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城の尾城(中央の山、右が主郭、左が副郭)
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1)城の尾城を紹介するにあたって
まず、この城を記述するにあたって大村市文化振興課の大野氏の講演内容、城案内時のお話、それに頂いた縄張り図や資料などをもとに作成しています。大野氏はじめ文化振興課の皆様には、改めて感謝申し上げます。私は、この城跡には福重郷土史同好会の史跡巡り含めて5回以上、見学に行きました。(福重郷土史同好会による城の尾城の史跡巡り報告は、ここからご覧下さい)
個別の詳細は後の項目で書くとして最初に感想みたいに記述すると、この城跡は「大村市内にも、こんな特徴のある城があったのか」、「これに建物があれば、そのまま戦国時代の城ではないか」と思うくらいです。また、今まで書籍やホームページ類含めて詳細な紹介がされていない城です。
右側写真(中央部の樹木の濃い色)でもお分かりの通り、海抜約180mの所に、こんもりと二つの小高い山が見えます。この内の高い方(写真では右側)が、主郭(江戸時代の表現なら「本丸」)です。低い方(写真では左側)が、副郭(前同「二の丸」)です。
この山の両側には、二つの川が流れています。写真手前側が城の尾川、奥がながおか川と言う川に挟まれています。両川は、低い山の先端部で一つに合流しています。合流する直前の所には、大雨の後だけ城の尾川から水が流れ込むため、御手洗の滝(みたらしのたき、落差約5m)も出現します。通常期は、上水道か井手(用水路)の堰(せき)に水が取水されるため、滝水になりません。
地形自体は戦国時代も現在も、そう大差はないと考えられますが、この城についての最大の疑問は「なぜ、こんな所に、誰が築城し、何の目的があったのか?」と言う点だろうと思われます。しかし、江戸時代の古記録・大村郷村記などに、この城についての概括の紹介記述はあっても、先の疑問に答えるような詳細な内容にはなっていません。なお、大村郷村記については、後の項目で現代語訳含めて書く予定です。
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2)城の尾城の縄張り図
城の尾城について、下記縄張り図をもとに概要の説明を致します。(縄張りなどの用語については「城関係用語集」ページ参照) なお、下記の縄張り図は、大村市文化振興課提供資料に上野の方で見やすいように色を塗っています。念のため、彩色は川の幅など実際とは違う場合もありますので、あくまでも参考程度にご覧願います。
1)中央右(標高180.5mと書いてある周囲)が主郭(しゅかく=江戸時代は"本丸")で主に大将(城主)がいた所である。
2)中央左(標高163mと書いてある周囲)が副郭(ふくかく=江戸時代は"二の丸")で主に武士の生活場所である。
3)中央やや右下から左上部(主郭と副郭の中間部)に斜めに登っている道(薄い黄色の線)が、登城路(とじょうろ)である。
4)主郭の右下側に4本の大きな溝(オレンジ色の線)がある。これは竪堀(たてぼり)で、2個以上あるので畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)とも言う。
5)主郭右側(紺色と白色のマーク)が、飛礫(つぶて)と思われる球状の石が集積された場所である。
6)主郭と副郭の中心より外側に曲輪(くるわ)が幾重にも広がっていている。これは帯曲輪=帯郭(おびくるわ)とも呼ばれている。
7)主郭中心より10m近く右側の所に低い石積みがある。これは土砂崩れ防止と北東部からの攻撃の防御にもなる。
8)副郭(標高163m文字周辺)右側の所(薄い緑色)に南北に掘られた掘切(ほりきり)がある。
9)上記堀切の一番高い所(上の地図では一番下の太い黒線)に狭い通路みたいな土橋(どばし)があった可能性がある。
10)副郭の一番左側からの展望は、三城城などが良く見える。
11)中央下側から左方向に流れている川(薄い青色)が、城の尾川(じょうのおがわ)である。現在は葦(よし)や雑草が、ほぼ全面に茂っている。
12)「網掛け模様」の表採遺物集中地点は、地上面の採集作業時、遺物が集中して出てきた地点である。遺物の大半が甕(かめ)だったので、おそらく水をためる甕が複数あったと推測されている。この種の遺物集中地点の多い副郭は、多くの武士の実生活の場所であったことを物語っている。
