながる引き込み線である。
(5)この地図は、先に紹介した本が出版された1999年当時の地図に彩色されたものであるため、例えば道路、街並み、海の埋め立て状況などが戦争中と違っている。一番変化が大きいのは、現在の長崎空港で当時、箕島と呼ばれ「ひょうたん」みたいな形をしていた。
(6)j上部やや左側の黄色部分=現在の「陸上自衛隊大村駐屯地」だが、戦争中、陸軍歩兵第46連隊のあった場所である。
(7)
上記(6)の「陸上自衛隊大村駐屯地」の右横側に、やや独立したような感じで、だいだい色が彩色されている。これは当時「工員養成所」や「物資部」などがあった所である。現在の大村市立西大村中学校、中央小学校周辺である。
(8)だいだい色周辺から、やや点在した形で緑色系が彩色されている。これらは高等官住宅、軍人住宅、21空廠関係の工員住宅、寄宿舎などがあった所である。
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<資料4:大村市の人口推移>(はたして第21空廠工員数”5万人”は、本当に正しい数字だろうか?)
大村市内で発行されている第21航空廠関係が載っている書籍類あるいは空廠本部防空壕や大村大空襲の慰霊塔前などにある大村市教育委員会設置の史跡説明版は、全て「空廠工員5万人」みたいな表現で書いてある。また、長崎県内のメディア関係も「大村市が発表している数字だから全て正しい」と信じて、同じようにこの数字を用いて報道されている。「はたして第21空廠工員数”5万人”は、本当に正しい数字だろうか?」と言うのが、今回の資料のテーマである。今回の疑問あるいは下記資料は、講演者の増元さんから先に紹介した2校の中学校での講演準備中に教えて頂いた。まずは、下記、大村市の人口推移表をご覧願いたい。
昭和15(1940)年〜昭和21(1946)年までの大村市の人口推移表
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元号(西暦)
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大村市の人口
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当時の事柄、出来事など
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昭和15(1940)年 |
33,390人
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(大村市の誕生2年前) |
昭和17(1942)年 |
39,572人
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2月の大村市の市制施行時 |
昭和17(1942)年終わり頃 |
55,901人
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昭和16年10月、第21空廠の開廠、その後、拡張あり
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昭和18(1943)年 |
67,728人
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(太平洋戦争2年目) |
昭和20(1945)年 |
44,292人
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(終戦の年) |
昭和21(1946)年 |
52,475人
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空廠工員住宅に戦地からの引揚者が入居 |
上表を見ると確かに大村市の総人口では、この間、一時期5万人を突破している年もある。しかし、「第 21空廠の工員=5万人」と言う数字を証明している訳ではない。なぜなら、第 21空廠ができる前も出来た後でも、例えば農業、漁業、商業、工業、公務員、陸軍関係(一部)などの従事者が、存在していたからである。さらに、この大村市の総人口数には、児童・学生さらには仕事に従事していない老人なども含まれていたはずである。上表の人口から先の空廠と関係ない職業従事者、学生、老人などを総人口から差し引かないと、本当の「空廠の工員数」は出ないはずある。
戦前の人口の最高数値は、上表を見れば昭和18(1943)年の67,728人である。この数字から空廠の出来る前、昭和15(1940)年の人口=33,390 人を引いた数値が、空廠の工員数=「34,338人」が、より正しい数値に近いものと言える。なお、戦前の大村における人口(農業、漁業、商業、工業、公務員などの従事者)は、大正14(1925)年=32,522人、昭和10(1935)年=33,922人を見ても純増はあるものの驚くほどの大きな変化ではない。
あと、大村市が発行している書籍類や史跡説明版で多用されている「第 21空廠の工員、5万人」と言う数字に何か根拠があるのか、私なりに調べてみたが、特に根拠やデータ関係は書いていないようである。つまり、「第 21空廠の工員=5万人」と言う数字は、例えば住所を大村市に移していない人が仮に数千人いたとしても、あまりに大きな数値過ぎると思われる。これからは私の推測ながら、昭和18(1943)年の人口数値から、先に紹介した空廠が出来る前の人口を引いた「34,338人」を元に考えれば、いくら多く考えても「空廠の工員数は4万人に達していなかった」、むしろ「3万5千人前後」位が、本当の空廠従事者数ではないだろうか。
(第21空廠を語る場合、「東洋一のマンモス飛行機工場」、「空廠工員数5万人」、「生産機数・・・・機」など、大きな表現や数値が目立つ。それでも正しければいいのだが、資料を後世に出来るだけ正確に伝えるためにも、データベース作りは大切なのではないか。根拠なき伝聞数値ではなく、より真実に近い資料作りが必要と思う。何か正確な情報をお持ちの方は、提供願う)
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-----<下記の原稿は準備中。しばらくお待ち下さい>-----
3)大村空襲
・大村大空襲
(原稿準備中)
4)戦時下の生活
・戦時下の生活状況
(原稿準備中)
・当時の学校生活と子どもたち
(原稿準備中)
・終戦
(原稿準備中)
5)おわりに
(原稿準備中)
講演を聞いての感想と補足
(原稿準備中)
(初回掲載日:2012年8月1日、第2次掲載日:2012年8月6日、第3次掲載日:2012年8月10日、第4次掲載日:2012年8月14日、第5次掲載日:2012年8月19日、第6次掲載日:2012年10月20日、第7次掲載日:2012年10月21日、第8次掲載日:2012年10月22日、第9次掲載日:2012年10月23日、第10次掲載日:2012年10月24日、第11次掲載日:2012年10月25日、第12次掲載日:2012年10月日、第13次掲載日:2012年10月日、第14次掲載日:2012年10月日)
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