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大村藩領絵図の一部分の写し(蛍光線は含まず)
(江戸時代、今富村や「岩名ノ城」付近)
(左側の紺色線は郡川)
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大村藩領絵図とは
結論から先に書きますと、この大村藩領絵図は、江戸時代の大村藩によって作成されました。絵図作成開始年や完成年など制作年に関するものは不明です。ただし、もしも絵図作成着手年が大村郷村記の編纂開始年と同じと仮定した場合なら分かりますが、絵図完成年の方は大村郷村記の完成年と違うようです。原図は、現在、長崎県立図書館に所蔵されています。
一般には、九葉実録・別冊(大村史談会、1997年3月発行 )という本の附図・写真版(写真撮影者:神近義光氏)で一部分(現在の大村市を中心とした範囲内)は確認できます。また、この別冊(原文は縦書き文章、漢数字)には、県立長崎図書館蔵「大村藩領絵図」解題というタイトルで、大村藩領絵図について満井録郎氏が解説されています。今回、この文章を元に大村藩領絵図の概要を紹介していきます。
1)大村藩領絵図の大きさ
次の<>内は、上記の文章を引用しています。なお、読みやすいように、送りがなの一部は上野が付けました。
< この絵図は同館の郷土資料目録上によると「大村管内絵図」とあり、島方(しまがた)と地方(じかた)二枚から成っている。島方は縦五一○センチメートル、横二八○センチメートル 地方は縦四二三センチメートル、横二六五センチメートルの大絵図である。
島方は西彼杵半島(にしそのぎはんとう)中心に据え、南は旧藩時代の呼称である向地(むかえじ)(天領長崎を除くト町村を含む)と外海(そとめ)の大島、崎戸、松島や五島海を西方に延びる江島・平島を描いている。地方は大村・佐世保市を含む旧東彼杵郡の藩領である。 >
上記<>内を横書きでも分かりやすいようにアラビア数字に変え、さらに絵図の大きさを平方メートルや坪数に換算(四捨五入)すると
・島方(しまがた)の絵図=縦510cm、横280cm。面積は約14.28平方メートル、約4.7坪。
・地方(じがた)の絵図=縦423cm、横265cm。面積は約11.21平方メートル、約3.7坪。
島方と地方の絵図の面積を単純に合計すると、約25.49平方メートル、約8.4坪となります。現在メートル規格の八畳の間は、400cm×400cmと言われています。仮の数字ながら横幅は地方も島方の絵図と同じ約280cmとして、上記2枚の絵図を足すと縦で(現在の八畳の間より)倍以上の約933cmとなります。(念のため広さでは、八畳の間より約1.5倍となる) つまり、旅館の大広間か体育館でないと全部一緒に大村藩領絵図は見れない大きさです。
何も描いていない紙ならまだしも、江戸時代の大村の絵図(地図)です。当然、後でつなぎ合わせて見ることも前提に考えるなら、この巨大な大きさだけでも地図を作る技術が当時から相当高かったことが推測できます。内容の正確性については、後の項目で書く予定ですので、ここでは触れませんが、私は素人の評価ながらも、まず大村藩領絵図の巨大さと技術力の高さに驚嘆しました。
2)大村藩領絵図の特徴と正確さ
私は、(2009年9月現在で)長崎県立図書館に所蔵されている大村藩領絵図の原図を見ていません。いずれ機会あれば見てみたいですが、とりあえず先の項目でも、ご紹介している写真版で素人の見た目で分かる範囲内、この絵図の特色、特徴あるいは正確さを書きたいと思います。後で、箇条書きで私の見た範囲内のことはまとめていくとして、最初に大雑把な感想みたいなことを書いておきます。
この絵図で現在の大村市を中心としただけの範囲内を拡大鏡などで全部見るとするなら、なかなか根気の要る作業です。当然、現在みたいに活字ではありませんから、手書きの旧漢字もありますし、カタカナと漢字が入り混じった表示もあります。そのため、この文字は何と読むのかなあと言う至極初歩的な疑問もあります。このような場合、大村郷村記なども脇において参考にすれば大体分かります。
