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大村の城シリーズ 尾崎城(おさきじょう)
記 述 項 目 
( 主 な 内 容 な ど ) 
(1)名称  尾崎城(おさきじょう)
(2)別名  なし <大村藩領絵図には「尾ノ城」(おのしろ)と書いてある>
(3)所在地  大村市今富町<字「地堂(じどう)」>
(4)築城年代  (詳細は不明) 戦国時代
(5)形式・特徴  平山城 (推測だが「岩名城」とも関係あるかもしれない)
(6)城主など  詳細は不明。推定だが今富村を治めた豪族(「今富氏」ではないかとも思われる)
(7)現状(遺構)  畑及び個人宅周辺で遺構などはない
(8)歴史(大村郷村記、大村藩領絵図など)  大村郷村記と大村藩領絵図に記載されている
(9)土地や管理など  個人所有の畑もしくは宅地

(10)補足、感想など
 <尾崎城の情報などについて> 大村郷村記に「本丸、二の郭 三の郭」など規模まで記載されているので、所在自体は福重でも有名だった。ただし、城主などは書かれていないので大村氏とは関係ない人物と思われる。東西南北の地形からして、防御に適した、見晴らしの良い実践的な城だったと推測される。

  1566年に尾崎城から北東部へ直線で約500m先(今富町と立福寺町の境界周辺)で、鳥越・伊理宇の合戦があったが、大村純忠の軍は(主力は今富城からだが)、この城からも出陣したと思われる。


中央の今富公民館上方が尾崎城跡(今富町)
(丘の下、東西両面は切り立った崖である)
(岩名城は今富公民館の左方向約100mにあった)

1)尾崎城を紹介するにあたって
 この尾崎城は、後の項目で詳細に紹介する予定ですが、江戸時代に編纂された(大村)郷村記に城の規模や周囲の地形まで紹介されているので、私のような素人でも分かりやすい城郭です。

 この城周囲には、縄文・弥生時代頃より岩名遺跡黄金山古墳などに代表されるような人が多く住んでいた=穀倉地帯でもあり、また平坦な地域でもありました。その平坦地の少し離れた所から、この城があった丘を眺めると、まるですっくと浮かび上がったようにも見えます。

 まず、第一印象として「この城は、地形を考えた所に造ったなあ」と感じられる場所にあります。東側を流れる佐奈河内川(さながわちがわ、佐奈川内川)があり、城直近の三方面(東西や南側)には切り立った崖があり、その上に江戸時代風の言い方に直せば「本丸、二の丸、三の丸」の構えを擁した城がありました。

 地元の福重の者にとって、この付近は子どもの頃から相当回数近くに行く機会がある所ですから、地形も分かりやすい所です。ここで仮に戦国時代、東側から敵方が攻めたいと思っても、ほぼ直角に切り立った崖が天然の要害となり難攻不落だったろうと推測できる所です。

 また、南西方角から攻めるにしても東側ほど急ではありませんが、この面にも崖があり周囲には水田、さらにその先には佐奈河内川と郡川(こおりがわ)の本流があります。佐奈河内川の下流も、郡川の川幅も20m〜60m位あり、この両川を渡るだけでも重装備の武士なら一苦労だったと思われます。このように、この城の東西や南側方角からは攻めにくい地形です。

 あと、北側面は郡岳(826m)方面から続く尾根(丘陵部)になっています。ここの面だは強固な防御策が必要ではなかったかなあと思われます。ただし、城のあった尾根(丘)は、周囲を良く見渡せる、見晴らし抜群の所でもありました。現在でも、その雰囲気は残っています。現在まで尾崎城の遺構や遺物の発見などはないようですが、江戸時代に編纂された大村郷村記、大村藩領絵図や書籍類などを用いて今回この城を紹介していこうと思っています。

