今富の侍の墓
最初に、この墓の名称について書きます。地元伝承では「侍(さむらい、武士)の墓」などと呼ばれてきました。ただし、福重には、これ以外にも例えば皆同町、寿古町などにも「「侍の墓」とか「武士の墓ではないか」と呼称されているのがあるため、それらと区別するために今回、頭に町名を付けて『今富の侍の墓』としました。なお、字(あざ)の鳥越と伊理宇(現在は「井龍」と表記)は、今富町です。
あと、この『鳥越・伊理宇の合戦』については、別ページに詳細に書いて掲載する予定ですので、ご了承願います。ここでは、概略のみ述べますと、大村家から養子に出された後藤貴明は、永禄9年(1566年)に大村攻撃をおこないました。この戦が、『野岳の陣』です。(現在の大村市野岳町や東野岳町周辺の)野岳まで攻めてきた後藤貴明軍と今富城から出て迎え撃った大村純忠軍が、『鳥越・伊理宇の合戦』で激戦を展開しました。
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丘付近が鳥越・伊理宇古戦場跡 |
『鳥越・伊理宇の合戦』(古戦場)周辺にある侍の墓
この墓は、今富城から直線距離で約950m、尾崎城から同じく約500mの位置にあります。また、この侍の墓について、江戸時代編纂の(大村)郷村記とか近代の書籍類にも、私が調べた範囲内ですが、記述されていません。そのため、内容の正確さについて、やや難があることは事前にご了承願います。
ただし、既に掲載中の「皆同の侍の墓」と違って、なぜ、この地に侍の墓があるのかは、先に概略紹介したとおり、経過は『鳥越・伊理宇の合戦』時に亡くなった侍と分かっています。この時の「侍(武士)の墓」とまでは明確に分かっているのですが、はたして大村側か佐賀側か、どちらの軍勢の墓なのか、そこまでは分かっていないようです。
この時、亡くなった侍は敵味方は別としても、5人の墓や3人の霊がまつってあると言う位牌などは、この古戦場近くの民家近くや民家内にあります。さらに、これ以上書くと想像や推測になりますので、何か史料(資料)などが出てきましたら補足したいとも思っています。
(掲載日:2010年8月11日)
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