また、山、川、地名などは現在と対比しても大きくは変わっていませんが、今で言う行政単位とか神社仏閣の名称などは、見慣れない名称も当然あります。だからこそ、逆にこの絵図だけでも今までの大村郷村記とか古記録に記述されていない大村の郷土史上、新たな発見みたいな事項もあります。全体ざっと見て、やはり当時の武士(役人)が作成した絵図ですから、自分たちが仕事上必要とする事柄などを優先的に描いているのかなあと思われます。でも、かえって何でもかんでもゴチャゴチャと表記されていない分、全体見やすいとも思えます。
これから、右下側の絵図を中心に説明していきます。経年変化で当時彩色された色と違うため、真っ赤な赤色を除き、色の違いを説明するのは、大変難しいのですが、先に絵図の色説明を下表に書いておきます。下表左側絵図の凡例の色は、ご覧の通り各々”○”印に色が付いているものです。下表右側の( )内説明文は、その色に近いと想像して私が書いているだけです。ですから、本来の彩色と違っている場合も考えられますので、充分ご注意をお願いします。
大村藩領絵図、彩色の凡例
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絵図の色(右側から)
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絵図の色説明
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現代語訳
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(濃い緑色) |
此色野山 |
山林 |
(青色) |
此色海川 |
海や河川 |
(濃い黄色) |
此色公領田畠 |
公領の田畑 |
(濃い赤色) |
此色私領田畠 |
私領の田畑 |
(黒色または紺色) |
此色私領堤山 |
堤や私領の山 |
(紙の地の色) |
紙地他領 |
紙の地色はその他領 |
これから描かれている絵図の内容について、具体的に書きます。いつものことながら私の地元=福重の事柄が中心になっていることは、あらかじめ、ご了承願います。
(1)山、川、道路などは、ほぼ正確に描かれているのではないか。
素人の見方や評価ではありますが、地形の大まかな規模、山容、川の流路、山林、堤(溜池)、道路状況、各所の名称など、ほぼ正確に描かれているなあと思いました。さらに述べるなら、福重は元々から田畑が多いということもありますが、第二次大戦後に造られた新しい道などを除き、以前からある道路や川などの状況は、江戸時代も現在も全く変わっていない所も沢山ありました。(この中には当然、住宅地あるいは道路その他で開発された場所は除いて頂けないでしょうか。以下も同様です)
川の例で右下側の絵図で右の下部に青色(実際は紺色に見える)で太く描かれている郡川は川幅約60mある大村市内で最も大きな川ですから大変分かりやすいと思います。あと、中央やや上側を東西に流れている石走川(最下流は「松原川」、現在では通称で「よし川」とも呼称)は、川幅が5m位しかない河川ですが、源流部から河口まで正確に描かれています。
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大村藩領絵図の一部分の写し(下部付近、直角形状の紺色太線は郡川)
(まだ合併前の「皆同村」や「福重村」が表記され各庄屋もある)
(中央やや上側、こんもりしている所は妙宣寺。その下側で東西に流れるのはは石走川)
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なぜそれが言えるかといいますと、私は現在の地図と見比べているだけでなく、この川を何回となく撮影のため歩いて確認しているからです。初心者の私のような者からすれば、川を描くには一見単純そうに見えます。でも、流路の曲線部や幅の大小などを表す場合、すっと定規で線を引くようにはいきませんから川の形状に沿って表すなら、それなりの慎重さや技量が要ると思ってもいます。
また、福重の場合、尾根上か丘陵地帯にある山林の位置も形状も、現在対比で大きく変わっていません。これは、その当時既に田畑の開墾はほぼ終了状態であったことと、防風林がわりにもなる山林は必要以上に開発されなかったためと推測されます。
