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大村の城シリーズ 江良城(えらじょう)
記 述 項 目 
( 主 な 内 容 な ど ) 
(1)名称  江良城(えらじょう)
(2)別名  なし <大村藩領絵図には「エラノ城」(えらのしろ)と書いてある>
(3)所在地  大村市草場町<字「江良(えら)」と「釜の内」にまたがっている>
(4)築城年代  (詳細は不明) 戦国時代
(5)形式・特徴  平山城 
(6)城主など  不明
(7)現状(遺構)  個人宅周辺で遺構などはない
(8)歴史(大村郷村記、大村藩領絵図など)  大村藩領絵図に記載されている
(9)土地や管理など  個人所有の宅地

(10)補足、感想など
 <江良城の情報などについて> 大村藩領絵図には描かれているが大村郷村記には記載がない。地元の福重でも長年その存在は不明だった。ただし、この城は今富町の尾崎城(おさきじょう)と似た立地条件で尾根の先端にある城だった。現在でも、この城跡周辺で見渡すと、そのことが良く分かる。

 福重を含む郡地区は古代・肥前国時代から(戦国時代の)大村純忠の頃まで大村地域の政治・経済の中心地だった。さらにその中心に位置する今富城(現在、皆同町)から見るなら、この江良城は推測の域を出ないが”北の守りの城”と言う位置付けになっていたのかもしれない。大村湾側に向かって南北に連なる平地や周囲の田畑が良く見渡せる城だった。

大村市草場町、写真奥や手前側周辺が江戸時代の大村藩領絵図に図示された江良城跡と推測される(手前は住宅予定地?)

1)江良城を紹介するにあたって
  まず、この江良城を記述するにあたって大村市文化振興課の大野氏の講演内容(2008年2月2日、第3回福重郷土史講演会)を参考にしています。掲載にあたり改めて感謝申し上げます。 この城は、江戸時代に作成された大村藩領絵図に描かれています。ただし、江良城の描かれている大村藩領絵図については、後の項目でご紹介致します。

江良城跡(大村市草場町、写真中央付近の民家や周辺の畑付近)
(中央奥の山は郡岳=826m、右端の山は鉢巻山=335m)
(青い車両はJR大村線の列車で、その先頭の上部付近が城跡)

  また、江戸時代、大村藩全村の“総合調査報告書”と言うべき(大村)郷村記の方には記述されていません。ただし、大村郷村記に、この江良城が掲載されていないから、この城は存在しなかったと言うことではありません。なぜそのようなことになっているかについては、別シリーズの「大村藩領絵図」で、私は色々な角度から絵図の作成年代(推定)を書いています。

 結果として分かるのは、大村郷村記の編纂よりも相当早く大村藩領絵図が作成されたためと推測しています。後世に大村郷村記の編纂された頃には、この城の存在を示す史料や伝承がなかったので記載されていないと思えます。なお、この大村藩領絵図と江良城のことについては、後の項目の「3)江良城と大村郷村記の記述」に詳細に書きたいと考えています。

尾根の先端部にあった江良城

 あと、この江良城のあった付近について書きます。この城址は、郡岳(826m)や鉢巻山(335m)などから連なる尾根の先端部分に当たります。近代のことになりますが、この城跡周辺の土は、明治時代に国鉄(現在のJR)大村線の盛り土にするため相当量の土砂が削られた所と聞いています。そのため、現在地を見て、どこに城跡があったのか、やや確認しにくいですが、大村藩領絵図から現在の地形を対比して右写真の中央(民家やその周辺の畑)付近と思われます。

 この城址に立ち大村湾側と見たとするなら左側(東南側)には、田んぼが広々としてあります。右側(西側)は川や谷間もあり、やや狭い感じがします。前側(海側)は、現在JR大村線、JAの建物、国道34号線、松原八幡神社や住宅地になっています。後方側(北東側)は尾根伝いに民家や田畑があります。いずれにしても、この城が使われていた戦国時代当時は、見晴らしの良い地形だったのではないかと今でも良く分かる所です。

 私も写真撮影などで、この城跡付近を何回となく歩きました。見晴らしの良さや土地の雰囲気は、海(大村湾)が近くに見えることを除けば、同じ尾根伝いに立地していた今富町の尾崎城(おさきじょう)と似た感じだなあと思いました。