2)尾崎城の名称について
  この項目は、尾崎城(おさきじょう)の名称に絞って書きたいと思います。その前に、かなり脇道にそれますが、この城のある所の字(あざ)は、「地堂」(じどう)です。ご参考までに大村藩領絵図には、「地ドウ」と書いてあります。なぜ、「堂」と言う地名が付いているか。「堂」とは国語辞典の大辞泉には「神仏を祭る建物」と書いてあります。これと同じく例えば「本堂」とか「お堂」と言う表現もあります。この「地堂」と言う地名(字)について、私の推論に過ぎないのですが、それは尾崎城跡周辺の地堂から帯取(おびとり)にかけて、かつて不動寺と言う古い寺院があったと言われています。

大村藩領絵図にある尾崎城(蛍光四角枠上に「尾ノ城」の文字あり)
(中央の四角枠は「岩名ノ城」、蛍光線は絵図とは関係なし)

(左側の紺色は郡川、四角枠上側の細い紺色線は佐奈河内川)

 このことについては、『大村市の文化財』(大村市教育委員会2004年3月発行)に書いてあります。次の<>内の記述は、そこから引用しています。

 不動寺跡 今富町の帯取(おびとり)にあり、 今は不動堂といって、 帯取・地堂の氏神とな っています。創立の時代は不明ですが、平安時代後期の久寿( きゅうじゅ )2年(1155には寺名が出ています。真言宗で本尊は不動明王の大仏であり、本坊のほかに七つの脇坊があったといわれますが、その場所 はまったくわかりませ ん。

 上記のように、この不動寺は七つも脇坊を構えた寺院で、しかも創建はいくら新しいと仮定しても平安時代後期ですから、相当古くから、この地では影響力のあった寺院と思われます。しかし、戦国時代(大村純忠時代)、他の神社仏閣と同様、この寺院もキリシタンから焼き討ち、破壊、略奪を受けて、その後何ら残っていません。このような不動寺の影響から、この付近一帯を古くから「堂」の付いた字「地堂」の地名で呼ばれたとしても何ら不思議さはありません。

 それならば、この地名からして近くにあった尾崎城も仮に「地堂城」とか呼ばれたとしてもおかしくはないと思います。しかし、地名から城の名前は付いていません。ならば、城主が仮に「尾崎氏」だったのかと言うと、この説も関係ないようで、むしろの後の項目で書く予定の「今富氏」と関係あるかもしれません。以上のことから、地名の地堂も人の名前とも、尾崎城は関係ないようです。

 それでは、何が根拠で尾崎城と呼ばれているのか考えてみたいと思います。ここで、この城の名称について、古い史料の順番で紹介します。
尾の城=大村藩領絵図に、この名称で書かれている。
尾崎の古城=(大村)郷村記に、この名称で記述されている。

 上記の史料で、いずれも共通項は「」と言う漢字です。この尾は何を意味しているか、それは、どうも地形に関係していると思われます。つまり、尾根の「尾」です。尾根とは国語辞典の大辞泉によると「山の峰と峰とを結んで高く連なる所。また、隣り合う谷と谷とを隔てて連なる突出部」と書いてあります。もちろん尾崎城付近は、郡岳(826m)の流れから続く尾根の先端部になりますから、「尾根の先」の城=尾崎城と言われてきたのではないかと推測できます。

  ただし、右上側の大村藩領絵図を良くご覧になるとお分かり頂けるかと思いますが、「尾の城」と書かれた位置は、尾根の最先端部と言うより、やや奥まった(尾根の最先端から50m〜100m位引っ込んだ)所と思われます。「尾根の最先端部」か、どうかは別としても尾崎城の名称の語源と思われる「尾根の先」と言う意味においては、地形上から見ても当たっていると思われます。

補足として:尾崎城(おさきじょう)の名称の「尾崎」は、「おさき」と発音するのが正しく、濁音の尾崎ではありません。地元・今富町の方々も、尾崎城=「おさきじょう」発音されていますので、念のために、ここに補足を書いておきます。