(注:項目の追加も検討中)
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3)大村郷村記の記述など
江戸時代に編纂された郷村記の復刻版大村郷村記(以下、この名称で統一する)第一巻、112ページに「城の尾古城」のことが記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。ですから、あくまでもご参考程度にご覧になり、引用をされる場合は原本から願います。「 」内の太文字が大村郷村記からの引用です。
「 一 城の尾古城
城の尾山尻谷間にあり、小柴立の山なり、頂上平地 凡三畝程、中段長サ壼町、横三間余の平地あり 土人是を馬乗場と云ふ 三方大岩石にて瞼岨なり、丑寅の方に土手隍の形あり、城の尾谷の方川より一騎通の道あり、城主及築立の由緒不知 」
上記「 」内をを現代語訳すると概要下記の< >通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでもご参考程度にご覧下さい。( )内は補足や注釈です。
< 城の尾古城(じょうのおのこじょう)
城の尾の山すその谷間に小柴(こしば)林の山がある。頂上は平地で、おおよそ3畝(せ)=約90坪=約298平方メートルほどである。中段に長さ1町=約109m、横幅3間(けん)=5m43cmあまりの平地がある。これについて村人は「馬乗り場」と言っている。三方向に大きな岩があって険しい。北東の方角に土手掘り(畝状竪堀群のことか)の形状がある。城の尾谷の方向の川より一騎(馬一頭分)通れる道がある。ここの城主や築城についての由緒は、不明である。 >
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城の尾城の登城路
(手前右手から中央、奥の木立上に伸びている道)
(登城路右側は岩場ばかり、左側は傾斜している)
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この記述は城の尾城の概要を述べたものです。現在の正確な測量法で計測すれば若干の長さなどの違いはあろうかとは思いますが、当時の状況と、この城のある地形や山林などは大きくは変わらないと思われます。また、この記述は役人(侍)だけで書いたものではなく、例えば「土人是を馬乗場と云ふ」部分でお分かりの通り、当時の村人にも聞いて書いています。
あと、大村郷村記で他の城址(例えば規模の大小はあるのですが、今富城とか尾崎城など)の記述がされている項目を比較すると、この城の尾城はあっさり書いてあります。本来なら、主郭、副郭(江戸時代の呼び方で本丸、二の丸)など主要部分は、他の城址は分かる範囲内で大きさ含めて詳細に書いてあります。
しかし、城の尾城については、この主要部分さえ記述はありません。また、この城の特徴点の一つとも言える畝状竪堀群についても「丑寅の方に土手隍の形あり」とだけ書いてあります。当時から竪堀とか畝状竪堀群みたいな呼び方をしていたかどうかは別としても、「土手隍の形あり」だけでは、まるで何も知らないことと同然と思われます。竪堀など、大村領内に少しでも同種のものがあれば、せめて違う呼び名であっても記述くらいはできるものです。
これらのことから推測できるのは江戸時代に既に山林になっていたとはいえ、城の尾城それ自体は周辺の村人含めて結構まだ知られた存在だったと思われます。しかし、城の主要な施設や構造も不明だったこと、あるいは最後の方で「城主及築立の由緒不知」とあるのは、戦国時代以降の大村藩と関わりのある城主や武士たちではなかったと言うことではないでしょうか。
これだけの城ですから、戦国時代以降も城主や武士がいた、あるいは常時いなかったとしても大村藩と関係あったならば、何らかの形で由緒、施設、構造などが伝わっていたはずと思われます。しかし、江戸時代になると城を語る上で肝心なことの伝承さえ不明だっと思われます。
つまり、戦国時代のある一時期、後世の大村藩と関係ない城主や武士が築いて、実際城に籠った跡や遺物があるにも関わらず、役目を終えた時点で大村領と関係ない所(佐賀領など)に、こつ然と移動したのを物語っているのではないでしょうか。この大村郷村記の記述は、あまりにも簡潔すぎて、詳細まで分かりませんが他の大村領内の同規模の城と書き方からして違うみたいに思えます。
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4)城の尾城から出土した遺物など