 また、福重を含む郡地区は古代・肥前国時代から(戦国時代の)大村純忠の頃まで大村地域の政治・経済の中心地でした。さらにその中心に位置する今富城(現在、皆同町)は、戦国時代に大村純忠も居城し、ここから大村純忠時代のいくつかの合戦、例えば『鳥越(とりごえ)・伊理宇(いりゅう)の合戦』にも参戦したと言われています。その今富城から直線で1300m弱の位置に、この江良城はあります。その間は、広い田んぼとなります。

 そのような位置関係から、私の推測ですが、この江良城は「今富城を守る北方の城」と言う位置付けも考えられるものです。戦国時代、大村は何回となく佐賀側から敵が攻め込んで来ています。先ほどご紹介した『鳥越(とりごえ)・伊理宇(いりゅう)の合戦』の場合は、敵側は野岳に陣を構えていますが、これはもっとも山側を来たからです。もしも、海(大村湾)側に嬉野、東彼杵方面から敵が来た場合、この江良城の直前を通ることになります。

 今富城の”北の守りの城”と言う位置付け及び敵側が海側コースで攻めてきたと仮定すれば、この江良城周辺は丁度、大村平野部の入口(玄関口)に当たるため、かなりの役割を位置的に担っていたかとも思えます。

2)江良城の名称について
 この項目、最初にお断りを書きますが、先にご紹介した大村藩領絵図に描かれている尾ノ城(尾崎城、今富町の字「地堂」)ほど、地形と関係あるものではありません。(注:「2)尾崎城の名称について」は、ここからご覧下さい )

  まず、右図の草場町の字(あざ)をご覧下さい。この図(画像)全体では中央の一番上側、あるいは草場町と言う大きな文字の左側にある「江良(えら)」と言う字があります。江良城址は、この字の「江良」の左端(地形的には尾根の先端部)にありました。

  この字は色々な書籍類には様々な文字で表記されています。例えば漢字の「江良」を始め平仮名の「えら」、片仮名の「エラ」と言う表記もあります。中には平仮名の「えら」の「え」は、わ行の「*」(注:文字変換できない)も使用されています。いずれも以前は地名を表記するために使われていたようです。

  あと、この「江良」、「えら」、「エラ」と言う文字から想像されるのは、まずは魚などの「えら呼吸」などと表現される「えら」が挙げられると思います。また、人の顎(あご)の骨部分です。また、漢字の「江良」の「江」は、海の入江なども想像されます。国語辞典の大辞泉によれば入江とは「海や湖が陸地に入り込んだ所。入り海。」のことです。この漢字「江良」をさらに推測を繰り返せば、「良い入江」を表現している地名かなあとも思えます。

 現在この周辺に立ってみると「ここが海と関係あるのか?」と思われるかもしれませんが、実は石走川(通称:「よし川」とも言う)周辺の福重町、皆同町、草場町の低地部分や松原地区の国道34号線周辺は、大昔は海でした。(この件については、「福重の土地形成」の「大きく入り込んでいた海」のページにある概要図をご覧下さい」、皆同町と福重町の「舟つなぎ石」の写真は、ここからご覧下さい)

 また、想像たくましく草場町全体を人の”顔”部分と考えるなら、この字の「江良」部分は、人の顎(あご)の骨部分=「えら」に見えなくもないですが、これはやはり考え過ぎかもしれません。いずれにしても、この江良城のある尾根付近まで大昔なら海が迫っていたことは確かなことでしょう。現在の見晴らしの良さから、少しでもそのことは想像できるものです。

エラノ城(左の上側)が描かれている大村藩領絵図の一部分
(下部付近、直角形状の紺色太線は郡川)
(中央やや上側、こんもりしている所は妙宣寺。その下側で東西に流れるの
は石走川)

3)江良城と大村藩領絵図
  現在のところ、この江良城の史料は、江戸時代に作成された大村藩領絵図のみです。(大村藩領絵図の詳細については、ここからご覧下さい) まずは右側にある大村藩領絵図の福重を中心とした図(画像)を見て頂けないでしょうか。

 この絵図の左上側の方に上から「草場」、「エラノ城」、「松原村」などの文字が見えます。また、中央部のやや上側、東西を横断するように流れているのが、石走川(松原村に入れば松原川。現在は「よし川」とも言う)です。

 この石走川流域及びその周辺は、当時も今もほとんどが水田で、上記の項目に書いた通り大昔は海が、この一帯までずっと入り込んでいました。(このことの詳細は「舟つなぎ石」ページをご覧下さい)