3)尾崎城と大村郷村記の記述
 この尾崎城は、(大村)郷村記に「尾崎の古城」と記述されています。この(大村)郷村記によりますと次の通り書いてあります。「 」内引用部分、ただし、原文は続き文ですが、見やすいように一部空白(スペース)を挿入しています。

 尾崎の古城 今富村椎の木淵と云処にあり 本丸拾弐間四方 二の郭長サ拾四間横七間 三の郭長サ四拾間横五拾間 丑寅の方堀切長サ三拾間横三間 大手南の方と見へたり 丑寅の方一方尾続 三方は田原にて前に郡川あり 辰巳の方切岸にて椎の木淵あり 此川御手水の滝流裾なり 今は本丸に二三の郭共に畠地となる 由緒不知 」

佐奈河内川の椎の木淵(今富町、大雨後撮影)
(中央右方向へ、野田川。奥の山は郡岳=826m)
(尾崎城はこの渕の西側=写真左方向にあった)

 上記の(大村)郷村記を現代風に口語訳すると次の の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。

< 尾崎の古城 今富村の椎の木淵と言う所にある。城の本丸は約466平方メートル(=約141坪)、二の郭(くるわ=城のかこい)の長さは約25m・横約13m、三の郭の長さは約72m・横約90m、北東の堀切の長さは約54m・横約5m半、城の正面は南の方へ向いていた。(城から見て)北東側は一方向への尾根続きなっている。

 三方面は田畑で、その前は郡川となっている。南東側は切り立った(川の)岸になっていて、(川には)椎の木淵がある。この川=佐奈河内川(さながわちがわ)は、御手水の滝(おちょうずのたき)の川下になる。現在は、本丸、二の郭、三の郭とも畑になっている。城の由緒(築城やその後の経過)は、知らない。 

 上記の(大村)郷村記には、「由緒不知」と書かれています。つまり、築城したのは誰なのか、あるいはその後の居城した城主の経過などは記載されていないので、正確に言えば不明と言えます。あと、大村郷村記には、江戸時代の大村藩が編纂しましたので大村氏と関係ある城などは詳細に書かれている傾向があります。

 しかし、先に紹介しました城の尾城(城主は佐賀側の豪族ではないかと思われる)みたいに大村氏とは関係ない城ならば、簡単に記述されています。この書き方から推測して尾崎城も同様で、大村氏と関係ない城主と思われます。それでは、はたしで誰が築城主なのか、誰が居城していたのか、この疑問が湧いてきます。その一つの説として、この地の豪族・今富氏の居城という伝承があります。今富氏は歴史にも度々登場する人物です。

 たとえば、1237年(鎌倉時代)の文章には、「彼杵庄の御家人」として、「大村氏、千綿氏、時津氏、長崎氏、浦上氏、戸町氏、今富氏」などと名前が出ています。今富氏がこの地をいつまで支配していたか、正確なことは不明です。ただ、色々な記述もありますので、この後、南北朝の頃まではいたと思われます。(『福重のあゆみ』ページの「福重の城」より参照)

  その後、戦国時代に入り、この今富氏の系列なのか、あるいは違う豪族が居城したのか、遺構も遺物も史料も現在のところ発見されていないので分からない状態です。しかし、城主は不明といえども、私の推測ながら(江戸時代風に言えば)「本丸、二の丸、三の丸」まであった城ですから、「かなり防御用の構えが強固だった」、「他の城も参考にして築城したのではないか」、「規模はそう大きくないが、築城はそれなりの月数かけた、あるいは増築を繰り返したのではないか」なども考えられると思います。

 さらに想像たくましく考えるなら、「本丸、二の丸、三の丸」の規模までも記述されているので、(大村)郷村記が編纂開始された江戸時代中期前まで、この尾崎城周辺には石垣あるいは土塁、その他、城らしい遺構が残っていたことも、この記述で推測できるのではないでしょうか。尾崎城についての文字数は、そう多くないものの、(大村)郷村記はこの城について色々なことを語りかけているような気がします。