城の尾城の本格的は発掘調査は、(2009年6月現在で)まだのようです。ただし、 2002年秋頃に城の確認あるいはその後調査がされた時点で、先の「2)城の尾城の縄張り図の凡例」や「説明書き12)表採遺物集中地点」の項目でもお分かりの通り、地表面からいくつかの遺物が収集されています。
今回、主に生活用品を中心に、その代表例を下記にまずは箇条書きします。
(1)須恵器(壺、甕や食器用)の一部(右側写真、上から1番目など)
(2)風炉(ふろ)(注A)の一部(右側写真、上から2番目など)
(3)茶器(茶道用品)の一部
(4)青磁の皿の一部(右側写真、上から3番目など)
(5)青磁の花瓶の一部(右側写真、上から4番目など)
などです。
(注A)風炉とは国語辞典の大辞泉によれば「茶の湯の席上で、釜(かま)をかけて湯をわかす炉。唐銅(からかね)製・鉄製・土製・木製などがあり、夏を中心に用いる。ふうろ。」とあります。
上記(1)から(5)までの補足説明について
(1)須恵器(壺や食器用と推定)の一部は、主に副郭などから採取されたものが多いと言うことです。つまり一般の武士が、この副郭を中心に生活していて、そこで使われていた思える壺(つぼ)、甕(かめ)、食器類の一部と思われる須恵器が見つかっています。
人は日常生活でも、あるいは戦国時代の武士の場合は戦場(砦や城含む)でも、どうしても最低限食べるための道具、食器類などはなくてはなりません。戦国時代の城跡でも、この種の出土品が多くなるのは当然のことと思われます。あと、発見された甕(かめ)の一部が水甕(みずかめ)用としたら、重たくて撤退時に放置した可能性も推測されます。
(2)風炉や(3)茶器(茶道用品)は、その名の通り、当時も現在も本来なら茶室などで使用される道具です。大名が常時居城していた城なら、この種の物があっても当然ですが、最前線で常に戦闘状態の山城で発見されたのは珍しいと言うことです。
(4)青磁の皿について、次の(5)項目の青磁の花瓶含めて、日本で磁器が本格的に焼かれるようになったのは江戸初期と言われています。 古代から日本には磁器を焼く技術はなく、中国や朝鮮からの輸入品のみでした。時代は下って戦国時代には相当輸入されていたかもしれませんが、それでも両方とも一般庶民も沢山持っていたという物ではなかったと思われます。
(5)青磁の花瓶の一部は、2008年4月22日の調査時、大村市文化振興課の大野氏が、主郭下の登城路付近で発見されたものです。<登城路については(2)城の尾城の縄張り図と説明書き3)の「登城路」を参照> その後、この青磁と同種の物がないか調べられたところ、例えば山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵の(中国か朝鮮から伝来の)『青磁牡丹唐草文瓶』と同種・同時代の花瓶ではないかと言うことが分かりました。この花瓶の制作年代は、14世紀と書いてあります。
(この山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵の『青磁牡丹唐草文瓶』を知りたい方は、先のアドレスが表示されましたら「収蔵作品検索システム」ページに『青磁牡丹唐草文瓶』の文字を記入されれば、ご覧になれます。このページによりますと、この青磁は「14世紀、元の時代」と表示されています)
茶道用品や青磁の花瓶などは、何を物語っているのか
先に(1)から(5)まで城の尾城の表採遺物の簡単な紹介を致しました。台所や食器など須恵器などが見つかるのは武士が一定期間生活していたのですから、それは当然のことと思われます。しかし、風炉、茶器、花瓶などが採集されたのは、何を意味するのでしょうか。
大野氏の説明によると、「ここの大将は戦闘状態の、この城に茶の道具や花瓶まで運ばせたのは、よほどの風流人だったかもしれない」、「もしかしたら簡単な茶室みたいな小屋も造らせたのかもしれない」と言うことでした。
あと別の角度から、これらの遺物は(後の項目で書く予定の城の各種遺構の存在含めて考えると)何カ月とかいう短い期間ではなく、相当長い年月この城の尾城は使用されていたのではないだろうかと言うことも物語っています。もしも短期間ならば武器や居城用の必需品で手一杯で、とても花瓶や茶道用品など(ある面、贅沢品とも言える用品)は要らないはずです。つまり、長期間だったがゆえに、この種の道具を持ち込んで楽しみもしていた可能性もあると言うことです。