(2)合併前の村が表記されている。
江戸時代の文化11(1814)年に、大村藩にて現代風に述べるなら「行政改革」がおこなわれ村の合併が実施されました。その結果、福重では従来あった福重村、皆同村、今富村の三村が合併し、福重村になりました。
右上側の絵図、中央部分に合併前の「皆同村」、「福重村」が明確に分かると思います。また、この画像には入ってませんが、当然、「皆同村」の東側(絵図上の右方向)には「今富村」もあります。
また、村名の表記だけでなく、その村の庄屋(村役場か現代風に述べるなら大村市の出張所みたいな所)も各々表記されています。このことは、大村藩領絵図の完成年が明確に判明していないことから、その年代を推測する上で重要な意味があります。ただし、この絵図制作年代の推定については、後の別項目で書きたいと考えています。
(3)大村郷村記にない城址なども表記されている。
今回詳細は述べませんが、大村郷村記は1681年から1862年までに編纂された大村藩全村の総合調査報告書みたいなものです。中には、「まあ、こんな細かいことまで良く調べて書いたなあ」と思う内容まで書かれています。私のような素人にとって江戸時代や、それ以前の歴史を調べる時、大村郷村記は重要な史料です。ただし、記述間違いその他もありますので注意は必要です。
大村藩領絵図に描かれていることで、大村郷村記に記述されていない事柄もあります。それは、先に別シリーズでご紹介しています岩名城や、今後書く予定の江良城(えらじょう)などです。このような事例は、福重の城だけのことではなく他にも調べればあるのではないかと思われます。あと、なぜ、絵図に表記されているのに、それよりも相当詳細な大村郷村記には記述されていないのか。
これはどう言うことかと言いますと、編纂年代の違いからくるのではないと、私は思います。大村郷村記は181年間かけて編纂され、完成は江戸時代も終わり頃の1862年ですから幾度となく改訂、校正されたと推測されます。それに対し、大村藩領絵図の正確な完成年は(後の項目で書く予定ですが)不明ながら、かなり早くから着手して大村郷村記の完成(1862年)より相当速かったのではないかと、私は推測しています。
(4)「領地」の区分けが鮮明にされている。
絵図やその凡例として描かれている「野山」、「海川」、「公領田畠」、「私領田畠」、「堤私領山」、「他領」の区分けは、経年変化により彩色当時の色ではないと思われますが、それでも分かりやすいものです。また、「領地」別の田畠の形状も良く描かれています。ついつい目立つ赤い色で描かれている「私領田畠」に目がいってしまいますが、色々な所に数多く点在していることが理解できます。この件、次の項目でも書きますので、そちらもご参照願います。
以上、今回、大村藩領絵図の福重部分を中心に、その特色、特徴あるいは正確さを書いてきました。全体評価は別項目にまた書きますが、おおまかに言えば特徴のある、かなり正確で、詳細な絵図(地図)と言えます。
3)大村藩領絵図の目的
大村藩領絵図作成そのものの目的について書かれた古記録や論文などを探してみたのですが、ないようです。(念のため、大村郷村記の編纂の意図や目的の記述はあります)それで、ここから私個人の推測に基づいて書いていきたいと考えています。そのようなことから、素人ゆえに思い違いや当て外れも充分ありますので、その点は、あらかじめご了承願います。
そもそも地図(絵図)と一言でいっても、その目的や種類によって作成方法も大きく違うと思われます。仕事上の使用目的別に考えて、現在の分かりやすい例として、例えば車のドライバーなら道路地図、商売や不動産関係者なら住宅地図、船舶運航者なら海図という具合です。つまり地図としては、一見同じように見えても、目的によってそれぞれ大きく内容が違っています。
このような目的別の地図作成は、江戸時代でも同様だったろうと思われます。世界的にも有名な伊能忠敬は、江戸時代に約17年かけて日本沿岸を走破して大日本沿海輿地全図 と言う非常に正確で大きな地図を作成しました。この地図の評価について、その後のヨーロッパ各国の人が称賛したとの主旨を学校で習ったような記憶が私にはあります。ただし、あくまでも地図の名前の通り日本沿岸の地形などが主だったと言えます。
