皆同の侍の墓
まず、名称について書きます。この墓は、地元伝承で「侍(さむらい、武士)の墓」などと呼ばれてきました。ただし、福重には、これ以外にも例えば今富町、寿古町などにも「侍の墓」とか「武士の墓ではないか」と呼称されているのがあるため、それらと区別するために今回、頭に町名を付けて『皆同の侍の墓』としました。今後、今富町などの同種の墓名にも、そのようにしていきたいと考えています。
この墓の概要について、江戸時代作成の(大村)郷村記とか近代の書籍類にも、私が調べた範囲内ですが、記述されていないため、内容の正確さについて、やや難があることは事前にご了承願います。
地元伝承では
この墓について皆同町の方には「侍が切り死にしたもので、その侍の墓だ」との内容で伝わってきました。現在まで皆同町のある個人宅でまつられてきた関係上、墓周辺はきちんと整備されています。あと、寿古町の増元さんのお話によると、「この周辺で戦国時代に合戦があったと言う記録はない」、「この墓よりも遠い「『鳥越・伊理宇の合戦(とりごえ・いりゅうのかっせん)』はあったが、距離がありすぎると思う」、「なぜ、この場所に侍の墓があるのか不明だ」とのことでした。
上記の伝承などについて、直線距離で今富城まで約250mですから、侍と関係あってもおかしくはないのですが、合戦となると話は別です。戦国時代、大村純忠の軍は、今富城やこの墓から約900m離れた『鳥越・伊理宇の合戦(とりごえ・いりゅうのかっせん)』(場所は現在大村市今富町から立福寺町の境付近)を戦いました。
この時、亡くなった侍は敵味方は別としても、5人の墓や3人の霊がまつってあると言う位牌などは、『鳥越・伊理宇の合戦』古戦場近くの民家近くや民家内にあります。このように古戦場近くに墓などがあるのは、ある面当然のことだと思えます。しかし、この古戦場から皆同の侍の墓までは直線でさえ約900m、道路で歩くなら1.5km近くにもなります。
そのような距離間と古戦場近くに「今富の侍の墓」がある関係上、この『皆同の侍の墓』と、『鳥越・伊理宇の合戦』と関係あるのか、やはり疑問が残るものです。今富城周辺には、真横にあった白水寺が含めて、大村氏関係含めて全体の墓基数は不明ながら侍の墓がありました。大村氏関係の墓は、「天正2年(1574)キリシタンによって壊され、墓をあばき、遺骨は郡川に流された」と、(大村)郷村記に書いてあります。
ここからは、上野の推測ですが、大村氏関係や他の侍の墓は、これだけだったのかと言うこともあります。また、遠い所からわざわざ遺骸を郡川横の、この場所に運んできたと考えるのも、やはり難があるとも思えます。別の考え方をすれば、キリシタンが墓をあばき骨を流した、つまりキリシタンの弾圧攻撃(1574年)以降に建てられた侍の墓とも考えられますが、これ以上は特定的な推測になりますので書かないことにします。
結局のところ、この侍の墓石には文字などもないようですから、「誰なのかは、どこからきたのか、不明」と言わざるをえません。しかし、場所的には今富城周辺にある関係上、それらに関係した武士の墓ではないかとの推定しか言えません。あと、ここにある3基の墓や周辺の状況は、後世に再建立や再整備された可能性もありますが、けっこう他の自然石の墓などに比べたら規模が少し大きな感じには見えます。
(掲載日:2010年8月8日)
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