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写真が語る福重の歴史や人
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稲刈り、稲掛けの風景
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この写真2枚は、いずれも(昭和16)年11月頃に撮られたものです。上側の写真説明文には「立福寺男女青年の勤労奉仕」と記されています。 つまり当時の福重村立福寺郷(りふくじごう)(現在:長崎県大村市立福寺町)のある家庭に男女青年団が勤労奉仕の活動に行った時に撮った写真と言うことです。 この勤労奉仕は、出征(戦地に行くこと)した留守家庭には働き手が少ないため、このような刈り入れの農繁期に青年団などが手伝いに行っていたそうです。 この写真は、まず先に実った稲穂を鎌で刈り取って田んぼに並べています。その後、写真のように稲架け足に稲をかけていました。 普通この稲刈りや稲架け作業は、家族のみでおこないますので、このような大勢は珍しいと思われます。 人数のみ見れば、ある種特別な農作業風景に見えますが、現在は稲刈りはコンバインやバインダーなど機械化されたものの、このような稲の掛け干し自体は全く変わらないものです。 私自身も学生時代まで、稲刈りも稲掛け作業も、この写真と同じ作業をしていました。余談ですが、機械乾燥より、このような掛け干しの自然乾燥米が美味しいと評判です。 あと、この写真には稲掛けの先端に(風で揺れている)白い布があります。これは稲を干すためには必要ないものです。 それで、ここからはあくまでも私の想像ですが、この日の写真撮影用に「・・・勤労奉仕」とか「・・・青年団」とか手書きされた布だと思われます。 次に下側写真には(原文は旧漢字体ですが)「国民学校児童による寿古部落における勤労奉仕の実況」と題が付いています。 当時福重小学校の生徒さんが、寿古郷(すこごう)(現在:長崎県大村市寿古町)のある家の稲刈り、稲掛けの手伝いに行った風景と言うことです。(写真が少し暗いため分りにくいですが)手前側が稲刈りした稲を並べたところで、奥の方が稲掛けをしているところです。 大人と一緒に稲刈りをし、その後、掛け干しするために稲を運んでいるところと思われます。手前側に子どもさんが多いのは刈った稲を藁(わら)でくくっているところです。さらに稲を掛けるには子どもの背丈では高すぎるので稲掛け足の近くまで運んで置いているところと想像されます。 写真には30人近く写っておられますから、農家の方は大助かりだったと思います。上側の写真説明でも述べた通り、稲刈り・稲掛けは普通家族中心の作業ですから人数はこんなに多くはいませんでしたが、戦後もずっと機械化されるまで基本的にはこれらの写真と似たような感じ(各家庭の子ども手伝う)が秋の実りの風景でした。(掲載日:2005年5月7日) <参考資料一覧> |
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