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5)城の尾城の主な遺構など
城の遺構と言えば建物、主郭・副郭(本丸、二の丸)、曲輪、堀、石垣、登城路などのあった跡を指していると思われます。城の尾城の場合、先に何回か書きました通り建物はなくても、それ以外の遺構は戦国時代そのままの状態で残っています。今回全部の遺構紹介はできませんが、その中の代表例を写真も交えて、いくつかとり上げたいと考えています。なお、既に書きました「城関係用語集」及び「城の尾城の縄張り図」説明と掲載中の写真が重複している部分もありますので、この点はあらかじめご了承願います。
(1)主郭(しゅかく) 、(2)副郭(ふくかく)
これについては既に「城の尾城の縄張り図」で説明した通りです。(写真:右側1番目参照) 改めて再度簡単に書きますと、主郭(しゅかく)は大将(城主)がいた所で、副郭(ふくかく)は武士の生活場所と思われます。両方とも、遺構全体が良く残っています。ここにあったと思われる建物についてですが、最前線の城ですから現在イメージするような立派なものでは当然なかったと想像されます。また、近世の城の規模からすれば広さは、一見そんなに大きくは見えません。でも、多ければ100名近くの武士の数でも充分居住可能と言うことでした。
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(1) 城の尾城(右が主郭、左が副郭)
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(2) 登城路
(手前右手中央から奥上方向の道)
(右側は岩場ばかり、左側は傾斜面)
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(3) 竪堀<上から下を見たところ>
(中央部が高く、両脇の堀が下まで伸びている)
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(4) 曲輪 (段差60cm位)
(右側が上の段で手前側の幅1m50cm位)
(左側が下の段で手前側の幅2m位)
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(5) 飛礫 (丸みのある石が散乱している)
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(6) 石垣 (北側斜面にある)
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(7) 堀切 (副郭にある)
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さらに想像たくましくして考えるなら主郭・副郭とも、平屋の建物がいくつかあったとも思われます。現在の跡地に立って見ても、そのことが推測できる広さがあります。あと、先に紹介した遺物の中に茶の道具として使われる風炉(ふろ)など、さらには青磁の花瓶などもあったので、もしかしたら主郭付近に小さな茶室もあったのではとも言われています。
(3)登城路(とじょうろ)
「城の尾城の縄張り図」と写真(右側3番目参照)にある道が、城の尾城の主郭・副郭などに行く登城路です。戦国時代の登城路が、このように分かりやすい形で現存しているのは珍しいと言うことです。城の尾城川から主郭・副郭の中間地点(登城路の最高地点)まで目測ながら70m位あります。
川から登城路を10数メートル登った所に横幅10m弱、奥行き5m位の小さな平地があります。あくまでも想像ですが、この程度の広さがあれば常駐できる見張り番みたいな小屋も建てられそうです。もしかしたら、当時は小さな建物もあったかもしれません。
あと、写真(右側3番目参照)にも写っていますが、この登城路右側は下から登り切るまで全て岩場になっています。この石を直接伝って主郭方向に登る(攻撃する)のは、まず難しいと言えます。反対側の登城路左側は、川へ落ち込んでいく斜面になっています。
先に紹介しました大村郷村記に、この登城路について「一騎通の道あり」と書いてある通り、道幅は馬なら一頭通るのがやっとと言う狭さです。この幅なら、もしも相手方が攻めるにしても一列でないと登れず、逆に城方から逆攻撃を受けやすかったかもしれません。
(4)畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)
