1)今富城を紹介するにあたって
まず、この今富城を記述するにあたって大村市文化振興課の大野氏の講演内容(2008年2月2日、第3回福重郷土史講演会)を参考にしています。掲載にあたり改めて感謝申し上げます。 また、今富城跡(携帯電話無線基地局建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書、2008年6月30日、大村市教育委員会・発行)を引用、参照もしています。
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今富城跡
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この今富城の存在を証明する史料(資料)は、後の項目で個別に詳細に書く予定です。ここでは、まず箇条書きで紹介します。念のために、下記項目以外にも史料はあるのですが、分かりやすい例として4例を挙げています。なお、順不同です。
(1)大村藩領絵図(江戸時代に大村藩によって作成された)に、今富城が描かれている。
(2)(大村)郷村記(江戸時代に大村藩によって作成された)に、今富城の規模などが記述されている。
(3)一瀬永正などの系図に、今富城の名前が書いてある。
(4)宣教師ルイス・フロイスの記録に記述されている。
今まで紹介してきました城址で岩名城、尾崎城、江良城、好武城に比べ、かなり豊富な史料(資料)によって、この今富城は裏付けられます。なぜ、このようなことになっているかと言う点ですが、それは次のことがあると思われます。
第一に、この城が岩名城、尾崎城、好武城に比べより新しい城だったこと。(念のため、当然、三城城や玖嶋城などは、さらにずっと後に築城された新しい城である)
第二に、当時の政治・経済・軍事上の中心地だったこと。
第三に、大村氏が関係していること。
上記に「第二に当時の政治・経済・軍事上の中心地だったこと」と簡単に書いていますが、この項目は、なぜこの地に今富城が築城され、当時、大村の中心地だったかを述べる場合、地形的な意味も含めて重要な意味を持っています。このことは、後の項目で詳細に書く予定です。
戦国時代に大村氏も拠点だった城ですが、その後に三城城に政治の中心が移ったことや江戸時代になり廃城になったため、その役割はほとんど終わりました。また近代になり、国鉄大村線開通、国道34号線の建設、鉄筋コンクリートになった時の福重橋(通称:郡橋)の架橋工事などで、この城址の南側斜面から土砂が大量に持ち運ばれました。さらに戦前には、高射砲陣地(仮称:皆同砲台)などの建設もあり、この今富城址周辺には砲台、弾薬庫、防空壕などが築かれ、現在も戦争遺跡が残っています。そのようなことから、戦国時代の遺構は、ほとんど壊されたものと思われていました。
しかし、北側斜面関係は、壊され方が少なかったのか、上記データ表にも書きました通り、大村純忠時代の横堀(空堀)遺構が、2008年に発掘されました。この斜面側は、可能性として城遺構の可能性が残っていると思われます。このようなことも最初に申し上げながら、これから今富城について紹介していきたいと考えています。
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江戸時代、大村藩領絵図、(中央やや右下部付近が)今富城
(中央下部付近、紺色極太線は郡川=こおりがわ)
<郡川の直角部分の右岸が寿古(当時は「須古」と表記)>
(「須古」の小さな丘みたいな所が好武城=古代肥前国の彼杵郡家があった場所)
絵図中央部を東西に流れているのが石走川(いしばしりがわ)
絵図左上側方向に「エラノ城」(江良城)がある
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2)今富城と大村藩領絵図
まず、右側の大村藩領絵図(福重地区の一部分)をご覧願えないでしょうか。(大村藩領絵図の詳細は、ここからご覧下さい)この絵図の中央やや右側下部に、少し見にくいですが、今富城という文字が見えます。
この文字の下側に極太い線で紺色に見える郡川(こおりがわ)のが流れています。さらに、この城の南西方向(絵図では下側)が郡川の河口や大村湾となります。他の城の位置関係ですが、まず直角に郡川が曲がった部分の右岸(絵図では左側)部分に、やや山林みたいにこんもりとした形状が描かれていますが、この周辺が好武城です。
また、絵図の左上側方向に「エラノ城」(江良城)の文字が見えます。あと、この絵図では切れてしまって見えませんが、絵図の右端方向(郡川の上側付近)に「尾ノ城」(尾崎城)が本来なら描かれています。さらに、その右側に「岩の城」(岩名城)があります。
絵図中央部を右から左へ流れているのが、石走川(いしばしりがわ、最下流部は松原川とも呼ばれていました。この川は現在、通称”よし川”とも呼称されている)です。この石走川周辺は、太古は海だったこともあり、戦国時代は深い水田でした。周囲が水田だったため、仮に鳥になった気分で上空から見渡してみれば、この今富城のあった丘だけ、まるでポッカリ浮かんだ島みたいに見えたかもしれません。
この絵図は、今富城が戦国時代に「なぜ、この地(丘)に城が築かれたのか?」と言う疑問に、まず地形上からもヒントが得られるものです。直近に郡川、周囲はほぼ全て深い水田があり、敵からも守りやすい丘でした。また、既に掲載中の大村最古の縄文遺跡である岩名遺跡、その後の冷泉遺跡もそう遠くない所にあります。
また、さらに後世になりますが、黄金山古墳、野田古墳、地堂古墳を始め多くの古墳が福重地区にあったことでも分かる通り、県内有数の穀倉地帯でもありました。そのような穀倉地帯や地形上からも中心地に位置する丘です。また、交通も便利だったことなどが挙げられると思います。つまり、この今富城は、郡川の下流400mにあった古代肥前国時代からの彼杵郡家も含めて、この地域一帯は現在の大村市内だけでなく長崎県央地域における政治、経済、軍事、交通の中心地だったとも言えます。
3)今富城と大村郷村記
江戸時代の大村藩が編纂した(大村)郷村記(通称:大村郷村記)郡村之内 福重村の古城 古戦場之事の項目に「今富の古城」として今富城は書かれています。ただし、江戸時代の大村藩が作成した文書は誤用や偽装の記述も多く、特に、大村氏系図関係(大村氏は藤原性で994年四国から来た説=偽装の「大村千年の歴史」説。さらには「大村純伊」関係(「中岳の合戦」、「大村寿司」や「郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)の起源や由来説は、全部偽装の歴史と言われています。(詳細は、別のページ「お殿様の偽装」もしくは「大村の偽装の歴史や表現一覧表」ページから、ご覧下さい)
この今富城の中にも、その「大村純伊」の名前が登場してきます。郷土史の先生方の中には大村純治=「大村純伊」同一人物説(つまり大村純治が変名して「大村純伊」となったのではないか)と言われています。その点も注意して下記の大村郷村記は、ご覧願います。なお、城の規模などの記述内容は偽装の必要性もないので、ほぼ正確と思われます。
この郷村記によりますと次の通り書いてあります。「 」内は引用部分、ただし、原文は続き文ですが、見やすいように一部空白(スペース)を挿入しています。
「 一 今冨の古城
大手南搦手北の方本丸高サ平地より六間東西四町余 南北壱町余 惣郭廻り拾五町余 南の方郡川あり 北の方 三町程は深田なり 城下館跡石垣あり 大村信濃守純伊築之純伊始大村の館に居り後郡村今冨の里に城を築き移り住す 是を今富城と云 築年月不知 今は畠地と成る 人家山林あり 」
