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写真が語る福重の歴史や人
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終戦前後の福重地区、戦跡(空襲、戦災)概略図
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終戦前後の福重地区、戦跡(空襲、戦災)概略図 (注:下図に沖田町、寿古町、草場町、重井田町などが、レイアウト上、入っていない。再編集し、新たに作成予定) (地図上の赤い記号が当時の飛行場、高射砲、防空壕などです。なお、今後も追加、訂正する予定です。道路や町名などは、現在のものです) 長崎県大村市の福重地区(旧・福重村、現在の福重小学校の校区)は、先の第二次世界大戦時、他の所同様、終戦年まで戦争被害が出ていました。1944(昭和19)年秋から激しくなったアメリカ軍の空襲(大村空襲)から逃れるため、福重地区にも数多くの軍事施設がつくられました。ただし、西大村や竹松地区に比べて、この福重地区内の施設に関しては、資料がほとんどない状態です。掲載しています地図や文章は、全て地元の年配の方に聞き取り調査をして、まとめたものです。(注:上図の中には、沖田町、寿古町、草場町、重井田町がレイアウト上、入っていない。いずれ、再度編集し新たに作成予定)
福重地区で、一番大きな軍事施設は、福重飛行場(詳細は、別の『福重飛行場』ページをご覧下さい)でした。また、沖田町には、「第三五二海軍航空隊」(「三五二空」、通称「草薙部隊」)がありました。あと、砲台=高射砲(機銃含む)陣地や海軍の指揮所などもありました。砲台の名称は、福重出張所裏山付近が皆同町にあるので正式には「皆同砲台」、今富町にあったのが「福重砲台」でした。しかし、地元では、むしろ皆同町の方が『福重砲台』みたいに言われ、今富町の大神宮付近が『今富砲台』と呼ばれてもいました。そのため、今後、二つの砲台名称を明確に分けるため、皆同町の今富城跡にあったのを「皆同砲台」、今富町の大神宮近くにあったのを「福重(今富)砲台」と分かりやすく表記し、呼称していきます。 その他の軍事施設のほとんどは、防空壕(隧道:ずいどう)で、その中に軍関係の物資が貯蔵されたり、一部航空機部品の工場もあったようです。中には、防空壕自体も間に合わなくて、佐奈河内川(さながわちがわ)近くの山あいなど、野ざらし状態で物資が置かれた所もありました。 福重地区で、この種の施設が多かった町は、(現在の)長崎県大村市・今富町・沖田町・皆同町・野田町でした。なお、これらの施設は、このページとは別に説明をまとめていきたいと考えています。なお、上記の概略図に掲載しています防空壕(隧道)は、軍関係や各地域で比較的大きなもののみを図示しています。各家で空襲警報が発令されたら身を隠す程度のものも多数あったようですが、全て省略致しました。 アメリカ軍による空襲の被害ですが、(あとからの「福重空襲」ページに掲載する予定です)防空壕に待避している時、そこに直撃を受けて落盤し、11名が生き埋めになり結果9名が死亡という痛ましいことも発生しました。また、福重(今富)砲台のあった今富町の帯取の丘で、福重国民学校(小学校)の生徒1名(当時、今富郷の方)が、アメリカ軍艦載機の機銃掃射により亡くなられました。また、この時の空襲は、「福重(今富)砲台」で軍務中だった軍人が多数(人数は正確には不明)戦死されたとの情報が、2020年8月に寄せられました。。 さらに、米軍の爆弾や焼夷弾による民家の火災も(上記地図のマークの場所で)発生しています。1944(昭和19)年11月21日福重地区大空襲の時(当時、福重出張所前付近にあった)福重小学校(平屋建ての)西校舎の端っこの一部も大きな被害ではなかったものの損傷を受けました。 空襲(爆撃機)のルートについて、真偽定かではないのですが、アメリカ軍のレーダーは電気の高圧線に反応するため、そこが狙われたとの説を述べられた方も多かったです。高圧電線は上記地図上の「爆弾または焼夷弾」の落下地点の近くを通っているラインもあります。あと、なぜ艦載機(戦闘機)も飛来し、福重地区に機銃掃射をおこなっていたか。それは、低空で進入し、通称”赤トンボ”と言われていた日本軍機を狙っていたと述べられる方がいました。 上記地図の補足説明について、今回のページは、(現在の町名の)今富町、野田町、立福寺町、皆同町、弥勒寺町、福重町を掲載していますが、残りの寿古町、沖田町、草場町、重井田町なども、調査や原稿化が進めば、再作成しての掲載も考えています。 (掲載日:2005年7月19日、第二次掲載日:2020年9月19日、第三次掲載日:2020年 月 日、) <参考資料一覧> |
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