補足:もう一つ注目すべき(大村)郷村記の記述上の表現で尾崎城のことを「尾崎の古城」と書いてあります。福重にある城の内、好武城(寿古町)、今富城(皆同町)は、そのような「古城」と言う表現は用いていません。三つの城とも江戸時代は廃城でしたから、同じように単純に「尾崎城」と書いてもおかしくはないと思われますが、「古城」としているところに、他の二つの城より築城や存在は古かったと言うことでしょう。

4)尾崎城の想定位置図
 尾崎城の想定位置について書いてある本は、『日本城郭大系 17 長崎・佐賀』 ( 新人物往来社、1980年11月発行)の『尾崎城』です。ここに想定位置図とともに、この城址の紹介文も書いてあります。その説明文章は、次の<>内の通りです。全体の文章自体は簡潔にまとまった内容なのですが、地元の福重の者として、いくつか疑問に思える箇所もありますので上野が下線を付け、後で訂正含めて補足をしています。

 尾崎城は今富郷尾崎の郡川の流域に近く、小高い丘陵の一角にあり、四方へ の展望の利いた地に営まれた平山城であった。戦国時代における大村氏の出城 の一つであるが、大村氏の誰が、いつ築城したか、ほぼ戦国時代のものと推定 できる以外、詳細は不明である。

 この城をめぐる合戦などについても特に記録や伝承はなく、また絵図もない。 ただ方形の本丸・二の丸などが残っているが、現在、畑地となっている。西方 に大手があったとみられ、なだらかな傾斜をなしているが、東方は断崖で容易 に入を近づけない。また、北方には空堀がめぐらされており、敵襲を防いでい る。今日では付近一帯がミカン畑となっている。 

尾崎城の想定位置図(大村市今富町)
(A:仮の本丸、B:仮の二の丸、C:仮の三の丸、D:標高が高い地点)
(佐奈河内川に椎の木渕がある。岩名城は想定位置)
大村藩領絵図にある尾崎城(蛍光四角枠上に「尾ノ城」の文字あり)
(中央の四角枠は「岩名ノ城」、蛍光線は絵図とは関係なし)

(左側の紺色郡川、四角枠の上側の細い紺色線は佐奈河内川)

<上記の間違い及び訂正など>
今富郷尾崎」について、今富郷(現在は今富町)は、この本の出版当時は旧称でしたから、これで良いのですが、字(あざ)は「尾崎」ではなく、この周辺は(先に「2)尾崎城の名称について」にも詳細に書いた通り)正しくは「地堂(じどう)」です。大村藩領絵図にも「地ドウ(地堂)」と描いてあります。

大村氏の出城 の一つ」について、この件は上野の調査によれば、このことを証明する古文書、史料関係はありません。江戸時代に編纂された(大村)郷村記にも、そのようなことは書いてありません。あと先の項目「3)尾崎城と大村郷村記の記述」の後半部にも書きましたが、尾崎城は、大村氏ではなく、むしろ地元の今富氏と関係が深いと言われています。

絵図もない」について、確かに尾崎城そのものを紹介する絵図はありません。しかし、大村藩領絵図(右下側の絵図を見て頂けないでしょうか。この絵図には、「尾の城」として描いてあります。(このこと詳細は先の「2)尾崎城の名称について」参照)

 あと、『日本城郭大系』には説明文章とともに尾崎城の想定位置図も描いてあるのですが、それを参照して作成したのが、右上側の図です。念のため、佐奈河内川にある椎の木淵、この川に架かる今富橋の文字を除き、赤い文字は全て推測・推定の場所です。なお、(大村)郷村記に書かれている「本丸、二の丸、三の丸」の呼称は、江戸時代の呼び方です。

 戦国時代などの城を指す場合は、「主郭、副郭」などと呼称するのが正しいと言われていますが、『日本城郭大系』にも同様の呼び方が描かれてあるので今回便宜上、これらの名称で統一しました。