これは「城の尾城の縄張り図」でも紹介していますが、主郭の東側に残る4本の竪堀(たてぼり)です。(写真:右側3番目参照) 右写真では、やや分かりにくいですが、中央部が目測で約70cm盛り上がっていて、その両脇に約1m幅で深さが50cmくらいの堀(溝)になっています。当時は当然もっと堀は深かったと想像されます。
なぜ、この東側の斜面に竪堀4本が築かれたかと言う点です。城の尾城は、「城の尾城の縄張り図」や写真(右側1番目参照)でもお分かりの通り、周囲全体が急峻な小山になっています。さらに登城路上部から主郭の曲輪下の南面には岩場が広がっており(右側2番目の写真参照)、ここから登って攻撃するには難しいと思われます。
しかし、主郭の東側の面は坂ですが、急峻と言うほどではないと言えます。また、この面は登城路から登るより、主郭への近道とも言える位置関係にあります。つまり、自然のままの斜面なら、この東面から大勢での攻撃(一斉攻撃)を受けやすい状況だったとも言えます。
それで、この東面に竪堀を4本掘ることにより、一斉に大勢で左右幅広い陣形で攻め登るのは難しい状況になります。この竪堀が並んでいる関係上、縦移動よりもむしろ横移動がしにくい形状と言うことでした。それで結局のところ、堀(溝)か、盛り上がった畝(うね)を一列で登る方法しかなかったと思われます。
ただし、
この一列縦隊攻撃方法なら、逆に城方が上から大きな石あるいは弓矢などで逆攻撃しやすい、つまり城を守りやすい構造だったと言えます。なお、この竪堀(2個以上あるので畝状竪堀群とも言う)は、大村の城様式にはない、佐賀に多くある形式とも言われています。そのような特徴のある遺構なので、城の尾城の今後の解明に大きな役割を果たすものとも思われます。
あと、九州で畝状竪堀群が造られたのは戦国時代の終わり頃に流行ったと推定されているようです。そのことから、この竪堀が造られる約100年ほど以前(戦国時代の初め頃)に城の尾城は誰かによって大枠は築かれ、その後放置されたような状態になり、再度戦国時代の終わり頃に新しく竪堀が造られたと考えられるそうです。大村領に来る前に竪堀のある城をいくつか造ってきた実績のある者が、ここに改めて造らせたとも推測できます。
このように城の尾城は(戦国時代の初め頃)最初の築城主が造った城型式と、戦国時代の終わり頃とでは、城の形式が変わった可能性があります。ただし、このような変化は城主(家系の変化も含めて)が変わったところでは、当時良くあったそうです。
(3)帯曲輪(おびくるわ)
主郭と副郭の中心より外側に曲輪(くるわ)が幾重にも広がっていています。(「城の尾城の縄張り図」と右側上から4番目写真参照) これは帯曲輪=帯郭(おびくるわ)とも呼ばれているものです。写真では段差が判別しにくいですが、写真右側になる上の段と、左側になる下の段には目測ながら60cm位の高低差があることがわかります。
写真に写っている曲輪(くるわ)で、一応手前側の幅として目算ながら上の段は1m50cm位、下の段は2m位です。ただし、この曲輪の幅は一定幅ではなく、「城の尾城の縄張り図」をご覧になれば分かる通り、広い所は5m以上、狭い幅では1m弱の所もあります。あと、この城の場合、曲輪が主郭と副郭とも何重にも広がっているのも特徴です。また、石垣をあまり用いずに築かれているにも関わらず保存状態も良く、当時のまま見られる曲輪も多いです。
(4)飛礫(つぶて)
主郭の北東部に飛礫(つぶて)が目算で5m四方位で散乱しています。(写真右側上から5番目写真と「城の尾城の縄張り図」参照) 大きさは人の頭前後位から、その数倍程度と色々あります。数は数えたことはありませんが、おそらく数百個はあると思われます。この飛礫は、城の尾城の地面にたくさん露出している板状の石と明らかに違っていて、丸みのある石ばかりで近くの城の尾城川の石を、ここに運んで集積したようです。
もしも、戦闘状態になった時、この城に攻め上がって来る敵方に対し、この飛礫を手や梃子(てこ)などを用いて投げつけるのに用意されたものと思われます。なぜ、ここに石を集めていたのかと言う点については、この地点が主郭の建物の直ぐ近くで、しかも高い位置になるので北東側の斜面だけではなく、その他の方角にも持って行きやすかったからではないでしょうか。
(5)石垣(いしがき) <主に北東側の斜面>