上記の(大村)郷村記を現代風に口語訳すると次の< >の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。
< 今冨の古城
(城の)正門、南裏門、北の方角の本丸(などのある丘の)高さは、平地より11m、東西の長さは約436m、南北は約110mである。城の周囲は約1,635mである。南の方に郡川(こおりがわ)がある。(城の)北側約29,751平方メートルは深い水田である。城下館(屋敷)跡に石垣がある。大村信濃守純伊が(現在、大村市乾馬場町と同じ所にあった)大村館にいたが、その後で今富の里(今富村)に城を築城し、移り住んだ。これを今富城と言う。築城年月は不明である。今は畑になっている。民家や山林もある。 >
既に先に紹介中(詳細は、別のページ「お殿様の偽装」もしくは「大村の偽装の歴史や表現一覧表」ページ参照)の通り、大村の歴史の中でも二大偽装とも言える「大村氏系図=「大村千年の歴史」説と「大村純伊」伝説)があります。この今富城でも、その内の一つがありますので、止むを得ず、このことから書かざるを得ません。
先の今富城データ部分にも書いていますが、(大村)郷村記では、本来なら佐賀の藤津郡から来た大村純治と同一人物と思われる「大村純伊」が、まるで別人物みたいに描かれ、しかも、この「大村純伊」が、あたかも今富城を築城したみたいに書かれています。
また、大村氏(大村純治)は佐賀から郡村に進出してきたのに、大村館から移り住んだみたいにも記述されています。このようなことから今富城の築城主などの見方は注意が必要です。(この大村純治についての詳細は『お殿様の偽装』シリーズの「大村純治その1」、「大村純治その2」ページをご覧下さい)
「大村純治もまた郡城に入る」とは何を指すのか
(大村)郷村記では、上記の通りですが、ここに記述されている「大村純伊」の築城などでは、史実と全く合いません。”大村の偽装の歴史”では、大村純治の後をついだ「大村純伊」は、1474(文明 6)年に「中岳の合戦」をしたことになっていますが、下表との対比では、それよりも遅い40年後でも「お父さんの大村純治」は、まだまだ佐賀藤津郡の本領回復に向けて、奮闘中であり、年代のズレがあまりにも違いすぎます。
鎮西誌に書かれている<永正四年(西暦1507年)二月、大村純治もまた郡城に入る>と言う記述は、佐賀から進出してきた大村純治が、郡城=今富城に入ったと解釈できます。(念のため、私は、この郡城のことを郷村記を参照していたので解釈違いしていて今まで好武城のことしていましたが、今後は今富城のこととして記述します)
この大村純治は、先の「大村純治その1」、「大村純治その2」ページにも詳細に書いていますが、佐賀の藤津郡の本拠地で負けてもまけても戦国武将らしく佐賀各地を徘徊しながらも本拠地回復のため努力した人です。しかし、一旦本拠地に戻ったのですが、それでも佐賀の藤津郡では長くは続かず、大村に進出してきたものと思われます。大村へ本拠地を移しながらも、それ以降も藤津郡への再復帰の戦は続けています。
大村氏と言う同じ名前なので、少しややこしいのですが、その当時、既に現在の大村市にも、別の大村氏の家系があったことも確かと言えます。しかし、(大村)郷村記で言う「大村純伊」では、年月が、30〜40年間も大幅なズレがあり、史料的には矛盾だらけになります。しかし、現在の大村市内に出回っている書籍類では、この偽装の歴史優先の書き方で、むしろ上表を取り上げた記述が少ない状況です。
ここからは私の推測ですが、たぶん佐賀から来た大村純治の家系と、それまでいつの年代かは別としても先に住んでいた(現在の大村市乾馬場町にいた)大村氏の家系とは、分かりやすく表現すると佐賀側が”本家”、長崎側が”分家”の関係だったのかもしれません。そして、戦の時には互いに協力関係にあったとも思われます。それで、当時の郡地区を治めていた今富氏(今富村周辺か)、武松氏(竹松村周辺か)、東福寺庄園などを徐々に従えていったのではないでしょうか。
そして、大村純治が本格的に現在の大村市に来てから、いずれかの時点で両家系は、大村純治の家系に一本化(つまり最初からいた大村家が家来になったか、はたまた滅ぼされたのか不明ですが)になったのかもしれません。いずれにしても同じ名前だったので、江戸時代に系図や歴史を創作しやすかったのかもしれません。
しかも、大村純忠時代、キリシタンによって神社仏閣の焼き討ち、略奪、僧侶の殺害さらには今富城にあった大村家の墓まであばき郡川に流したので、記録文書など何の証拠も残らなかったので後世の江戸時代、大村藩は歴史の偽装がしやすい条件にあったのかもしれません。いずれにしても、私は大村の戦国史を語る時、この大村純治は大きなターニングポイントだったと思えます。
まだまだ、史料(資料)がそろっていない中で鎮西誌に書かれている<永正四年(西暦1507年)二月、大村純治もまた郡城に入る>と言う記述のみを強調するのは避けるべきですが、上表など全体の流れからして、この当時のことをまとめると、私の推測も含めて下記のことを意味していると思われます。
(1)郡城は今富城と思われること。
(2)郡城(今富城)を拠点に、その後も大村純治は佐賀県藤津郡の本領回復を目指していたこと。
(3)先に郡村に勢力があった今富氏、武松(竹松)氏や庄園などを佐賀の本家みたいな大村純治と、先に大村に来ていた分家みたいな大村氏と両側から挟み打ちにするようなやり方で、平定していったと思われること。
(4)1507年頃に佐賀から来た大村純治が今富城に居城して、その後、先に大村に来ていた分家みたいな大村氏を始め大村の各豪族は大村純治の家来みたいになっていったと思われること。
いずれにしても早急で一方的な解釈は注意が必要です。ただし、現在の大村市内では、”偽装の歴史”である「大村純伊」伝説は微に入り細に入り触れてあるのに、上表のことは一部の書籍を除けば記述されていないのは、逆におかしいこととも言えます。私は、今後の新たな史料(資料)や遺物の発掘にて、この時代の解明を願っています。
4)今富城と一瀬永正の系図
今富城のことは、この地を基盤にしていた一瀬家の系図にも登場してきます。寿古町の増元氏は過去に今富町の一瀬家の系図を確認されました。さらに上野の方では大村史談会発行の『大村史談・第15号』((1978年9月発行)の58〜61ページにかけて、この一瀬家系図の論文(執筆者:志田一夫 氏)があることが分かりました。このページの中に白黒写真で一瀬家系図が掲載されていました。
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一瀬家系図の一瀬永正(部分) 大村史談・第15号60〜61ページより
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この一瀬家は「大村市今富キリシタン墓碑」(一瀬永正と奥さんの夫婦墓と言われている)に彫られている一瀬永正に繋がる家系です。(「大村市今富キリシタン墓碑」の詳細は、ここからご覧下さい)この一瀬永正は戦国時代、大村純忠の重臣で、ともにキリシタンの洗礼を受けた人と言われてきました。当然、大村純忠とともに幾多の合戦を重ねたものと思われます。
右画像は一瀬家の系図の一部分です。画像の赤線及び下記文中の太文字は分かりやすいように上野が付けました。画像の一番上の右端に永正の名前、その左下側に郡今富城(「郡村の今富城」)さらに10行ほど左の行に「今富城篭」(「今富城に籠城した」)などの文字が見えます。下記< >内には、その「今富城篭」関係部分の行のみを記述しています。
