この古戦場の位置などについて
まず最初に、この古戦場の位置関係などについて書きます。名称にもなっています字(あざ)の鳥越(とりごえ)と伊理宇(いりゅう、現在は「井龍」)は、現在の大村市今富町にあります。あと、古戦場そのものは、この二つの字の場所だけではなく、隣の立福寺町にまでまたがって戦われたものと想像されます。
位置的に佐賀・武雄の後藤貴明の軍は、野岳に陣を張り、そこから尾根伝いに立福寺へ下ってきたと思われます。そして、それを迎え撃った大村純忠の軍は、当時の政務・軍務の中心地だったと思われる今富城から主力が出陣したと言われています。さらには『鳥越・伊理宇』と同じ尾根伝いにある尾崎城からも、兵力は出て行ったと思われます。
そして、今富の丘で一番高い所(現在、今富町の墓付近)に大村純忠の軍は、陣容を構え、今富町の『鳥越・伊理宇』と立福寺町との境周辺で、後藤貴明の軍と激闘を展開したと想像されます。直線距離で見ると、この古戦場は、今富城から約900m、尾崎城からは約500mの位置になります。
以上が、(大村)郷村記あるいは地元伝承をもとに書いたものです。私が、なぜ、この古戦場の位置関係をやや長く書いているかについて別の側面から考える場合、単に場所を分かりやすくするだけでなく、違った意味もあるのではないかと考えているからです。大村純忠は、この古戦場から佐奈河内川、郡川、大上戸川の三つの川の先の丘にある三城城を、この戦の2年前(1564年)に築城していました。ですから本来ならば、三城城やその近くの大村館が政務・軍務の中心地だったはずです。
しかし、そうではなかったのではないかとも思えるのです。この戦の場合、敵が北部から攻めてきて、その最低防御ラインが、この古戦場周辺だったと言う見方も確かに推測されます。しかし、それはあまりにも単純な理由とも言えます。それより、「どうしても死守したい」何かが、この周辺にはあったと見るのも、あながち間違った見方ではないと私は考えています。
それはとりもなおさず、この郡地区(特に、福重)が大村領の最大の穀倉地帯だった、あるいは、まだまだ当時の政務・軍務の中心地だったことを物語っているような気がします。さらに言えば、これだけの戦を重ねているのにも関わらず、この『鳥越・伊理宇の合戦』時よりも、さらに6年後の1572年に(一部、真偽のほど定かではありませんが)「三城七騎籠り」の戦をおこなっています。
様々な理由があるにせよ、戦国の世にたった7人しか殿様のまわりにいなかったと言う、にわかに信じがたいような戦です。しかし、政務・軍務の中心地は本当は、当時どこだったのか(まだまだ、今富城だったのか、あるいは既に三城城に移っていたのか)、色々と考えさせられもします。そのような後年の戦も含め、この『鳥越・伊理宇の合戦』の位置的な関係は、別のテーマも与えられているような気もします。
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今富の侍の墓
(鳥越・伊理宇古戦場周辺にある) |
『鳥越・伊理宇の合戦』について
この項目は、既に紹介中の「福重のあゆみ」から引用・参照して次から書きます。大村純前(すみあき)は、実子の貴明(たかあきら)を武雄の後藤氏の養子に出し、有馬から養子を迎えます。これが大村純忠です。純忠も「大村純伊」の娘の子ですが、養子に出された後藤貴明は大村純忠を恨み、純忠打倒に執念を燃やし、何度も何度も大村に攻めて来ます。(前後5回?) 大村氏の家臣には貴明に同情する者も多く、大村純忠は後藤貴明に悩まされ続けます。
後藤貴明の永禄9年(1566年)の大村攻撃が『野岳の陣』です。野岳まで攻めてきた後藤貴明の軍と今富城から出て迎え撃った大村純忠の軍が、野岳で戦い、今富の鳥越・伊理宇(今は井龍)で激戦を展開しました。鳥越・伊理宇の古戦場は、立福寺町と今富町の個人宅の裏山の一帯です。(古戦場の位置関係の詳細は、上記項目を参照)
この合戦は、貴明方に槍の使い手がいて大村純忠の軍が押されていましたが、純忠方の宮原常陸介が出て行くと、貴明方の槍の使い手は逃げてしまい、純忠方の勝利となりました。貴明方の槍の使い手は貴明方に加わった大村の家来で、大村時代の稽古では宮原に一度も勝てなかった男だったと(大村)郷村記には書かれています。(「福重のあゆみ」の引用・参照は、ここまで)
ただ、激闘の結果、敵味方は別としても幾人かの侍が亡くなりました。そして、5人の墓や3人の霊がまつってあると言う位牌などが、古戦場近くの民家周辺や民家内にあります。(この「今富の侍の墓」詳細については、ここからご覧ください)
以上が、この合戦の概要です。後で機会あれば別項目で(大村)郷村記の松原村に記述されている詳細な『野岳の陣』について、その全文と現代語訳を書く予定にしています。相当な日時かかりますが、それまでお待ち願えないでしょうか。
(掲載日:2010年8月17日)
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