それじゃあ大村藩領絵図の主目的は何だったのか? このことを探る上で、やはり、この絵図上の特徴を把握することが不可欠と思います。その点については、先の項目(大村藩領絵図の特徴と正確さ)で書いた通りです。特に、私はさりげなく絵図の所に描かれている色分けの凡例に注目しました。(このページ左側の画像「大村藩領絵図、彩色の凡例」のことです)
(1)年貢(税金)を徴収するための土地(耕作地)確認用としての目的があったのでは
この色別の凡例には、先にご紹介した通り「野山」、「海川」、「公領田畠」、「私領田畠」、「堤私領山」、「他領」の区分けが分かりやすく示してあります。また、それに基づく絵図も、この区分けが見やすいものです。特に、この中でも年貢(税金)を徴収する上で、絵図とは別に土地(耕作地)台帳みたいなものは既に先にあったかもしれませんが、このように「領地」を絵図化することにより一目でその土地が確認できたのではないでしょうか。つまり、徴税上の資料の一つとして、この絵図は役に立ったのではないかと言うことです。
(2)大村郷村記と一対で大村藩領の地勢と実勢を知る目的があったのでは
普通、戦国時代なら「領地確認」とか「保全」などと言えば、直ちに敵方からの防御とか思い浮かべます。しかし、この絵図の作成時期は、平和な江戸時代の頃ですから、防御用とか戦用を主目的に作成したとかは考えにくいと言えます。それではなぜ、先に述べた「領地」の区分けも含めて、山、川、海岸線、道路、神社仏閣、庄屋などの公的な機関含めて詳細に描かれているのか。
私は、この絵図は基本的に大村郷村記の編纂目的と同じ発想からではないかと思えます。大村郷村記は1681年から1862年までに編纂されています。この編纂の目的などについては、復刻版の大村郷村記を発行された藤野保氏の記述に詳細に書いてあります。また、大村史話の中巻258ページからの「江戸時代の村々をえがきー郷村記ー」(満井緑郎氏の論文)」にも記述されています。
この項では、それらを参照しで極簡単に次の<>内にまとめてみます。 <大村藩領は東西24(93.6km)里、南北12里(46.8km)もあり、海上の面積まで入れれば大きな藩に匹敵する。でも、複雑な形の領内と地形、山間地、離島も多い。限られた役人の数で領内全て把握するのは難しい。ひっ迫していく藩財政を再興していくには大村領全村(48か村)の地勢(地形など)や実勢(生産力など)を正確に知り、藩政に役立てたかった> と思われます。
しかも、安政三(1856)年に郷村記調役編成表(現代風に言うと「大村郷村記編集委員」)の中に地図作成専門と思われる”測量方”(1名、氏名は峰源助)、”測量方手伝い”(5名)の役職名があります。ただし、ここまで時代が下った当時の”測量方”や”測量方手伝い”は、今回テーマの大村藩領絵図とは別物の地図を作成した可能性があります。
しかし、一つの根本的な考え方として、後年の大村郷村記「編集員」の中に測量する役職名がいたことは、たとえ今回のテーマの大村藩領絵図とは関係なかったとしても、編纂当初から大村郷村記と大村領を表す何らかの地図は、藩領の地勢、実勢を把握するために一対のものだったと思われます。
4)大村藩領絵図の制作年代
この項目は、大村藩領絵図の制作年代について、考えてみたいと思います。結論から言えば冒頭の文章と同様ですが、<絵図作成開始年や完成年など制作年に関するものは不明>です。でも、これだけでは木で鼻くくったようなものですから、いくつかの書籍に記述されている年代などもご紹介しながら、この件について推測していきたいと思っています。
その前に、大村藩領絵図と関係ある、なしに関わらず、次の江戸時代以前の事柄も含めて考えておく必要があるのではないかと思い下記に書いています。また、大村藩領絵図と大村郷村記とは「関係ある場合」と、「全く関係なしの場合」もあるのですが、この点の記述は今後も重複、混在しています。「絵図と郷村記は全く関係なし」の場合もありうるのですが、今回私は「関係あり」の推論を組み立てていますので、この点もあらかじめ、ご容赦願います。下記の太閤検地と徴税の基礎資料の2事項は、主に1681年の大村郷村記編纂開始以前のことです。
・基礎的な資料や地図は、江戸時代以前からあったのではないか?