最初にお断りを書きますが石垣は、この北東側の斜面だけではなく、他の地点にもあります。今回、この石垣(「城の尾城の縄張り図」と右側写真上から6番目を参照)のみについて記述しています。この石垣は、上の段と下の段の二段構えになっています。どちらの段も石垣の長さは目算ながら10数m位で、高さはマチマチですが、人の背丈ほどの所もあります。現在は土砂が被ってしまっていますが、当時は土塁含めてもっと高さのある石垣だったと思われます。
ここは、主郭の頂上部分)の広さを広げたところ、その部分から土砂崩れになりやすいので、この石垣を築いたと考えられ、特に上の段はその役割です。下の段の石垣は、ここの斜面を登って攻撃してくる敵方の防御としての役割もあったと思われます。
また、右側写真上から6番目でもお分かりの通り、一部緩みもありますが石垣の状態が割合、当時のまま残っています。この石は先の項目に書きました飛礫とは、大きさがかなり違っていて大きなものばかりです。当然、この山に元々あった板状の石も使用されていますが、川から持ち運んだような丸みのある石もあります。
(6)掘切(ほりきり)
この掘切は、「城の尾城の縄張り図」と右側写真上から7番目でも、お分かりの通り副郭にあります。堀の幅は、南側(高い地点)が狭くて目算で約2m、北西側(低い地点)が広くて約3mあります。深さは、深い所で1m位、当時はもっと深かったと思われます。堀の形状は、大きなU字溝のようなものです。堀切の一番高い所(南側)には、狭い通路みたいな土橋(どばし)があった可能性もあると言うことでした。通常は、この土橋が連絡通路になっていたと思われます。
堀切の第一の目的は、主に城の西側斜面から攻撃を受けた場合に備えたものと思われます。ここでも敵方は斜面を登る場合、この堀切に来たら横に展開できず、結局はこの溝で縦一列なってしまいます。これは守る城方にとっては、防御しやすいことになります。
あと、二つ目の堀切の役割は、この地点より高い所、特に副郭の平坦地に溜まりやすい雨水などの排水溝の意味合いもあったのではと思われます。この堀切周辺では、表採遺物集中地点ともなっていて、そのことは武士が多く居住していたことも物語っています。
以上が、城の尾城で主に見られる遺構の紹介です。当然これら以外にも、まだ沢山の遺構があります。またの機会に調査や写真撮影などが出来れば追加掲載も検討していきたいと考えています。あと、城の尾城にこれだけ様々な施設が造られたのは敵方からの防御が最重要だったからだと思われます。また、城主(大将)は始め武士の生活に必要な施設も当然必要だったということもいえます。
さらには、戦国時代の初期に最初に築城、その後放置状態、戦国時代の後期に畝状竪堀群などが造られたなどの変遷が推測されています。このことは短期間のみの使用ではなく相当期間居住し、様々な施設を長期間にわたって造ったことも意味していると思われます。
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6)城の尾城の年代や三城城との関係について
この項目は、城の尾城について講演や案内して頂いた大村市文化振興課の大野氏のお話をもとに書いています。城の尾城は既に書いた通り、城主も築城年代も目的も、大村藩の記録に残されていない城です。つまり、城の遺構や遺物を除き、肝心な歴史関係が記録上分かっていない城です。ですから、これから書くことは、あくまでも推定、推量の域内であることをご了承の上、ご覧願いたいと思います。
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中国製青磁の花瓶<部分> (14世紀頃)
(目測で横幅約7cm.。登城路付近で発見)
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竪堀<上から下を見たところ>
(中央部が高く、両脇の堀が下まで伸びている)
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(1)築城年代と築城主は
先にご紹介しましたが、この城で採集された青磁の花瓶の制作が14世紀と推定されています。そのことも参照すれば城の尾城の最初の築城は、戦国時代初頭(=1400年代中頃以降)とも思われます。この時期には、戦国時代後期に流行ったと言われている畝状竪堀群などは当然なかったと言えます。その後、相当期間使用されず、改めて戦国時代(1500年代の)後期頃に畝状竪堀群などが増築され、再度使用されたと思われます。
他の大村の城様式になくて、佐賀側に多い畝状竪堀群などを増築しているので、築城主は大村領関係者ではなく距離的な関係から多良山系を挟んで反対側の佐賀の戦国武将ではないかと思われます。