< 永正 (中略) 天正六年正月十四日竜造寺隆信皆是瀬村朝追岳ノ出陣時 今富城篭 >
上記の意味は上野の素人解釈ながら概要「(旧暦)天正六年(西暦1578年)1月14日に(佐賀の)竜造寺隆信が、大村の皆是瀬村(=萱瀬村、かやぜむら、現・萱瀬地区)に攻め込んで来た時、(大村純忠は)朝追岳(あさおいだけ)に出陣し、その時(一瀬永正は)今富城に籠城した)」と言うことだと思われます。また、この戦は一般には「菅無田(すげむた)・朝追岳の合戦」とも呼ばれています。
今富城篭の意味するもの
これは読んで字のごとくで、一瀬永正が何らかの理由により「菅無田・朝追岳の合戦」時に直接、萱瀬には行かずに「今富城に籠城した」(注:籠城とは、城などの中にたてこもって敵を防ぐこと)と言うことと思われます。
ここからは上野の推測の話ですが、当時、今富城は政治上も軍事上も拠点で合戦中に、また別の敵含めて北から攻めてくる可能性もありました。さらに想像たくましく考えれば、たぶんに大村純忠は、一瀬永正に対し「一瀬は今富城に残って、この城を守れ」と命じられたから籠城したと思えます。再度、一瀬家系図についてですが、このようなことは系図に書かれた一瀬永正の事績(事業とその功績)のこととはいえ、今富城がその当時城として存在していたこと、あるいは今富城が大村純忠時代、実践的な城だったことを物語っているものです。
また、上記とは別の戦のことですが、大村純忠は『鳥越・伊理宇の合戦(とりごえ・いりゅうのかっせん)』(場所は現在の大村市今富町から立福寺町の境付近。今富城から直線で約900メートルの距離にある)があった時、この城から出陣したと言われています。(この『鳥越・伊理宇の合戦』については、ここからご覧下さい)なお、この 『鳥越・伊理宇の合戦』は、(大村)郷村記には、野岳の陣として記述されています。
あと、これからは補足です。先の菅無田・朝追岳の合戦や鳥越・伊理宇の合戦始め、この時期は合戦が多く、その意味からして政治上だけでなく軍事上からも今富城の存在が大きかったと言えます。しかし、この北部地域は佐賀側から攻め込まれやすい位置でもありました。それで、大村純忠は郡川、大上戸川(本堂川)と言う二つの河川の先に位置する三城城を築城しました。
この三城城の築城時期は、上記二つの合戦より以前の永禄7(1564)年です。あと三城城について現在の説では既にあった城へ、どちかと言うと増築みたいなものとも言われています。また、ほぼ同時期頃より、政治の中心も今富城から移して行ったものと思われます。また、このことは古代肥前国の彼杵郡家以来ずっと福重地区(郡地区)が、大村(ひいては長崎県央地域)の中心地でしたが、この時点から現在のように変わっていったものとも思えます。
5)今富城と宣教師ルイス・フロイスの記録
宣教師ルイス・フロイスは、日本での記録を沢山書いています。その記録の中に、この城について「郡城」(注:今富城のことである)の名前で、いくつか登場してきます。ご参考までに『完訳フロイス 日本史9』(ルイス・フロイス、松田毅一・川崎桃太訳、中公文庫)の第25章(第一部九九章)の347ページの5行目から次の< >内の記述があります。 (文中の郡城の太文字は分かりやすいように上野が付けた)
< ガスパル・コエリュ師は、当時、大村諸領の上長であったが、彼ら至福の殉教者たちの遺骸をなんとかして入手できないものかと切に望んだ。 そしてキリシタンたちは大いに努力して、それを手に入れることができた。彼らはそれを迎えるために、できうる限りの荘厳な行列を準備した。 おびただしい数のキリシタンがそのためにその場に参集した。司祭たちは、長衣をまとい、天蓋の下に彼らの遺骸を迎え入れ、その途次、 彼らのために讃美歌や詩篇を歌い、ドン・ハルトロメウ(大村純忠)も来て、彼らに同行し、こうして彼ら の遺骸は郡城のサンタ・クルス教会にもたらされた。 この場において大いなる祝祭が催され、キリシタンたちの舞踊、大いなる喜悦、日本の風習による宴会、演技が展開した。 そ して司祭は、殉教者である彼らにふさわしい墓地を造らせ、今彼らはそこに葬られている のである。 (以下、文章省略) >
このようにフロイスの記録にも、この郡城=今富城は登場しています。しかも、この今富城には一時期サンタ・クルス教会があったこと、あるいは殉教者の遺骸が、大村純忠なども同行して盛大に、この地に埋葬されたことも伝えています。2010年現在、このことについての発掘などされていませんのでサンタ・クルス教会などの所在跡は不明です。
また、冒頭紹介しました今富城跡(携帯電話無線基地局建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書、2008年6月30日、大村市教育委員会・発行)の3ページには、上記の葬式に至る経過が書かれています。極簡単に書きますと、元亀3(1572)年の三城七騎籠り(さんじょうしちきごもり)と言われている戦と関係して伊佐早領(諫早)周辺で捕まり殉教した二人のキリシタンの葬式を、この郡城=今富城で執り行っているのです。
ここからはあくまでも私の推測ですが、この時、三城城は落城した訳ではないので、普通に考えれば(諫早からも)三城城からも遠い郡城=今富城まで来て、わざわざ葬式をおこなっていることに何か不思議な感じがしました。しかし、宣教師や大村純忠の肝いりで盛大におこなわれた葬列や葬式が、当時の本拠地あるいは大きな教会(サンタ・クルス教会)があった所、つまり、郡城=今富城が政治(この場合、宗教も)の中心地だったからこそではないかとも思えるのです。
あと話は前後しますが、1574(天正2)年、度重なる宣教師からの要請を受けていた大村純忠がついに許可し、キリシタンは大村領内にある神社仏閣のいっせい焼き討ち、キリシタンに改宗しない領民追放、僧侶阿乗などの殺害までおこないました。また、この時まで今富周辺にあった大村家の墓は、キリシタンから暴かれ近くの郡川に流されました。時期の特定は出来ていませんが、この今富城内にあったサンタ・クルス教会は、たぶん、その後に建てられたものと思われます。
以上、城の呼び方の違いはありますが、いずれにしても、この丘に郡城=今富城があったことはフロイスの記録からも明らかと言えます。
6)なぜ、今富城が「郡城」と呼ばれたのか
この項目では、今富城=郡城と密接不可分の関係があるので郡村(以前の松原村、福重村、竹松村の総称)、郡岳、郡川などの名前の由来を、おさらい程度に書きます。その前に、郡と言う名前が定着する前(古代肥前国時代以前)、この地域は大村の地名発祥の地で”大村郷”そのものでした。(この『大村の地名発祥』について、詳細はここからご覧下さい)
そして、古代肥前国時代には、彼杵郡家(そのぎぐうけ)=郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)が、この地に置かれました。その場所は、寿古町の好武周辺と思われます。(詳細は、「彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった」をご参照願います)そして、その頃から、彼杵郡家の”郡”から、この地は郡村と呼ばれ、この地で一番高い山は郡岳、川は郡川と呼ばれるようになりました。
大村の地名発祥の地:大村郷〜郡村(現・郡地区)の地名変遷 |
大雑把な推定年代