例えば、豊臣秀吉が天正10年(1582)に全国で開始した検地(一般には”太閤検地”)を実施しました。この頃より、大村領においても正確無比とか極めて詳細な土地台帳や地図とまでは言えなくても、検地後の基礎的資料や概要の地図はあったものと考えるのが相当と言えます。なぜなら、それらが揃っていないと、その耕作地に応じた徴税(年貢)が出来ないからです。
・江戸時代に入り、さらに徴税(年貢)関係資料は詳細になっていったのでは?
1603年の江戸幕府開始より年代を経て、幕藩体制は確立されていきます。上記の太閤検地とも関係ありますが、平和な時代、ますます徴税(年貢)は大村藩にとっても大事な藩政で、このこと抜きに藩そのものも確立もできなかったはずです。そのためには太閤検地当時よりも、様々な資料(耕作地台帳みたいなもの)とか耕作地図などは、江戸時代の検地も含め当然詳細になっていったのではと想像できます。
このように大村郷村記(「大村藩領・全村総合調査報告書」みたいなもの)と言うようなまとまった形ではないものの、それよりも以前から藩政運営上必要な資料や地図などはあったものと思います。このことを土台に大村藩領絵図や大村郷村記は作成されたものとも言えます。次の項目から、1681年の大村郷村記編纂開始以降のことを書いていきます。
(1)大村藩領絵図制作の着手年の推定は?
私は、先に述べたように今回「大村郷村記と大村藩領絵図は関係あり」との推論を組み立てています。なぜ、大村藩領絵図や大村郷村記と関係あるのかと言うことで、一つの史料があります。
それは、既に以前の項目でご紹介した通り、大村郷村記編纂の最後半頃ともいえる安政三(1856)年に郷村記調役編成表(現代風に言うと「大村郷村記編集委員」)の中に地図作成専門と思われる”測量方”(1名、氏名は峰源助)、”測量方手伝い”(5名)の役職名があるからです。これに準じて最初の大村郷村記編纂開始頃の「編集委員」が明確に記述され、さらには”測量方”などの役職名が出ている史料があれば、そのことはある意味決定的と思えます。
ただし、繰り返しになりますが、この安政三(1856)年の”測量方”や”測量方手伝い”の役職名は、大村藩領絵図とは全く関係ない別の新しい地図作成関係者かもしれないのです。でも、絵図着手年頃について私が申し上げたいのは、大村郷村記と一対として大村藩領絵図が作成された可能性が大きいと言うことです。。私のやや乱暴な推測ですが、大村郷村記の編纂開始年=大村藩領絵図の作成着手年ではないかと言う発想も持っています。
この件について、私は大村郷村記の村別の記述に注目しました。各村ごとの冒頭には、一○○村の事、一村広狭の事、一村境他領境ならびに海辺の事などが詳細に記されています。この項目の中に境界線、山、川、海や目印間などの長さなどが具体的に幾度となく表記されています。また、別の項目ながら神社仏閣の境内の長さや面積までも詳述してあります。
このことで話は現代に飛びますが、今でもある町を紹介しようと思えば、「この町は東西・南北の距離は○○km、面積は○○平方メートル、一番高い山は標高○○m、一番長い川は○○km」などの表現がしてあると思います。現在のある町の紹介文も江戸時代の大村郷村記の各村ごとの文章も、尺貫法とメートル法の違いはあっても表現してある内容自体は、ほぼ似たようなものと思われます。
このような長さや面積表示は、測量実施あるいは地図(絵図)作成抜きには語れないこととも思えます。つまり、大村郷村記編纂開始頃から大村藩領絵図の方も「村広狭の事、村境他領境」を記述するために測量は着手していたものと推測されます。ただし、現存している大村郷村記や大村藩領絵図は、両者とも極めて詳細で、絵図は正確さもありますが、どちらとも着手したその年から、村別ごとに完成されたものとは考えにくく、かなりの年数を費やし、どの村も改訂、修正などを幾度となく繰り返したものと思われます。
あと、さらに推測を重ねるなら、大村郷村記も大村藩領絵図も、基礎的な耕作地台帳みたいなもの、あるいは初歩的な概略の地図などは、それ以前から存在していたことは先に述べた通りです。私は、このような基礎的資料や地図を土台に、大村郷村記も大村藩領絵図も本格的に全村まとまった形式で作るために1681年から着手されたのではないかと思っています。
(2)大村藩領絵図制作の完成年についての推定は?