(2)なせ築城したのか
私は福重郷土史同好会による城巡りなどを含めれば合計5回ほど現地を見学しましたが、城の尾城はまさしく山城そのもので周りは山林、小さな川や田畑以外何もありません。戦国時代は、さらに現在のような田畑は少なかったのではとも思えます。この城から遠望すれば三城城含めて大村市街地や大村湾が見えます。
現在は車もあれば市道もありますので全く不便ではありませんが、戦国時代に農作業するならまだしも、あの山林に築城して平地のように長年居住する意味が大村領内に暮らす武士にはなかったとも思われます。このような城まわりの状況や畝状竪堀群を始めてとする具体的な城の遺構などから総合的に判断するなら、佐賀のどこかの武将が、三城城が望める所に山城を築城し、大村領攻撃の機会をうかがっていたとも言えます。また、逆に大村領の豪族が多良山系を越して佐賀領に向かうなら、佐賀の武士にとっては防御用最前線の城でもあったとも言えます。
この件は史料、伝承が何も残っていないので様々な想像をしていますが、城の尾城の置かれた状況などから、「三城城を日々監視して機会あれば大村領に攻め込む最前線の城だったのでは?」との説明に、私は現地を見学するたびに納得するものでした。
(3)従来の三城城築城年代にも影響の出る可能性が
先の項目で述べたように、この城の尾城が三城城を監視することを主目的で存在したとなると、従来言われてきた三城城の築城年代にも影響が出てくる可能性があります。三城城は、大村純忠が1564年に築城したとの記録も残っていますので、そのように従来から語られてきました。実際、この三城城に大村純忠が来る前は、大村の政治の中心地は今富城(現在の皆同町)でした。
この今富城の周囲は縄文・弥生時代から長崎県央地域の穀倉地帯で古代肥前国時代には、県央地域の役所=彼杵郡家(そのぎぐうけ、現在の寿古町)があり、奈良・平安・鎌倉・室町・戦国時代中頃まで、ずっと中心地として政務が執り行われてきました。しかし、戦国時代になり佐賀側から侵入を受けやすい所でもあり、その結果、郡川と大上戸川(本堂川)と言う敵方が攻め込みにくい二つの川の先にある三城城に大村純忠は1564年に移転してきた歴史があります。
しかし、この城の尾城が戦国時代初期に築城され、その目的が「三城城」周辺の監視などの役割があったとしとたら、その当時から何らかの形で大村純忠築城と関係ない城が既に存在していたことを物語るものです。つまり、従来説=「大村純忠が1564年に三城城を築城した」よりも、百年位早い時期に三城城の地に誰かが築城した城が存在していたと言うことになります。
もしも、この説が正しくて三城城の前に何らかの城が存在したとするなら、従来説「三城城は大村純忠が1564年に築城したことから始まった」にも影響を与えることも考えられます。ひいては、大村の戦国時代の見直しにもなるかもしれません。今後の研究を待ちたいと思っています。
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7)城の尾城の主な特徴点のまとめ
この項目は、今まで述べてきた城の尾城の全般にわたる内容の主な特徴点を改めて箇条書き風にまとめ直したものです。ですから、ほとんど全ての記述が重複していますので、その点はご了承願います。
(1)この城最大の特徴である畝状竪堀群を始めとして様々な遺構などは、大村市内に他に類例のない唯一の城形式で長崎県内でも極めて特徴のある城と言える。
(2)建物はないが主郭、副郭、曲輪、登城路、畝状竪堀群、飛礫、石垣、堀切などの施設跡などは、直ぐ見れるものばかりで保存状態も良く戦国時代そのまま、戦闘モード一杯の状態で現存しているのも特徴である。
(3)戦国時代の城としては規模も大きく、城兵百名程度あるいは多ければ数百名規模も居住可能と思われる。
(4)戦国時代の城には間違いないが、大村藩の記録(大村郷村記)に紹介程度は散見されても大村の歴史に詳細に係った記録がなく、城主が誰だったかなど不明で、”謎の多い城”でもある。
(5)城型式のことではないが、花瓶の一部である青磁、茶の湯の席で使うような風炉の一部などの遺物も発見されたのは、この城主(大将)が、なかなか風流人だったのではないかとも想像されて興味深いことと思われる。
先にも何回となく述べた通り、この城の尾城には様々な遺構や遺物があるので、上記にまとめきれない特徴点も多いです。また、今後も書き加えたいとも考えています。