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大村郷と郡村の名称変遷
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古代・肥前国(彼杵郡家の設置される以前)
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大村郷
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古代・肥前国、彼杵郡家が7世紀末〜8世紀初頭に設置されたと推定した場合 |
(大村郷)〜(郡村)
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古代・肥前国、8世紀中頃以降〜(江戸時代末) |
郡村
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(明治時代)〜現代 |
郡地区
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念のために、この当時、現在の大村の中心地は、遺跡や遺物も出ているようですから、全く人が住んでいなかったとまでは言いませんが、荒地などでとても穀倉地帯と呼べる状況ではありませんでした。ですから、(現在の郡地区の)郡村が定着した相当後から、現在の大村の中心地が”大村”と呼ばれるようになったと推測されます。
また、現在は「大村の郡地区」と呼ばれていますが、古記録によりますと、中には「郡の大村」との表記もあります。この書き方自体どちらが当時の中心地だったかを雄弁に物語っているとも言えます。人の歴史を考える時、古今東西、まずは水、穀物・食糧(穀倉地帯)をベースに、交通が整っていくことにより発展してきた思われます。そのような条件が揃う地域が、結果として情報、(宗教含む)文化、商業なども先に進展してきた考えられます。
郡地区(旧・郡村)は、それらの条件もあり旧石器・縄文・弥生・古墳時代、さらに古代の遺跡や遺物が多数出土するのは、そのことを証明していると思われます。だからこそ、古代から戦国時代まで長崎県央地域の政治・経済の中心地として郡村は、その役割を果たし,、古代からの彼杵郡家や庄園管理の役所、さらに戦国時代に入り佐賀から来た大村純治などが居城した今富城=郡城などが中核だったと推測されます。
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写真中央、Uの字に見えるのが堀の跡(堀の長さ約15m、堀の幅上側3.5m) |
7)戦国時代(大村純忠の前後)頃の今富城の横堀(空堀)
2007年8月に今富城の北側で戦国時代末期(大村純忠の前後)頃の横堀(空堀)が発掘されました。(右写真参照)調査時の大村市教育委員会のお話を箇条書き風にすると、この横堀(空堀)の遺構についての概要は次の通りです。
1)最初8月9日に横堀(空堀)の遺構が見つかった。堀の位置は下側にある市道より高さ約5mにある。
2)発掘された堀の長さは15m。堀の幅は上側が3.5m、下側が1.5m。堀の深さは最深部で1.4m、浅い部分で0.7mである。
3)この堀は、傾斜面に対して横堀である。ご覧の通り赤い土、黄色い土みたいに土の層が見られるが、その下側から、この堀は出てきた。
4)横堀(空堀)の築かれた年代について、まだ、調査も終わっていないので詳細なことは言えないが、戦国時代末期=大村純忠の前後頃のものと思われる。この横堀(空堀)は戦国時代後半期に流行った形式のものである。
5)横堀(空堀)の役割は、防御用だろう。
上記のことから発掘された横堀(空堀)の大まかなまとめをおこなうと、次の< >内の通りと思われます。 < 2007年8月に見つかった今富城址の堀の遺構は横堀(空堀)という種類である。このような堀は、戦国時代後半期に造成されたものが多い。今回の堀も、おそらく戦国末期(大村 純忠の前後頃)が佐賀側(竜造寺や後藤など)に対して防御を強化したものであろう。 >
今まで2)〜5)までの項目で主に文献類で今富城のあったことを述べてきましたが、2007年8月時の横堀(空堀)発見は、具体的に現地での遺構があったので、さらに意義あるものとなりました。あと、発掘場所は今回限定的であり、さらにこの延長線上に横堀(空堀)の可能性もあります。また、今富城は、国鉄大村線、国道、福重橋架橋や高射砲陣地建設などに南側斜面は削り取られ、城址らしき遺構は全くないと言われてきました。
しかし、北側斜面に関して言えば、上記の横堀(空堀)遺構と同じようなものが、まだ可能性として残っているようにも思えます。今後も今富城址やサンタクルス教会跡など、何らかの遺構や遺物が発見されないか、期待して待ちたいと思います。
城遺構の補足:切通(きりとおし)について
まず、右側の切通写真と、ページ下段の「10)大村市史の記述と縄張図」も参照願います。この縄張図の「a」が、切通の場所です。右側の切通写真の説明ですが、南側(下側)から北側(上側)方向を撮ったものです。写真中央下部から、上側(奥側)へ道があります。なお、この小道は、今富城跡を南北につながっていて縦断できますし、東側方面へ登る小道もあります。
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今富城の切通(きりとおし)
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また、同じ写真で、その道の両脇に高い崖が見えています。この切通部分は、先の縄張図からも推測できる通り、元々は丘(尾根)の一部でした。現在、高さ(目算で6m位)、幅(同じく3m位)あります。戦国時代も同じ大きさだったかは定かではありませんが、いずれにしても丘の連なる場所を丁度、大きな溝を掘るように切ったと推測されます。
なぜ、丘を切って切通を造ったか? その第一の理由は、敵の浸入をしにくくするためと思われます。丘(尾根)がつながっていれば、そのまま敵が主郭(本丸)目指して、容易に周囲(特に東側方面)から登りやすいです。しかし、このような切通があれば仮に東側から攻めてきたとしても、一旦、下部の地面に降りなければ主郭(本丸)のある丘に登れないのです。城は強固な防御が一番大事で、そのため丘を深く(崖を高く)幅広く掘ったものと推測されます。
2番目の理由として、道として造ったと推測されます。この今富城跡の丘の東・西側斜面は、比較的緩やかです。しかし、南・北両面は、東西面よりは、やや急斜面です。そのため、城の主郭(本丸)や副郭(二の丸)へ、南側から人の通行あるいは物資の運搬のために道として使うために掘った可能性もあります。
あと、他の項目にも書いていますが、今富城の丘は、明治時代には国鉄(現在のJR)大村線、あるい昭和時代には福重橋の架橋工事の時、盛土をするために南側斜面が大きく削られました。また、先の戦争中には、通称「皆同砲台」建設のため、その砲台(銃座)、弾薬庫、指揮所、炊事場などが出来たため城遺構が、先の項目の「横堀(空堀)」などを除けば通常は見当たりません。(ただし、発掘調査すれば別です)
そのようなこともあって、城遺構として現在、直ぐに見れるのは今のところ、この切通だけと思われます。
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今富城(写真中央部)の航空写真