 右下部に紺色の太い線でほぼ直角に流れているのが郡川(こおりがわ)で、その郡川を横切る感じで右下から左中央部に黒の実線で走っているのが長崎街道です。このルートと現在は少し違いますが、ほぼ同じ感じで国道34号線が通っています。

 あと、「エラノ城」の左側を流れているのは、草場の馬込水源からの川です。このあたりは当時も今も谷みたいな感じの地形です。「エラノ城」の図示されている状況も見ても、尾根伝いの先端部にあったことが良く分かる描き方です。

 「エラノ城」から中央部のやや右下側に目を転ずれば、古代・肥前国時代から(戦国時代の)大村純忠の頃まで大村地域の政治・経済の中心地だった郡地区の、さらにその真ん中に位置する今富城が描いてあります。

 この図面を見ると、私の推測ながら今回繰り返して申しています「江良城は今富城を守る北方の城だったのではないか」と言う位置関係(今富城から直線で1300m弱)が、良く分かる絵図と思われます。つまり、大村湾(海)側コースで東彼杵方面からくれば、この江良城のあった所は、大村平野部の”入口”か”玄関先”にも見える感じになります。

大村藩領絵図の正確性と江良城
 私は、この大村藩領絵図にしか史料として表示されていない(現在、大村市今富町にあった)岩名城について書いた時に、かなり慎重な言い回しをしながらまとめました。その後、大村藩領絵図そのものもシリーズにして記述・掲載してきましたので、ここでその評価も含めて簡単に書きますと、この絵図は大村郷村記よりもかなり早く完成し、しかもけっこう内容は正確ではないだろうかと思っています。

 そのようなことから100%とか、決定的に書くべきではないとは思いますが、この大村藩領絵図に描かれている江良城の存在は、かなりの確度で正確だと推測されます。何か、この城址周辺から戦国時代の関連する遺物などが出てくれば、さらに確率は高くなるかもしれませんが、今後そのようなことも含め新たな史料や遺物の発見を期待したいです。

4)江良城のまとめ
 今回改めてまとめを書くほどの史料(資料)があった訳でもありませんし、地元伝承も(2010年2月現在で)皆無に近い状況でした。そのため、まとめの内容も重複した内容ばかりになっています。率直に申し上げて史料としては、大村藩領絵図だけですから「今回、この絵図にエラノ城(江良城)として描かれているので、その周辺地形も含めて紹介します」だけに終わった感じです。

 ただし、これまで地元でさえ知らなかった江良城のことを少しでも紹介できたことは、それだけでも書いた意味はあったのかなあと一人で思っています。現代は、「なんのきっかけで情報が寄せられるか分からない時代」ともいえ、このページを閲覧された方が、もしかしたら「江良城について、こんな情報もあるよ」と、ありがたくも教えて頂けるかもしれないと今から期待もしています。

 先に掲載中の尾崎城(おさきじょう)や今回の江良城にしても、その城跡周辺を歩き回って改めて良く分かるのですが、地形と戦国時代の城は関係深いなあと思いました。この二つの城の地形上の共通項は、先の項目でも述べている通り、どちらとも尾根の先端にあったということです。この地形が全てとまでも言いませんが、城の役割までを物語っているような気さえしてきます。

 この地形上から来る城の位置付けなどは、大村市内に約25か所あると言われている城、砦や館を大部分掲載した時点で再度見直して書きたいなあとも思っています。あと、この件も重複しますが、江良城などが描かれている大村藩領絵図は、私の推測や感想の範囲内ながらも当初の見方よりも、その正確性や大村郷村記よりも早期に完成したのではと言うことも含め確度の高いものになりつつあります。大村の郷土史研究において、今までの史料(古文書類)にプラスして、この大村藩領絵図も活用していくのも大変いいことだなあと考えました。

 以上、今回史料(資料)不足だったことは、ご容赦願います。また、地元の福重の者として今後この江良城について情報などがあり、研究や解明が進んでいくことを願っています。

今後も、追加掲載予定
 今回これで一応のまとめになりますが、これからも何か新たなことを教えて頂いたり、調べ直して記述することがありましたら速やかに追加掲載していきたいと考えています。今後とも皆様よろしく、お願いします。今までの江良城ページの閲覧に重ねて感謝申し上げます。

初回掲載日:2010年1月16日、第二次掲載日:1月25日、第三次掲載日:2月14日、第四次掲載日:2月17日

参考文献、書籍一覧表 城関係用語集

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