今度は、絵図の完成年代について考えていきたいと思っています。これも既にご紹介しました九葉実録・別冊の解説文、県立長崎図書館蔵「大村藩領絵図」解題(満井録郎氏)に書かれている論文を先に、ご紹介します。ここには、大村藩領絵図の制作(主に完成年)の推定がされています。次の< >内が、その制作年代の推定部分です。やや引用が長くなりますが、推定論文を途中で省略すれば大変分かりずらくなりますので、文章はそのまま掲載します。ただし、改行など一部は変えています。
< さて、この絵図の作成年代は今までのところ分らない。 したがって絵図に記述された事柄を基にして作成年代の巾を縮めるという方法をとった。 この絵図は正確に描かれているので、伊能忠敬の測量以後であろうという説がある。忠敬の大村領測量は文化九年から十年にわたる。 ところが、県立長崎図書館の本馬貞夫指導主事によると、長崎にはこれ以前から測量技術が入ってきているので、 判定の史料にはなり難いとの見解である。
文化十一年(一八一四)、大村藩の行政改革で今日に言う町村合併が行われたが、これ以前の庄屋が記されている (原口村、黒丸村、野岳村、上下鈴田村)。下限について、文化五年(一八○八)フェートン号事件後の六年に峰火の制が全藩に整備されたが、これは見当らない。かといって、判定史料とするかについて疑問がある。
上限はいつか。元和二年から明暦二年まで流人として住み開発した北川次郎兵衛の道獣山、千葉ト枕が寛文五年から開いた並松宿、寛文三年完成の野岳堤、元禄年間深澤儀太夫勝幸開発の蕪堤の私領田等、元禄時代のものまではすべて載っている。
次の時期はどうか。郷村記大村久原池田之部「浦湊之事」(藤野保ー第一巻九四ページ)に「玖嶋崎は文政五年から往古の嶋崎をこのよ うに改めた。ここに掘切りがあったが、享保十七年に埋立てた」とある。 絵図も嶋崎と註記があり、堀切はない。
同ページの「板鋪浦」の項に、この辺りに水主(かこ)が居住していたが、寛政年中(一七八九〜一八〇一)までに水主達はすべて前舟津に移住したとあり、家の記号もない。このようにみてくると、寛政末から文化十一年の間、一八○○年を中心とする年代ではなかろうかと考える。 >
以上のように、この論文の制作年代の推定結論は、「1800年を中心とした寛政末(1800年頃)から文化十一年(1814年頃)」とあります。あと、この推定年代の根拠になっている主な事例について下記に箇条書き風にまとめてみたいと思っています。
大村藩領絵図に描かれている制作年代推定の根拠事例
・1663(寛文3)年、野岳堤(野岳湖)が完成。(注:野岳堤は絵図にあり)
・元禄年間(1688年から1703年)に深澤儀太夫勝幸開発の蕪堤の私領田等。<上野補足:東彼杵町にある蕪堤(かぶらつつみ)近くには深澤儀太夫勝幸が元禄3(1690)年に築堤したとする記念碑があると聞く>(注:蕪堤は絵図にあり)
・1732(享保17)年、玖島崎の所に以前は堀切があったが埋め立てた。(注:絵図には、堀切はない)
・1801(文化5)年の6年後に峰火の制が整備。(注:絵図には、峰火はない)
・1814(文化11)年、大村藩の行政改革で町村合併。(注:絵図には、まだ旧村名である例えば福重の”皆同村”、”今富村”があり、その時の各庄屋も、そのまま描いてある)
・1822(文政5)年、「玖島崎は昔からある嶋崎を現在のように改めた」(注:絵図には、まだ嶋崎と描いてある)
上記の事柄は、当然ながら絵図(地図)制作が新しければ、それより古い事例は描き込むことは可能です。ただし、地形上の存否あるいは藩政上(行政上)の必要性の有無から全ての事柄を全部記入してあるかと言いますと、上記の指摘もありますが、その点が制作年代のヒントになるような気がします。そこで、ここから当時の大村藩の役人になったと仮定して、もちろん藩政上から考慮して何が絵図(地図)に残しておきたいか、逆に整理したいのは何かを上記事例を中心に考えてみたいと思います。