 なお、右上側の地図は尾崎城の想定位置図で、その名称など説明は次の通りです。 :仮の本丸位置、:仮の二の丸位置、:仮の三の丸位置、:本丸より標高が高い地点。椎の木淵は現在約100mある淵。岩名城も想定場所。今富橋は城とは全く関係ないが長さ(約23m)の縮尺が分かりやすいので書いた。

想定位置図の評価と疑問について
 大村藩領絵図に描かれている「尾の城」(尾崎城)の位置も、この想定位置図も大枠の場所自体は、ほぼ同じ所に図示されています。しかし、具体的な「本丸、二の丸、三の丸」まで正確であるかと言う点については、いくつか疑問があります。これから、それらについて述べたいと思います。

疑問その1:(大村)郷村記に書いてある尾崎城遺構の規模(メートル換算で)「二の丸=長さは約25m、横約13m、三の丸=約72m・横約90m」が、もしも正しいとするなら図示と実際の場所が合わないものです。

疑問その2:現在の地形からして、なぜ本丸位置は一段低い位置と想定したのか疑問が残ります。本丸位置が、まわりに比べて低いのは防御用も、水掃け対策上も非常に不利と思えます。(水対策は近代の様々な設備が向上しても注意して造成されている) 戦国時代の城なら防御最優先の考えでしょうから、もっと標高の高い(右上側想定図の)所が近くにあるのですから、この周辺が適していると思われます。

 以上のようなことから、直ちに尾崎城の想定位置を右上側の図面のようにして全て決定ずけるには無理があると言えますが、ひとつの参考資料にはなるとは思います。今後、新たな史料や遺物発掘などの展開を待ち、城の具体的遺構を見定める必要があると思われます。

5)尾崎城と今富氏の存在
 この項目、最初にお断りを書いておきますが、「尾崎城と今富氏と関係あり」と言う史料が存在する訳ではありません。先の「3)尾崎城と大村郷村記の記述」にも書いている通り、尾崎城は誰が築城したのか、あるいは居城した城主の経過などについては、「由緒不知」と書かれています。つまり記載されていないので正確に言えば「尾崎城と今富氏との関係」は、不明と言えます。ただし、そうは言っても今富と言う地域を様々な経過から見たり、または今富氏の名前が出ている史料も再点検してヒントも得たいとも考えて、これから書いていきます。

今富は古墳時代から豪族が存在
 歴史は、ある日ある時に突然起こった場合もあります。でも、この種の城址や城主あるいは地域の豪族などは、ある程度その地域で連綿と続いていますし、また突然在住してきた武将であっても、その地域とは何らかの繋がりがあったとも言えます。その意味から、この尾崎城のあった今富と言う地域を、もう一度縄文・弥生・古墳時代も含めて見ておく必要があるかと思います。

 これらについても、既に「1)尾崎城を紹介するにあたって」、「2)尾崎城の名称について」に書いた通りですが、この今富は大村市内最古の縄文遺跡の岩名遺跡を始め長崎県下でも特徴的な古墳である黄金山古墳を始め地堂古墳さらには今は隣町になりますが野田古墳(5基出土)も元々は今富の豪族の墓ではないかと言われています。

 つまり、郡川の支流である佐奈河内川や野田川(山田川)周辺の今富地域は、縄文時代の頃より穀倉地帯で人々も多く住んでいました。その後、時代は下って多くの人々を束ねる豪族も現れ、そのことは先の古墳によっても証明されている土地柄なのです。また、さらに大きく時代は下って、今富は京都の仁和寺(にんなじ)の荘園と一部ではありますが 東福寺・九条家の荘園も存在しました。

鎌倉時代の御家人としての今富氏
 今富氏は、(大村)郷村記、福重村、由緒之の項にも記述されています。それは、下記の< >内です。文章は縦書きで全文続いていますが、分かりやすいように区切りと思える箇所は空白(スペース)を入れ、横書きにしています。

