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写真が語る福重の歴史や人
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農家と野菜収穫の風景
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この写真3枚は、いずれも寿古町の松下さんよりの提供です。撮影場所は、いずれも当時の大村市寿古郷(現在の長崎県大村市寿古町)です。 当時、カメラを持っていること自体まだ珍しい時代です。しかも、このような農村風景を収めておられるのは、大変すくないと思っています。 一番上側の萱葺き(かやぶき)屋根の農家は、私自身にとっても懐かしいです。私が小学生の頃まで、福重地区の農家は、ほとんど、このような家ばかりでした。 この屋根は、夏涼しく、冬暖かかったです。家の中心には囲炉裏(いろり)があり、家族の者が何を言わなくても自然に火のそばに集まってきていました。 その時、たいてい子どもは学校か何かの報告をおこない、父親は自慢話、母親はそれらに相槌を打つなど、どこの家庭も似た雰囲気の会話があったのではないでしょうか。 この写真左側にいる牛は、良く肥えていて、力もありそうです。当時農家にとって牛は大事でした。 大八車を引かせたり、鋤(すき)を付けて田んぼを耕したりと、農耕でまず大活躍しました。また、牛を売ることによって現金収入の少ない農家にとって、貴重なお金をもたらしてくれました。 牛を手入れする時、子どの役割もあって、エサになる草払い、水くみはたいてい子どもの仕事でした。たまには、近くの川に牛を連れて行って、水浴びさせ、大きい亀の子たわしみたいな物で、おっかなびっくりで、ゴシゴシこすってもいました。 まだまだ、農家に牛が多い頃まで、各地で品評会もたくさん開催されていました。大村市あるいは長崎県で「一等賞を取ったバイ」、「金賞をもろうた」と言うのが、飼い主の自慢話でした。 子どもは、それらの話に付き合う分、近所や親戚を呼んでおこなわれていたお祝い会でのおご馳走が楽しみでした。牛は家族かそれ以上に大事であることは、子どもながら分っていたと思います。 野菜の取り入れは、現在のようなハウス栽培がない頃、収穫時期は一気にしないと出荷できなくなり、大変忙しい作業になりました。当然(現在も変わりはないですが)きゅうりは一本いっぽん揃えていました。かぼちゃは日持ちすることもあり、大きく育った分から、まとめて出していました。 ただ、野菜は気候に左右されるため、収穫の山谷が大きなものでした。あまり豊作になっても、価格が落ちたりしました。だからといって、不作も歓迎されず、作付け面積を毎年変えたり、長期の天候を予想してみたりと、出荷用の野菜作りは難しい作物でもありました。 下側写真にリヤカーが写っています。当時、今のように各農家に自家用車(トラックなど)がある訳でなく、市場に運んでいく場合を始め、自宅と畑の間の運搬用その他、活躍していました。 リヤカーまわりの囲い板は、たいてい手作りで直し(この写真のように)底が深いもの、逆に浅いものなど、各農家で少しづつ違っていたと思います。 リヤカーでの運搬は、下り阪や平地だけなら、いいのですが登り道になれば、大抵子どもは降りて後ろから押すのがその役割でした。段々に、普及してきたオート三輪車などは、まだ珍しく、子どもながら、その車をあやつる運転手が、かっこうよく思えました。 (掲載日:2005年5月17日) <参考資料一覧> |
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