<今富城跡(携帯電話無線基地局建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書、2008年6月30日、大村市教育委員会・発行)の掲載写真より)>
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8)今富城と周辺の史跡などについて
この項目では、戦国時代の城と直接関係あるか、ないか不明なものも含め今富城周辺の史跡関係のいくつかをご紹介します。その前に、なぜ、このようなことを書いているかと言いますと、城や砦などは戦国時代に全国でも大村でも急遽築かれた例も沢山あるかと思います。
また、逆に大昔から人が多く住んでいた場所も当然あります。さらに中には山や島などに今まで人が全く住んでいなかったような所に築城された例もあります。このように城や砦などは、どこも様々な経過があって存在したと思われます。
福重地区でも例えば、好武城の場合、古代肥前国の時代からの彼杵郡家(県央地域の役所跡みたいな所)に、その延長線上のように築かれた城もあります。ですから、この好武城に関しては戦国時代以前の遺物が大量に出土しています。また、逆に尾崎城や江良城などは、尾根の地形をうまく利用し防御しやすい、戦国時代らしい城もありました。
このような状況から、今富城の経過をどう結論付けていいのか、現段階ではあまりにも遺構とか遺物の発掘が少ない中で、そのようなことは避けるべきだとも思います。しかし、同時に参考になるかどうかは別にしても、この周辺の歴史的経過や史跡なども見ておく必要もあろうかとも思います。この今富城から、そう遠くない距離に岩名遺跡、冷泉遺跡、黄金山古墳、野田古墳(群)などもありますが、そこまで書くとやや古すぎますので、今回は下記の4項目について触れたいと思っています。
(1)白水寺跡
この今富城の最も近くにある史跡が、白水寺跡(はくすいじあと)です。この仏教寺院跡の場所は今富城と同じ丘にあり、城跡の真横と言う位置関係になります。『大村市の文化財』を参照して概要を書きます。この寺は、郡七山十坊の一つで禅宗でした。創立の時期は、正確には不明のようです。寺領は 10石8斗余りだったようです。
境内は天文20年(1551)に亡くなった大村純前(すみあき)の墓所で、火葬であったといわれています。 大村純治と同一人物と言われている「大村純伊」の墓も福重にあったといわれているので、この近くだったようです。ところが、天正2(1574)年キリシタンによって壊され、墓は掘りくずして、遺骨は郡川に流されたと伝えら れています。(この白水寺跡の詳細については、「福重の名所旧跡、地形」ページの『白水寺跡』から、ご覧下さい)
(2)皆同の侍の墓
この『皆同の侍の墓(かいどうのさむらいのはか)』は、郡川の堤防横で今富城から直線で約250mの位置にあります。墓石が3基あり、それ以外にも五輪の塔の一部などあります。この墓については、 (大村)郷村記などの古記録に載っていないようなので、地元伝承を書きます。それによりますと、この墓について皆同町の方には「侍が切り死にしたもので、その侍の墓だ」との内容で伝わってきました。
ただし、「この付近で合戦などはなかったこと」、「古戦場の一つとして『鳥越・伊理宇の合戦跡(とりごえ・いりゅうのかっせんあと)』があるが、それにしては遠すぎるのではないか」との指摘もあります。また、1574(天正2)年にキリシタンが、他宗教の弾圧目的で神社仏閣の焼き打ち、略奪、僧の阿乗の殺害などを、この福重でもおこないました。また、上記(1)白水寺跡にも書いていますが、キリシタンは同時に大村氏の墓を暴き遺骨を郡川に流すことまでしています。
ですから、このキリシタンの弾圧攻撃(1574年)以降の墓とも推測されます。以上のような事柄を積み上げていきますと、この侍の墓は誰なのか、ほぼ特定さえ出来ますが、これ以上の想像、推測は書くべきではないとも思えます。(この皆同の侍の墓の詳細については、「福重の名所旧跡、地形」ページの『皆同の侍の墓』から、ご覧下さい)
(3)鳥越・伊理宇の合戦跡
この古戦場『鳥越・伊理宇の合戦跡(とりごえ・いりゅうのかっせんあと)』は、今富城から直線で約900m東側にある大村市今富町から隣の立福寺町にまたがった尾根上の地域です。永禄9年(1566年)に戦われました。この古戦場跡についての詳細は、鳥越・伊理宇の合戦跡から、ご覧願います。ここでは極簡単に書きますが、大村領を攻めてきた佐賀・武雄の後藤貴明の軍が、野岳に陣を張りました。
そして、大村純忠の軍は主力が今富城から出て、別に尾崎城からも兵力は出たと推測されますが、この古戦場付近の一番高い今富の丘(現在、今富町の墓付近)に陣を張ったと思われます。そして、野岳から立福寺の尾根伝いに下りてきた後藤貴明の軍と、鳥越・伊理宇付近で迎え撃ち、激闘を展開しましました。
(4)今富の侍の墓
上記の鳥越・伊理宇の合戦周辺の民家近くにあるのが、今富の侍の墓です。(この墓の詳細については、「福重の名所旧跡、地形」ページの『今富の侍の墓』から、ご覧ください) この場所は、今富城から直線で約950m、尾崎城から約500mの距離になります。この墓は、「鳥越・伊理宇の合戦で亡くなった5人の侍が埋められている」と地元では伝わっています。
また、同じく古戦場跡周辺の、別の民家内には、3人の位牌がまつられていると聞いています。墓と関係あるかどうか、そこまでは分かっていません。いずれにしても、この周辺で激闘が展開されました。
上記、(1)、(2)、(3)、(4)は、今富城周辺もしくは1km内外の史跡関係をご紹介しました。ただし、これら以外にも、例えば元々、今富城内で創建された(現在、今富の)大神宮を初め、冷泉寺、その他にも多くの史跡はあります。しかし、今回は「戦国時代の今富城」がテーマですから、先の4項目としました。
これらの史跡と今富城との関係は様々あり、既に相当数をこの項目でも述べました。どうしても記述上、重複してしまいますが、次のテーマで、さらに別角度の視点も見ていきたいと思っています。
9)今富城周辺の史跡は何を物語っているのか
先の項目で今富城周辺の史跡、(1)白水寺跡、(2)皆同の侍の墓、(3)鳥越・伊理宇の合戦跡、(4)今富の侍の墓などを書いてきました。これらに補足する形で右下側の年表も、ご覧願います。この年表は、今富城がある郡地区の歴史の一部あるいは今富城と関係していると思われる戦国時代を中心とした関係の歴史事項です。なお、この年表は、確定していない事項もありますので、あくまでもご参考程度にご覧願います。
年表の補足として、表内に様々な人名=御家人、豪族、領袖などありますが、その勢力分野も存在した年代も複雑です。現在の大村市の範囲内と限定しても、当時は(多くの武将が各地に点在していた)群雄割拠の状態でした。また、1333年の「本庄」とは、狭義には寿古周辺、広くは福重全体を指す地名と思われます。つまり史料などでは、本庄と言う場合は、古代肥前国の彼杵郡家(そのぎぐうけ)、庄園管理などの役所を指すだけでなく地名としても使われていました。 私は、この本庄について、今で言う”本庁”とか”本省”に、ほぼ似た感じと思っています。
これからの記述は、今まで掲載してきました「福重のあゆみ」、(大村の歴史を考えるシリーズ)「お殿様の偽装」と「大村の偽装の歴史や表現一覧表など」、「大村の歴史」シリーズと、ほとんど重複していますので事前に、ご了承願います。今回のこの項目で、私が申し上げたい結論を先に箇条書きで書きます。
(1)「大村戦国史」で転換期にあたる大村純治は佐賀(藤津郡)から大村(福重)に来た。