  一 今冨村往古今冨氏知行す 喜禎三丁酉年十二月十九日 関東の御教書に肥前国彼杵荘御家人等は右大将家の時令勤仕京都大番と有 之右人数大村七郎太郎 丹後守親澄小字七郎太郎 干綿太郎 時津四郎 長崎小太郎 浦上小太夫 同三郎 戸田藤次 今冨次郎 同三郎 同四郎なり  又 正平二十五庚戌年 北朝応安三の書記に今富兵庫介 同勘解由佐衛門尉 同八郎とあり 長崎氏家記に貞応年中 肥前国彼杵郡に下り深江浦へ居すとあり 一説に建久四癸丑年 頼朝公富士牧狩の節の賞として当国へ下りしとも云 長崎氏今冨氏当家の臣となり 今に家名相続す 按するに今富村は今富氏の号を以村名とせしか 長崎の名長崎氏徒往せしより始る其外此類多し 

正平十七年九月・正平十八年八月・応安五年九月の彼杵一揆 連判帳暑名の豪族分布
(上図は全体図のほんの一部分を拡大したもの)

 上記< >内をを現代語訳すると概要下記の「 」内の通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでもご参考程度にご覧願えないでしょうか。( )内も含めて補足や注釈もしています。

 「 今富村は大昔、今富氏が領有支配していた。喜禎三(丁酉、ひのとり)年(西暦1237年)の(鎌倉幕府の)関東御教書に肥前国彼杵荘の御家人で右の大将家の者が、この当時の京都大番役として仕えていた。その右の名前は、大村七郎太郎(丹後守親澄小字七郎太郎)、干綿太郎、時津四郎、長崎小太郎、浦上小太夫、浦上三郎、戸田藤次、今冨次郎、今富三郎 今富四郎である。

 また、正平二十五(庚戌、かのえいぬ)年(西暦1370年)、北朝の元号で応安三(西暦1370年)の書き留めには、今富兵庫介 今富勘解由佐衛門尉、今富八郎とある。長崎氏家記には、貞応年間(1222年4月13日〜1224年11月20日)に肥前国彼杵郡に下り深江浦に居たと書いてある。一説によると建久四(癸丑、みずのとうし)年(西暦1193年)に源頼朝公の狩猟などで功績をあげ、その褒美として当国(肥前国彼杵郡)へ下ってきたとも言われている。

 長崎氏、今富氏とも今は当家(大村家)の家臣となり、家名を相続している。考えてみると、今富村は今富氏の名前をもって村の名称であるし、長崎は長崎氏の名前から始まっているなど、このような例が多い。 

 上野の感想ながら上記(鎌倉幕府の)関東御教書に肥前国彼杵荘の御家人として、大村氏は一人なのに「今冨次郎、今富三郎 今富四郎」(なぜか”太郎”の名前はありませんが)と言う三人もの今富氏が記述されているのは興味深いことではないでしょうか。これを想像するに3人もの今富氏が登場する位、この当時の彼杵や大村地域では、今富氏の領有面積の広さ、力の大きさをも物語っているような気もします。

 あと、(大村)郷村記にも同様なことを書いていますが、このように武将の氏名が先で、そのことから地名が付いたか、はたまた地名から武将の名前が付けられたのかは、この際おいておきます。しかし、当時の状況で明確に分かるのは「武将の名前と地域の名称は、ほとんど地域が限定される」くらいだったと言うことではないでしょうか。もしも、(大村)郷村記の記述が正しいとするなら、先に書い通り鎌倉時代も始めの頃と思われますが、その当時既に今富氏は、この今富にいたと思われます。さらにはその以前から、この穀倉地帯を領有する豪族として存在していた可能性もあります。

