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写真が語る福重の歴史や人
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福重飛行場
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福重飛行場の従来説の改訂について 福重飛行場について、冊子「大村の福重にあったロケット戦闘機秋水の秘密工場と飛行場」の発行前に調査したところ、この黄色枠内の記述が新たに分かったので、改訂します。もしも、福重飛行場について参照されるのであれば、この黄色枠内の記述内容を最優先されるようにお願いします。さらに詳細を知りたい方は、冊子「大村の福重にあったロケット戦闘機秋水の秘密工場と飛行場」の内容を読んで頂けないでしょうか。 主な改訂内容 1) 福重飛行場の建設と使用目的は、ロケット戦闘機秋水用の滑走路だった。 従来説の竹松にあった大村海軍航空隊の「第二飛行場」説とか、「代替え滑走路」説は、完全否定まではしないが、先の説が根拠がある。 2) 滑走路の一部分のみを使って1945年5月27日の海軍記念日を祝って零戦(ゼロ戦)の一番機が飛んだのは地元の目撃者が幾人かいるため事実だ。しかし、これは飛行場(滑走路)の完成ではない。終戦(8月)まで、ずっと滑走路造りや、延長工事が進められていた。 3) 下記の延長計画があり、「(鬼橋町の)鬼橋近くまで整地だけはしてあった」との地元証言がある。また、今富町の「段」集落の民家近くに滑走路進入コースの目印(進入標)の高い旗竿も立っていたとの地元伝承がある。 (後半原稿は、準備中。しばらく、お待ち下さい) |
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注意:なお、福重飛行場跡の史跡説明板は、福重地区まちづくり活性化委員会の予算化が必要なため、急には改訂できないので、上記の記述を優先願います。また、このページの下段内容は、あえて従来説と対比の意味から、ほぼ全部を改訂していないので、ご注意願います。 |
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福重飛行場
なぜ下記書籍記述の滑走路の長さ(950m)と上記(約885m)と違うかについて、今富町の古老の話では、「郡川(こおりがわ)の支流である佐奈河内川(さながわちがわ)の中まで施設の一部があった」と証言されているので、その長さも含めれば下記の「950m」と一致するものである。
なぜなら、当時の小学校に在籍した方が、まだまだ何十名も、ご健在で異口同音に「福重小学校は、飛行場建設のため立退きになった」と証言しておられます。ですから、(現在の)大村市や長崎県の資料は、記述間違いです。なお、福重小学校は、矢上郷に立ち退いたのですが校舎はなく、各地に分かれて授業していました。 校舎が再建されたのは1945(昭和20)11月です。(当時の写真は、ここからご覧下さい)この写真をご覧頂くと、「福重小学校の校舎に爆弾が落ち破壊された」と言う現在の大村市の記述が間違いであることが、良く分かります。この飛行場建設時には、地元の大人だけではなく、福重小学校の生徒も勉強そっちのけで、近くを流れている郡川から丸い石をずっと運ばされたとのことです。(なお、完成後は小学生の石運びは必要ないので、今度は矢上郷で福重小学校の敷地作りを行いました。そのため、この期間当時の小学生は、勉強らしい勉強をしたことなかったとのことでした)
なお、戦時中、最上記右側写真右側下の滑走路横に木造の飛行機を置き、そこにめがけてくるアメリカ軍機を反対側(福重出張所裏山)に設置された機銃で弾を浴びせ、打ち落とす作戦もあったようです。しかし、アメリカ軍のグラマン機はスピードが速く、木造の飛行機を破壊し、機銃に打たれることなく、さっと飛び去ったと証言している方もいました。 また、これは戦後の話ですが、この飛行場にアメリカ軍機が着陸時、エンジン不調か、あるいは滑走路距離が短いためか、滑走路先の農地に頓挫(オーバーランみたいなものか)を起こしたこともありました。地元の方が墜落した状況を見ていたところ、直ぐに駆けつけたMP(米軍憲兵隊)に追われたそうです。 <戦争遺跡や遺物について> 既に、このページ冒頭部分でも戦争遺跡として紹介していますが、福重飛行場があった当時の遺跡や遺物としては、2017年4月現在でも下記の3箇所は確認できます。 1,幅が約2.5m、長さが約860mの一直線の農道 2,佐奈河内川に残る誘導路橋の柱跡(コンクリートと穴)---注:下段項目「佐奈河内川に残る誘導路跡」の写真と紹介文参照。 