(2)今富城は戦国時代(1467〜1568)の半期以上、政治と軍事の中心地だった。
(3)今富城は「大村戦国史」解明の有力な遺構ではないか。
年、年代
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(郡地区)今富城周辺及び関係の歴史事項(戦国時代中心)など
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古代以前
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・郡地区は縄文・弥生・古墳〜現代まで穀倉地帯で遺跡も多い |
古代
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・肥前国、長崎県央の郡役所は郡地区(寿古)と思われる |
(古代)中世
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・県央の荘園役所が郡地区(寿古)に置かれる |
1237
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・彼杵庄の御家人=大村氏、千綿氏、時津氏、長崎氏、浦上氏、戸町氏、今富氏 |
1320
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・大村氏、武松氏(竹松)、中山氏(川棚)、今村伊佐早氏(三浦)、秋月氏(今富) |
1333
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・江ノ串三郎・弥次(矢次)刑部らは「本庄・今富・大村を駆け回って兵を集めた」 |
1507
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・佐賀側から来た大村純治、郡城に入る |
1508
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・大村純治が京都へ入京 |
1511
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・大村純治、佐賀の戦で敗れ大村へ退く |
1542
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・大神宮、今富城内に創設される |
1550
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・大村純忠 大村家を相続 |
1561
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・横瀬浦の開港 |
1563
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・大村純忠、キリスト教改宗、・横瀬浦の焼き打ち事件 |
1564
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・大村純忠、三城城を築城 |
1566
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・鳥越・伊理宇の合戦 |
1571
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・長崎港開港 |
1572
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・三城七騎籠り。その後、伊佐早領内で大村領民2名が殉教し今富城内で葬式 |
1574
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・キリシタンが神社仏閣を一斉破壊し阿乗などを殺害 |
1578
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・大村純忠、菅無田・朝追岳の合戦 |
1582
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・少年遣欧使節派遣(1582〜1590) |
上記、(1)、(2)、(3)とも関連していますので、補足の意見も重複しています。まず、年表でも列記していますが、今富城のあった郡地区(福重など)は、縄文、弥生、古墳、古代、中世、近世、現代と、ずっと続く長崎県央地域有数の穀倉地帯です。
このことは、その地域の食糧生産だけでなく、経済、政治、軍事、交通運輸、(宗教なども含む)文化情報、人口などにも反映する本質的な、基礎的な事柄です。特に、政治の中心地は、そのような基礎的要素が全て備わっていなければ短期間は別としても何百年や千年などの長期間の存立は難しいものと言えます。
そのことを前提に考えれば、古代や中世の県央の中心地=郡地区の流れからして今富城がそのまま戦国時代も、政治・軍事の中心地を担ったのは極自然、当然の状況でした。しかし、現在の大村市内おいては、偽装の歴史記述の影響や大村氏の住居との関係で、あたかも大村館(乾馬場町)や三城城(東三城町)が、一般には戦国時代、政治の中心地みたいに描かれて言われてきました。
また、今では偽装の歴史と判明されているとはいえ、<大村純治も、純治と同一人物と言われている「大村純伊」も、大村館周辺から福重の好武城、今富城に来て築城した。(そして、今富城は三城城が出来るまでの一時の防御上の役割しかなかった城」)>程度みたいに表現され、記述されています。
しかし、この見解は江戸時代の大村藩が編纂した(大村)郷村記などに基づく、あまりにも偏った書き方だと私は思います。大村の偽装の歴史を指摘されている学者さんや郷土史の先生方は、大村氏は元々、佐賀の藤津郡から大村に来ていたことを書かれています。さらに、私は戦国時代の状況を言うなら佐賀の本家みたいな大村純治と、(実際はもっと複雑な関係だったと推測されますが、あえて、より分かりやすい表現をするなら)佐賀からの分家みたな形で先に大村に来ていた別の大村氏と連携しながら、それまで支配の全く及ばなかった(今富氏、秋月氏、武松氏、東福寺の荘園などが管理していた)郡地区(松原・福重・竹松)を手に入れたと思います。
なぜ大村氏数代の墓が今富城周辺にあったのか
戦国時代、大村館(乾馬場町)や三城城(東三城町)周辺が本当に、政治の中心地あるいは大村氏の本拠地と言うなら、なぜ大村純治から数代続いて今富城周辺に大村氏の墓があったのでしょうか。例えば戦とか人事異動みたいな何かで福岡の大宰府とか京都とか行った所で亡くなったならば話は別ですが、同じような大村の地域ですから、その意味するところがあると考えています。(ただし、これら今富城周辺の大村氏の墓は1574年にキリシタンが神社仏閣を焼き打ち、略奪、阿乗などの殺害をした年に大村家の墓まで暴き、遺骨を近くの郡川に流しました)
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今富城
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私は、佐賀側の戦で敗北し大村に退き本拠地を佐賀から大村(福重)に移した大村純治や、それ以降の何代か続けて今富城周辺に墓を造ったのだと思います。逆に、大村純忠の場合、前半は別としても、後半あるいは晩年近くには既に政治の中心地は今富城から三城城に移っていましたから、三城城下の宝生寺に埋葬されたと言われています。(しかし、この墓は現在どこにあるか不明のようです) 私は、このように当時の領袖(殿様)の本拠地と、その人の墓の位置関係はあると考えています。