 このような経過もふまえ、この今富地域に大村氏とは別の、今富氏を始め豪族や武将がいても、それは極自然です。そのような状況下、地名と氏名が同じ今富氏の存在は大きいと思われます。いくつかの史料に、この今富氏の名前は登場しますが、今回三例をあげて紹介します。このことについて『大村史話 続編1』 (大村史談会1986年3月発行)の「第四章 彼杵荘に咲く最後の花 彼杵一揆の小地頭達」(論文執筆、満井録郎氏)を参照して書いています。

 なお、右上側の地図は、この本の58ページ掲載の「正平十七年九月・正平十八年八月・応安五年九月の彼杵一揆 連判帳暑名の豪族分布」をもとに一部分を拡大し、上野の方で分かりやすいように大村湾を薄青色、今富氏の部分に赤線枠を描いたものです。次に、下表は鎌倉時代(1185〜1333)の末期と、先ほどの(南北朝)頃の彼杵一揆の連判状に今富氏の名前が登場していますので、その名前を紹介します。なお、彼杵一揆(南北朝)頃の名前は、右上側の地図と同じです。

(A)喜禎三(1237)年、関東御教書に肥前国彼杵荘の御家人としての今富氏

(B)鎌倉時代(1185〜1333)の末期頃に登場する今富氏

(C)応安5(1372)年9月の彼杵一揆 連判帳暑名の豪族に登場する今富氏

 今富次郎

 今富十郎入道明幸

 今富掃部助    

 今富三郎  今富又次郎入道  今富勘解由佐衛門尉
 今富四朗  今富田崎入道  今富八郎

注:彼杵一揆の連判帳暑名は、彼杵地域の武士の間で何回も交わされている。(C)の欄だけではない。連判署名で「正平十七(1362)年九月・正平十八(1363)年八月・応安五(1372)年九月」の年月が入っているのがある。この彼杵一揆は、「一揆」と言う名称ながら百姓一揆のようなものではなく、<中世、小領主たちの同志的な集団。また、その集団行動>(国語辞典の大辞泉参照)である。

:上表の(A)の
史料出所は大村郷村記より、同様に(B)は『博多日記 大田亮 家系系図入門』(詳細は『大村史話 続編1』78ページ参照)、同様に(C)は『福田家文書』、『大村郷村記』など(詳細は『大村史話 続編1』58ページ参照)である。

 上記の図や表で分かることは、領主(豪族)としての今富氏がどんなに短期間であったと仮定しても最低期間、鎌倉時代初期から南北朝時代の頃までは今富地域を領有し他の豪族と肩を並べて覇を競い合っていたのではないだろうかと言うことです。しかも、その期間に仁和寺と東福寺の二つの荘園があったとしても、今富を中心に勢力を張っていたと想像されます。

 このことから導き出される推測は、やはり今富に存在した岩名城と今回の尾崎城に今富氏は居城していたのではないかと言うことです。大村氏と関係が深いなら(大村)郷村記に詳述されているそうです。しかし、詳細記述がないことから私は、むしろ当初は大村氏と関係ない今富氏が、後で書く予定の好武城あるいは今富城より先に、岩名城や尾崎城を築城したのではないかと推測しています。そして、戦国時代の勢力争いに負けて、今富氏は大村氏の家臣(家来)になっていったのではないかと思っています。

6)尾崎城と岩名城との関係
 私は、先に紹介中の岩名城の項目で、今回の尾崎城との関係を私の推測ながら、次の二つの説(ただし下記は項目のみ再録)を書いています。
(イ)尾崎城ができる前が岩名城だった説
(ロ)平時は岩名城、戦時は尾崎城だった説

 その他の説も考えられますし、逆に大きな年代のズレがあれば二つの城は全く関係なかったのではと言うこともありえます。ただ、私は「同じ今富地域でしかも目と鼻の距離(直線で約100m)、同じ戦国時代、同じように大村藩領絵図に両方図示されている」と言う点に注目しました。城形式で「尾崎城が”平山城”」、「岩名城が”平城”(館みたいなもの)」の差はありますが、いずれにしても、この地域を領有していた豪族(戦国武将)が、両方の城にいたことは間違いないのではないでしょうか。