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あとがき
この城の尾城の紹介ページも、あとがきを書くことになりました。何はさておき素人の書いた不十分な記述ながらも、皆様には閲覧して頂き、大変ありがとうございました。もう既に各項目で、この城の記述については重複内容と知りつつ何回も同じことを書いてきましたので、さらにこのあとがきでも同種同内容を書くことは、極力避けたいと思っています。
あと、この城の尾城は、2002年秋頃の発見(江戸時代の大村郷村記に既に記述されているので、より正確に言えば”再発見”)ですから、まだまだ、これから本格的な発掘や研究はされる段階と言えます。専門家の研究が進んでいない段階で素人の私が色々と推測交えて書くのは良くないことと自覚はしつつも、大村市内の城址で最も特徴的な、最も戦国時代からの保存状態の良い、この城の尾城の一端だけでも紹介できればと思い書いてきました。
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石垣 (北側斜面にある)
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まだまだ風光明媚とか農村風景も残る大村ではありますが、それでも道路、工場用地、住宅地などの開発化の波はどこでも例外ではありません。このような開発の流れは、ある種やむを得ない場合もあることは私なりに知っています。ただ、 「あー、あそこは古墳群があったのに高速道路建設で全部破壊された」、「あそこの開発は仕方ないが、せめて移設などされていたら子供さんや郷土史愛好家の皆さんのいい見学材料になったのになあ」などと思うことも度々ありました。
そのような中、今回この城の尾城を見学し保存状態の良さを知った時に「まだ、こんな城跡が大村市内あったのか」と言う驚きにも似た第一印象を持ったことを鮮明に覚えています。同時に「この城だけは、このままの状態で保存して欲しい」と強く願ったのも事実です。この城の尾城は、全国で熱心に行われている城址の研究分野にとどまらず、色々と謎の多い「大村の戦国史」をひも解く有力な史料にもなりうる存在だと考えています。幸いにも市有地ですし、願わくばこのままの状態で大村市に保存して頂き、城跡研究だけは大いに進んでもらえればなあと思っています。
私は2006年に「考古学は未来学」(私のもう一つのホームページに掲載中)という言葉があることを教えてもらいました。この言葉は簡単に述べると「過去に起こった数多くの事例を丹念に調査していけば、今起こっていることが今後どうなるのか、将来何が起こるのかなどが予測できる」と言う内容でした。この城の尾城の場合は主に戦国時代だと思われますが、先人の残してくれた遺構や遺物などの調査により、当時のことが分かってくれば大変興味深いことだろうなあと考えました。
現代から見れば一見、城や砦などは本当に必要だったのだろうかと思うような所もない訳ではありません。しかし、戦国の世は、それこそ命がけの戦い時代だったろうなあとも想像します。今の時代、何のために造ったのか、誰がまともに使うのか分からないような、まさに無駄とも思える現代の箱物などの公共事業に比べれば、戦国時代の城や砦は数段に活躍したとも思えます。たとえ戦(いくさ)だけでのためだったとしても、城の遺構や遺物には先人の苦労や当時の英知の結集があります。だからこそ、「こうやって俺たちは乱世を生き抜いたのだ。現代人よ、何か参考になるなら考えよ」という迫力にも似た言葉が聞こえてきそうです。
今後も、追加掲載予定
今回このあとがきで一応のまとめになりますが、これからも何か新たなことを教えて頂いたり、調べ直して記述することがありましたら速やかに追加掲載していきたいと考えています。今後とも皆様よろしく、お願いします。今までの閲覧に重ねて感謝申し上げます。
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初回掲載日:2009年5月7日、第二次掲載:2009年6月1日、第三次掲載:2009年6月4日、第四次掲載:2009年6月16日、第五次掲載:2009年6月27日、第六次掲載:2009年7月1日、第七次掲載:2009年7月3日、第七次掲載:2009年7月7日、第八次掲載:2009年7月18日 |
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