あと、また1564 年に大村純忠が三城城を築城 しても、政治の中心地状況は、直ぐに変わらなかったのではないかとも推測しています。なぜなら、その2年後も鳥越・伊理宇の合戦を、この今富城や尾崎城近くでおこなっているのです。さらに、1572年に「三城七騎籠り」と言う城を中心とした戦が起こっています。この戦を極簡単に書けば、後藤貴明など武雄・平戸・諫早領の軍勢が、大村純忠のいる三城城を包囲しました。純忠を守る武士は、たった7名で、あとは女中か家族だったと言われています。(結果は城外にいた侍の大活躍で危機は脱しましたが) なぜ、侍は、この時たった7人=七騎だったのでしょうか。襲撃されたこの日のみの、たまたま偶然の出来事だったのでしょうか。
今富城は大村氏にとって重要な城だったのでは
大村は(現・大村市のみと限定した場合でも)、南部は三浦・鈴田、東部は萱瀬、北部は松原・福重と、縦幅も横幅も広いですから侍は分散して守っていたと思われます。さらに深読みすれば、三城城は築城して8年も経っていましたが、(分かりやすく現代風に言えば)そこは「市長公舎」プラスアルファみたななもので残りの「市役所本庁」のかなりの部分は、まだまだ今富城にあったのではないでしょうか。
ただし、戦国時代ですから平和な時の実務作業みたいなことをおこなっていたと言うより、大村全体を守る最重要拠点の城だったと推測できます。だからこそ、この城から見れば郡川と大上戸川と言う二つの河川を隔てた所にある三城城にいた大村純忠を守る侍が極端に少なかったとも思われます。
あと、もう一つ、このことを裏付けるような事例があります。これからの記述は、今富城跡(携帯電話無線基地局建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書、2008年6月30日、大村市教育委員会・発行)の3ページ目)を引用、参照しています。この中で、「三城七騎籠り」(1572年)の直後、「大村純忠が亡くなったと勘違いした大村領民のキリシタンが伊佐早領内(諫早)に沢山逃れ、その内の2名が逆に迫害され殉教します。このキリシタン2名の葬式や葬列が、郡城(今富城)内のサンタ・クルス教会で大村純忠や司祭なども参列し盛大に行われました。なぜ、三城城周辺ではなく、遠い今富城まで行って盛大な葬式をしたのでしょうか。
「殉教者の葬式だから教会と関係あり」と指摘される方もおられるかもしれませんが、この当時、既に三城城周辺含めて大村領内には教会も数多くあったはずです。大村純忠がいた三城城周辺ではなく、わざわざ今富城まで行って葬式を執り行ったことが、その当時の二つの城の位置づけ=役割を物語っているような気もします。
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一瀬家系図の一瀬永正(部分)
「今富城篭」の文字が見える
大村史談・第15号60〜61ページより
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私の想像ながら、この殉教者の葬式(1572年頃)以降あたりからは、防御上も名実ともに三城城が政治・軍事の中心地となったと思われます。だからこそ、次の大きな戦となった1578年の『菅無田・朝追岳の合戦』は福重地域ではありませんでした。もちろん、この戦の場所の関係は、佐賀からの軍勢が攻めてきた地域が一番影響が大きいのですが、今富城より離れた萱瀬です。どちらかと言うと本拠地の三城城に近い所で戦われたのでした。しかし、それでもなお、一瀬永正の系図に書いてある事績には、『菅無田・朝追岳の合戦』時に「今富城篭」(「今富城に籠城した」)などの文字があります。
これは重要合戦にも関わらず幹部の一人である一瀬永正に対し、大村純忠は(想像の会話ながら)「お前は合戦に参加せず大事な今富城を死守せよ」と命令されたのではないかとも推測されるものです。つまり、本拠地を既に三城城に移しても、なお今富城は重要な城だったとも思えるものです。
私は、約500年前の歴史事項ですから間違っても100%とか完全とかの言い方はしませんが、結果として「今富城は戦国時代(1467〜1568)の半期以上、政治と軍事の中心地だった」との見方をしています。むしろ、そのような経過が、大村の偽装の歴史の流れより、自然なような気がします。だからこそ、今富城に関係する史跡も周辺に少なくないと言えます。しかし、現在、大村市内で出回っている書籍や文献で「大村の城」と言えば、極端とも言えるほど三城城と戦国時代も終わった後に築城された玖島城(大村城)のことばかりです。それ以外の城については、名前や場所程度です。
これでは「大村戦国史」の解明は、三城城時代以降は出来ても最も不透明な戦国時代の初期、あるいは激動期の中期部分がないのと一緒だと思います。私は、大村の戦国時代を考える場合、人物なら大村純治のこと、城なら今富城のことは避けて通れない命題だと考えています。この二つの事項は、「大村戦国史」を考える場合、大きなターニングポイント(転換点)だろうとも思っています。
しかし、先にも書きました通り極一部を除き、大村純治についても今富城についても詳細な記述が、市内の書籍類にはないのです。ただし、史料(資料)がない訳でなく佐賀側には大村純治についての文献類はあります。また、今富城についても(大村)郷村記などいくつかの史料があったにも関わらず以前ならば、「明治時代のJR大村線と戦時中の(皆同)砲台建設時に城跡は全部なくなり、城址の遺構・遺物類はない。それで城としての価値観もない」みたいに言われていました。
しかし、2007年8月の遺跡発掘時には大村純忠時代の横掘(空堀)遺構も出土しました。(この遺構の詳細は、「7)戦国時代(大村純忠の前後)頃の今富城の横堀(空堀)」から、ご覧願います)今富城は、確かに南斜面側は大きく壊されていますが、北側と東側斜面は長いですから、まだまだ遺構や遺物発掘の可能性はあるとも思います。
あと現在、長崎の歴史観は非常に偏った「長崎県独特のキリシタン史観」で、他のキリシタン史以外でも注目すべき歴史事項の発見・発掘があっても大きく取り上げれらません。しかし、キリシタン遺物が出てくれば、どんなわずかなものでもトップニュースみたいに報道される状態です。ここからは完全な私の想像ですが、もしも今富城の北側と東側斜面から何かサンタ・クルス教会関係やキリシタン遺物が出てくれば、その時になって初めて今富城が注目され”大騒ぎ”状態になるのでしょうか。
私は、「大村純治以降数代の墓が、なぜ今富城周辺にあったのか?」、「なぜ、大村純忠時代の横掘(空堀)が見つかったのか」、「なぜ大村純忠も居城し、この城から合戦に参戦したのか?」、「大村純忠は三城城の築城後も、なぜ今富城を重要視したのか?」、「大村純忠の<三城七騎籠り>の後に起こった諫早で殉教した2名を三条城を通り越して、なぜ今富城で盛大な葬式をしたのか?」などの疑問に、現在の大村市内で出回っている書籍類では、全く説明されていないような気がします。
このようなことから、私は「大村の戦国史」解明のためにも、今後も今富城はその役割を一層増すと見ています。何らかの機会に今富城の北側と東側斜面から遺構・遺物の発掘や発見を期待しています。
10)大村市史の記述と縄張図