・地形上、既にないものは削除する。
・行政上の村やその庄屋(村役所みたいな所)は、町村合併で無くなった村や庄屋は削除、整理する。
・大村藩の政治の中心地(玖島城=大村城やその城下町など)は、常に最新版で正確に描く。
上記の推定根拠から考えて、一番新しい年代と仮定しても1814(文化11)年の町村合併以前に制作完了されたものと思います。なぜなら、藩政上も重要な村の名前やその庄屋をそのまま記録に留めることはないからです。それは現在の大村市に置き換えるなら旧町名と旧出張所をそのまま公式の地図に書いておくことはしないことと同じことです。
あと1732年から1822年または上記と同じ1814年との間の中間説も考えられます。これは、当時地形上の大きな変化である1732(享保17)年に嶋崎を埋め立て、名称を玖島崎に変えたのが1822(文政5)年ですから(注:絵図には、まだ”嶋崎”となっている)は、けっこう大きな注目点ではないでしょうか。しかも、政治の中心地であった玖島城の直ぐ近くの海岸や島のことですから。
上記から考えられる絵図完了年代の推定は、「1732年から1814年以前の制作完了」です。ただ、これでは約82年間と言う大きな幅があります。やはり史料不足の感が否定できません。この解決策として、私は現大村市の範囲内だけではなく当時の大村藩領48か村全部の特徴的な事柄を大村郷村記で調べ、大村藩領絵図に図示されている名称などと対比すれば、もっと確度の高い、より狭められた制作完了推定年代が判断しやすいと思っています。でも、率直に言いまして、私だけでは、そこまで調べ切れない状況です。
あと、もう一つ別角度から考え方です。それは既に<(3)大村郷村記にない城址なども表記されている。 >の項目で述べた現在の今富町にあった「岩名城」、さらに追加して現在の草場町にあった「江良城」(えらじょう)などは、絵図にはありますが、大村郷村記には書いてありません。あと、大村郷村記には書いてある現在の今富町にあった「尾崎城(おさきじょう)」の名称は、絵図上では「尾の城」となっています。
これらのことは結局、大村郷村記の編纂開始より大村藩領絵図の完成が速いか、あるいは約180年間かけて編纂された大村郷村記の初期年代頃に絵図は先に完成したため絵図だけに二つの城名称が残り、大村郷村記には改訂作業の繰り返しで、結局記述されなかったとも推定されます。
5)大村藩領絵図とは別の「肥前国彼杵郡之内大村領絵図」の存在は何を意味するのか
この項目は、これまで述べてきた大村藩領絵図の原図から離れて、その写しである「肥前国彼杵郡之内大村領絵図」ついて書いていきます。これから度々この名称が出てきますので、先の大村藩領絵図と区別するために便宜上(正式な略称ではありませんが)「肥前国・大村領絵図」と「」付きの略称で書いていきますので、ご注意とご了承をお願いします。
私は、この「肥前国・大村領絵図」の存在は、おぼろげながらずっと以前から知っていました。たまたま、今年(2009年)春から夏頃まで大村市立史料館で各種の古地図の展示が開催されていました。私は、史料館と大村市文化振興課の許可を得て大村ケーブルテレビのカメラマンと一緒に6月4日行っていました。その時に見たのが、写しの方の大村藩領絵図で説明文では<原本は、横223cm・縦294cmの大きさです。天保8(1837)年の絵図>などと書かれたものでした。(右下側の絵図写真と違うものです)
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肥前国彼杵郡之内大村領絵図(複写)の一部分
(現在の大村市、東彼杵町や大村湾の一部など)
(上側が大村の山並、下側が大村湾。湾内には現・長崎空港以前の箕島も描かれている)