 あと、江戸時代の石高の史料しかないので申し訳ありませんが、当時の郡村(福重、松原、竹松の3村合計)は「4.062石」で他の大村の各村よりはるかに多い生産量です。(江戸時代の各村の石高は、ここからご覧下さい))戦国時代の石高は不明ですが、この3村の中でも福重村は多く、さらにはその福重村の中でも当時の今富地域は穀倉地帯で現在の今富町だけではなく重井田町、野田町、立福寺町なども含まれていますから、相当量の石高=経済力があったのは間違いないことでしょう。

 この石高=経済力を手に入れるかいれないかは、当時の福重のみならず現在の大村市全体と想定しても覇権確立のためには大きなキーポイントとも言えました。その今富にいた豪族(戦国武将)が居城したであろう尾崎城と岩名城の存在は、史料無きため雄弁には語れませんが、それなりの役割を果たしたのではないかとも思えます。

7)尾崎城のまとめ
 これからのまとめは、既に何回となくご紹介したことばかりですが、箇条書き風に尾崎城(おさきじょう)のことをまとめたいと思います。
1) 尾崎城の位置が史料にあるのは大村藩領絵図で、この絵図には「尾の城」と描かれている。
2)城の規模や概要が記述されている史料は大村郷村記で、この記録には「尾崎の古城」と書いてある。
3)築城主や歴代城主について、正確には不明と言わざるを得ないが、一つの推測として今富氏だったかもしれない。

4)この城のある今富は縄文・弥生時代頃より穀倉地帯で経済的な位置付けでは重要な地域だった。
5)大村郷村記で「尾崎の古城」と言う表現があるのと、この今富地域の縄文時代からの様々な歴史的経過からして大村にある他の城より早期に築城された可能性もある。
6)推測だが、直線で100mの距離にある岩名城との関係もあると思われる。

7)1566年に尾崎城から北東部へ直線で約500m先(今富町と立福寺町の境界周辺)で、鳥越・伊理宇の合戦があったが、大村純忠の軍は(主力は今富城からだが)、この城からも出陣したと思われる。
 
などをこれまで主に書いてきました。平和な江戸時代に築城された城に比べたら規模自体は大きくはありませんが、戦国時代に使われた城ですから充分な大きさであり、その立地条件も天然要害の崖を含めて自然条件を良く考えた構えだったと言えます。

 この城は、今まで大村市内で発行された書籍類には、詳細な記述がありません。たとえ書いてあっても名前程度の紹介文しかありませんでした。その意味からすれば、まだまだ、解明されていない城址とも言えます。私は、新たに何らかの史料、遺構や遺物が発見・発掘されればと期待もしています。この尾崎城周辺は、先に掲載中の戦国時代そのままの自然環境下にある城の尾城ほどの保存状態ではありません。でも、城の立地した尾根そのものの地形は、住宅地や農地の変更を除けば雰囲気は大きくは変わっていないとも思えます。

 以上、様々な推測交えて書いてきましたことは、ご容赦願います。最後に地元、福重の者として今後何らかの機会に、この尾崎城について多くの方により研究や解明が進んでいくことを重ねて念願しています。

今後も、追加掲載予定
 今回これで一応のまとめになりますが、これからも何か新たなことを教えて頂いたり、調べ直して記述することがありましたら速やかに追加掲載していきたいと考えています。今後とも皆様よろしく、お願いします。今までの閲覧に重ねて感謝申し上げます。

初回掲載日:2009年9月27日、第二次掲載:2009年9月30日、第三次掲載:2009年10月2日、第四次掲載:2009年11月5日、第五次掲載:2009年11月13日、第六次掲載:2009年11月14日、第七次掲載:2009年11月15日、第八次掲載:2010年8月31日

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