3, (矢次第二号橋から下流に約230m下った所にある農業用ビニールハウスの南西側周辺に)当時のセメントの残り(袋ごと固まったもの)や、滑走路などのコンクリート片などがある。 先に紹介しました一直線の農道の地図などについては、前ページの『終戦前後の福重地区、戦跡概略図』のを参照願います。このような地図や、このページ掲載の一直線の農道写真を見ますと、元の滑走路と同じくらいの長さがあることが分かります。そして、一直線の農道の両端から、道路先端方向を見ますと、「ここに福重飛行場が、かつてあったのだなあ」と実感いたします。 以上述べてきたように、この福重飛行場やその周辺でも第二次大戦による空襲などによる戦争被害は大きかったと言えます。ご参考までに『終戦前後の福重地区、戦跡概略図』も併せてご覧下さい。 佐奈河内川に残る誘導路跡(基礎のコンクリートと柱穴の跡)
写真中央部から斜め下流方向に細長いコンクリートが見えます。このコンクリートは、川の中にあるため(写真左奥側方向に)川ヨシや草が生えていて途中までしか写っていません。しかし、写っていない部分も含めれば目測ながら全体の長さは約30m、幅約1mあります。 |
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福重飛行場のコンクリート舗装関係写真 この項目、下記4枚の写真は、全て福重飛行場の建設時、コンクリート舗装と関係ある写真です。最上記の縦長写真をご覧になると一目瞭然(いちもくりょうぜん)で、福重飛行場が当時コンクリート舗装だったことが分かります。ただし、現在のような分厚いものでなく、薄いものでした。ですから、上から2枚目写真の通り、航空機が離陸(着陸)時には、土埃(つちぼこり)が舞上がっています。まず、下記4枚の(写真A〜D)をご覧になり、次に下段の写真説明文を閲覧願います。
コンクリート写真関係の説明 上記の(写真A〜D)の説明文は、以下の通りです。念のため、下記「」内の言葉は、全て今富町在住で福重飛行場跡周辺の人(地元の方)のお話からです。 ・(写真A):福重飛行場に使われたセメントの塊(かたまり)や欠片(かけら) この土地所有者の説明によりますと、「1945(昭和20)年当時、福重飛行場を造るためのセメントが、袋のまま固まったもの」とのことでした。現在、ビニールハウス周辺に数十個のセメント(コンクリート)の塊(かたまり)があります。 ・(写真B):セメントを練る作業場跡 セメントを袋から出して練る(ねる)ための作業場が、佐奈河内川の土手近くにありました。セメントを練る、各作業あるいは後で道具類の洗浄(せんじょう)ために、水が大量に必要です。この写真やや右側に井手(用水路)が写っていますが、この上流部は、佐奈河内川につながっています。このような用水路から当時、水を得ていたと思われます。地元の方は、「ここでセメントを練って、その後、飛行場予定地に一輪車で生コンクリーを運び、手塗りだった(手作業で地面を塗っていた)」と覚えておられました。 ・(写真C):コンクリート農道は福重飛行場跡 中央部やや右側に写ってるのは、現在のコンクリート舗装農道です。この農道の幅は約2.5m、長さは約860mあります。念のため、書籍によっては、「滑走路は長さ950m × 30m」との説もありますが、実測の長さとは違うようです。また、現在の農道は、当時30m幅あった分の内、西側だけ約2,5m幅で残っているものです。 あと、今のコンクリート舗装は、数十センチはある分厚いものです。このように分厚くなったのは、「元の飛行場跡のコンクリート面に上に農道工事、さらに、その後の水道本管工事などを経て舗装が重なったからだ」と地元の方は言っておられました。 ・(写真D):コンクリート製の橋(誘導路)の基礎部(土台)跡 コックリートは、航空機が離発着する滑走路だけで使われていた訳ではありません。福重飛行場と竹松方面(海軍航空隊や草薙部隊など)を結ぶため、郡川あるいは佐奈河内川には、橋(誘導路)が架けられました。この写真は、その内の佐奈河内川に架かっていた橋(誘導路)を支える柱の丸太があった跡と、そのコンクリート基礎部(土台)跡です。 補足 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください) |
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<参考資料一覧> (掲載日:2005年7月21日、第二次掲載日:2010年7月20日、第三次掲載日:2012年8月17日、第四次掲載日:2012年8月18日、第五次掲載日:2017年4月5日、第六次掲載日:2018年6月25日、第七次掲載日:2019年1月 8日、第八次掲載日:2019年 月 日) |
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