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そして、この夏(2009年7月26日〜9月30日)、同じ史料館で「歴史の缶づめ」の企画展が開催されていました。その展示物と併せ大きな古地図などは、展示終了後が撮影しやすいと言うことで、「肥前国・大村領絵図」を先と同じ方々のご協力を得て、10月2日に私が写しました。右側写真は、その一部分で現在の大村市を中心に撮影したものです。この絵図は、同じ複写の絵図でも、私が6月に見たものと違っていました。
そして、今回の絵図説明文には、次の<>内が書いてありました。< 長崎県立図書館所蔵 三〇四×二三三cm彩色 肥前国彼杵郡之内大村領絵図 天保八年酉四月渋江九郎兵衛・横山森左衛門写一舗 為大村市立図書館資料室 昭和六十一年二月田中大二複写 >
上記をさらに分かりやすく解釈すると、「長崎県立図書館に所蔵されている大きさ縦304cm×横223cmの彩色された肥前国彼杵郡之内大村領絵図は、天保8(1837)年4月に渋江九郎兵衛と横山森左衛門によって一式写されたものである。これを昭和61(1986)年2月、田中大二が大村市立図書館資料室のために複写(寄贈)した」と解釈できるでしょう。
ここで、絵図関係が三つも出てきますので整理すると下記の箇条書きとなります。
A:大村藩領絵図<江戸時代作成の巨大な原図。現在、長崎県立図書館所蔵>
B:大村藩領絵図(写し)<天保8(1837)年に上記Aを縮小して写した絵図。現在、長崎県立図書館所蔵>
C:肥前国彼杵郡之内大村領絵図<昭和61(1986)年2月に上記Bを複写したもの。現在、大村市立史料館所蔵>
大村市で多く見る機会のあるものは、当然上記Cの絵図です。これらのことで分かるのは、巨大な大村藩領絵図の原図とは全く違う大村藩領絵図の写しが現存していること、それに江戸時代の写しの方は天保8(1837)年作成されたものと言うことです。実は、このことをもって「大村藩領絵図(原図)作成”天保8(1837)年”」説みたいに書いてある本もありますが、これは正確な事実関係で言うと違うと思います。先の資料にある通り、あくまでも原図の写し作成が天保8(1837)年です。巨大な大村藩領絵図の原図は、これよりも以前に作成されたと思われます。
写しの方の「肥前国彼杵郡之内大村領絵図」は、なぜ天保8(1837)年に作成されたのか?
写しの絵図作成の目的などについて、あくまでも私の推測、推定ですが、極簡単に箇条書きで書きます。
・たとえ詳細であっても毎回、(旅館の)大広間みたいな所で見ないと全体が確認できない絵図(地図)は、やはり日常の政務には使いにくさがあったのではないか。
・大きな掛け軸(写し絵図の大きさ=横223cm・縦294cm)タイプの方が、日常便利だったのではないか。
・原図の方は”半永久保存版”みたいにしておかないと傷みやすい。
・江戸幕府に献上する必要があった。(注)
(注)=『大村史話 中巻』 (大村史談会1974年5月発行) 「伊能忠敬と大村藩測量」 (中尾博一氏の論文)の240ページには、次の<>内のことが記述されている。<(前略) 天保八年藩内の地図を幕府に献上している (後略)> 上野の補足:ただし、この献上の地図が全く写しの方の「肥前国・大村領絵図」と同じかどうは即断できない。しかし、作成年と献上年が同一であること、さらには献上するには巨大絵図は不向きで、やはりこの写しと同じ位のものと思われる。
この項目では、原図の方の大村藩領絵図の写しである肥前国彼杵郡之内大村領絵図のことを書いてきました。しかし、江戸時代には、この二つ以外にも大村藩内の絵図(地図)は作成されているようですが、現在、私は充分確認ができていません。判明しだい追加掲載したいと考えいます。
<次の原稿準備中、しばらく、お待ち下さい>
(初回掲載日:2009年9月20日、第二次掲載日:2009年10月10日、第三次掲載日:2009年10月13日、第三次掲載日:2009年10月21日、第四次掲載日:2009年10月26日、第五次掲載日:2009年10月31日)
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