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写真が語る福重の歴史や人
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郡岳と鉢巻山の遠望
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この写真は、1941(昭和16)年11月頃に撮影された物です。この写真の原本は、出征兵士の慰問袋入れた『銃後の郷土』という写真集です。ここには、当時の福重村の写真約70枚が収められています。 写真集には、当時の村長の挨拶を始め重井田郷、立福寺郷、野田郷、今富郷、草場郷、矢上郷、弥勒寺郷、皆同郷、寿古郷、沖田郷ごとの出征兵士の家族、婦人会、青年団、それに村役場や神社などが写っています。 ほとんどが集合写真ばかりですが、右のような風景写真も数枚ありました。写真説明欄の通り1946年の秋の収穫の後です。中央の田んぼには、まだ少し稲掛けがしてありますが、脱穀後の稲藁も沢山積まれています。 左下部の帽子を被った白い服の方は、牛に鍬(すき)を付けて、田んぼを耕しているところです。現在はトラクターが主役ですが、当時や戦後も数十年間は、人力プラスこのような牛馬を使った農作業ばかりでした。かく言う私も小学生の頃、父親の指示で牛の鼻緒を取りながら農作業の手伝いをしたことがあります。 写真右の下部には、稲掛け竿や稲掛け足が役目を終えて放置されていますが、後で片付けられたはずです。写真中央左には、妙宣寺の屋根も見えています。後方中央左の山が鉢巻山(335m)、やや薄く見える右の山がが郡岳(826m)です。 この写真は、あくまでも私の想像ですが、たぶんに当時この皆同郷城の前にあった福重小学校の校舎2階付近の高い位置から、やや広角に近いレンズを使って撮影されたものだと思います。 この当時の福重村は田んぼや山林ばかりに見えていますが、現在は高速道路(長崎自動車道)、広域農道(レインボー道路)や夢ファーム・シュシュの建物始め沢山の住宅が建っています。ただ(鉢巻山は少しだけ変わった感じに見えますが)郡岳も鉢巻山も、そんなに大きく変わっていないような気がします。 あと、この写真を撮影している場所(福重小学校)付近には、戦時中1950(昭和20)年頃に福重飛行場ができて、戦後の一時期までありました。また、この写真中央付近の家には戦時中に焼夷弾が落ち、また(この写真には写っていませんが)近くの今富城跡付近(現在の福重出張所の裏山周辺)には爆弾が落ちて11名が生き埋めになり結果9名が死亡という痛ましいことも発生しました。(戦跡の詳細は、ここからご覧下さい) 上記の写真は、このようなことが起こる数年前のまだまだのどかな感じの残る風景写真でした。私は、この写真を見ながら中国の杜甫が詠った『国破れて山河在あり』(春望)と言う詞を思い出すとともに、これ以上、この二つの山が変わらないで、ずっとそのまま残って欲しいなあと思いました。 (掲載日:2006年6月1日) <参考資料一覧> |
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