この今富城について、2014年3月31日に発行された『新編 大村市史 第二巻 中世編』(大村市史編さん委員会)に記述があります。(この書籍発行についての簡単紹介ページは、ここから、ご覧下さい) この市史818〜819ページに、「三、 今富城」として下記<>内の通り書いてあります。
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今富城の縄張図
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なお、原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに直し、見やすくするため改行を変えています。引用・参照される場合は、必ず原本からお願いします。あと、この市史の819ページには、大野安生氏の作図による今富城の縄張図も掲載されています。(右側の画像参照)
< 大村市皆同町に所在する平山城である。郡川中流域沿いの東西に延びる低丘陵上にあり、現在は畑や山林となっている(14)。『大村郷村記』には、「大手は南、搦手は北の方にあり、本丸の高さは平地より六間(約一一メートル)、東西は四町余り(約四四○メートル)、南北は一町余り(約一一○メートル)、惣郭廻り拾五町(約一、六五○メートル)」とある。
自然の地形の稜線を利用した不定形の広い曲輪を有する連郭式の形状であり、曲輪周辺部はほとんど切岸のみの造成である。ただ大村市教育委員会が平成十九年(二〇〇七)携帯電話のアンテナ工事に伴う発掘調査を実施した(15)ところ、幅約四・五メートル、深さ一・七メートルの横堀が確認されており、周囲に堀がめぐる可能性が極めて高い。中央からやや東側に切通(a)があり、南側の集落からの生活道として使われており、東西の丘陵を分断する堀切の面影を残す。
西側の曲輪(b)は、非常に切岸が明瞭で幅が広い平場があるものの、コンクリート建物跡や土採りの痕跡などでかなり荒れている。ここは、明治時代に鉄道建設の際に多くの土砂が運び出されたといわれており、また昭和十七年(一九四二)から二十年(一九四五)までは日本海軍の陣地が築かれており、かなり土地の改変が行われている。
東側曲輪(c)については現在ミカン畑として利用されており、東側裾部は宅地造成が行われるなど西側曲輪ほどの明瞭な切岸は見られず、城としての機能があったかどうかは不明である。 >
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今富城(写真中央部)の航空写真
<今富城跡(携帯電話無線基地局建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書、2008年6月30日、大村市教育委員会・発行)の掲載写真より)>
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今富城(画像中央部)の地図
<今富城跡(携帯電話無線基地局建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書、2008年6月30日、大村市教育委員会・発行)の5ページの地図より)>
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11)今富城のまとめ
この今富城シリーズも、まとめを書く段階になりました。福重地区にあった岩名城、尾崎城、好武城、江良城などに比べたら、今富城は史料(資料)類や周辺の史跡なども多かったです。しかし、それでも「この今富城の詳細な内容に出来上がったか?」と問われれば、ご覧の通り確かに文章量自体は長かったかもしれませんが、まだまだ不明な部分もあり、まとめきれない状況です。
私は、既に先の項目でも書きましたが、今富城(郡城)は「大村戦国史」解明の重要命題だと考えています。古今東西、長く都市や中心地が栄えたのは豊かな水、穀倉地帯、交通要衝の地域だったと何回か書いてきました。この尺度は、大村地域も同じであろうと思われます。その意味からして周辺部に縄文・弥生・古墳時代あるいは古代肥前国の遺跡や遺物が出土する郡地区は、穀倉地帯だったからこそ人も多く住み可能だったと言えます。
あと、どこの地域でも新田開発や開墾が様々な年代でおこなわれてきましたので、中世時代の頃より色々な場所でも人は多く住むようになってきました。しかし、現代のように住宅地造成や住宅団地などが重機やトラックなどで可能ならいざ知らず、古代や中世時代などの進展は、食糧供給などからして比較的ゆっくりした経過だったと推測されます。
先の項目で書いた通り、郡地区は古代肥前国時代には、彼杵郡家(そのぎぐうけ)=郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)が、この地に置かれました。その場所は、寿古町の好武周辺と思われます。(詳細は、「彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった」をご参照願います) また、その延長線上が、好武城であり、今回紹介中の今富城と思われます。
戦国時代は、その歴史も複雑で、しかも活躍した領袖(りょうしゅう)も群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)でもあり、ある時期の、ある場面だけで物事全て語れないことは当然のことです。また、二者択一的な歴史観もないと思います。そのようなことから、今までの大村市内で出された書籍や論文は、戦国時代も終わりに近い頃に大村純忠が築いた三城城や、江戸時代前の玖島城(大村城)だけでは、率直に言いまして「大村の戦国史」を紐解く意味において不足があると思います。
現在の大村市内には、城、砦や館は、約25城あるとも言われています。その中には、三城城や玖島城より古いと思われる城も多いです。私は、本当の意味で「大村戦国史」解明に役立つのは、これら今までの書籍類に詳細に載ったことのないような城だと思ってもいます。、(これまで掲載中の)城の尾城、岩名城、尾崎城、好武城、江良城などに加えて今回掲載しました今富城、今後掲載予定の残る20数城含めて、全体で解明されていけばいいなあと思っています。
もう既に何回か先の項目にも書きましたが、「JR大村線開通時や戦前の(仮称)皆同砲台などの建設時、この今富城址は南側斜面や頂上周辺が破壊されつくし、城跡をとどめない」みたいに聞きました。でも、2007年8月に今富城の北側で戦国時代末期(大村純忠の前後)頃の横堀(空堀)が発掘されました。このことは、北側や東側斜面には、城跡解明の手掛かりが眠っていることも示しています。
また、かつて今富城内に創建されたと言う大神宮やサンタ・クルス教会の遺構・遺物類も(2010年現在)発見されていません。この種のことは、なかなか口で言うほど簡単なものではありませんが、これらはもしかしたら、いずれかの機会に見つかる可能性も全くないとも言えません。万が一でも見つかれば、「大村戦国史」やキリシタン史の解明に大きく役立つ可能性も秘めています。
私は、「大村の歴史」・「大村の城」シリーズを掲載中の者として、あるいは福重地区に住む地元の者としても、この今富城址で、いつか新たな発見その他があることを念願しています。
今後も、改訂や追加掲載予定
今回このまとめで一応の区切りとなりますが、これからも何か新たなことを教えて頂いたり、調べ直して記述することがありましたら速やかに改訂や追加掲載していきたいと考えています。今後とも皆様よろしく、お願いします。今までの閲覧に重ねて感謝申し上げます。