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二代目深沢義太夫が築堤、赤似田堤(野田町)
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江戸時代の福重、士農工商
江戸時代になりますと、大村氏が大村に移ったことにより、福重は大村藩最大の農業地帯に戻ります。好武城・今富城は廃城となり、庄屋・農民の居住地となります。
農業に頼る江戸時代においては、米のとれ高が最も重要です。福重でも堤(ため池)を築いたり、用水路を整備したり、湿地・山間地の開墾をしたりと、努力が注がれました。
二代目深沢義太夫が本倉堤を築き、本倉新田の開発を進めたのは江戸時代初期の1679年からです。(野岳堤は初代の深沢義太夫が1663年に完成させました。)
<補足>
赤似田堤(あかにたつつみ)は、福重地区最大の堤です。築堤は二代目深沢義太夫が江戸時代初期の寛永年間(1624年〜1643年)に作ったとの伝承が地元にあります。なお、この地域だけでは水が少なかったため、築堤後江戸時代に隣の重井田郷の佐奈川内川(さながわちがわ)から約2kmにわたって井手(用水路)を作り水を引きました。
この井手工事は、取水口の佐奈川内川と赤似田堤側と、ほとんど高低差がないため難しい工事の連続だったと地元に伝えられています。さらにその後、赤似田堤は、戦前(1940年頃)5尺(約1m50cm)の土手のかさ上げ工事がおこなわれ、飛躍的に貯水量が増え、おかげで灌漑面積も大きく広がりました。
なお、この赤似田堤の水は、さらに約2キロ、主に野田町の井出を通って最後は、今富町の田んぼまで流れています。佐奈川内川の取水口から通算すると、約4キロ流れて各田畑を潤していると言う訳です。
5つあった本蔵の堤は、(5箇所全部一緒の年に出来た訳ではないと推定しますが)、「本蔵の新田開発は延宝七年(1679年)」との記述もありますので、本蔵の5つの堤は、この年代頃に出来たことは事実です。現在も、3箇所までは確認できますが、残念ながら、戦前の空襲により、江戸時代に新田開発された田んぼとともに2箇所は破壊されたと聞きました。
米の収穫高
江戸時代初期の元和3年(1617年)の村高(米の収穫高)は次のとおりです。
郡 村
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4062石
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大 村 |
3144石
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鈴田村 |
1060石
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三浦村 |
855石 |
萱瀬村 |
317石 |
郡村の中でも福重の生産力が優れていました。水田面積が広かっただけではなく、農耕地としての先進性、人口の集中もあったのです。(竹松は畑の割合が高い)
福重は、郡村の中の福重村・今富村・皆同村として、或いは3村合併した福重村として栄えました。
郡村3か村の人口などの概要を示します。(江戸時代末期の数字)
江戸時代、郡村(福重、竹松、松原)の人口及び商工業者数など
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村名
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戸数
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人口
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馬数
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武士数
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麹屋
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染屋
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鍛冶屋
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豆腐屋
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紙屋
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酒屋
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綿屋
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質屋
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水車
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福重 |
667
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2421
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236
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107
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9
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10
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3
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11
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14
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1
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-
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-
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-
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竹松 |
705
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2528
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167
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54
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-
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-
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2
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8
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13
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-
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8
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1
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3
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松原 |
410
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1505
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96
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37
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-
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1
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17
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10
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-
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1
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-
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-
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1
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注:1 福重は武士数が多いのが目立ちます。大村藩では禄米ではなく、田(知行地)を支給される家臣が多かったので、水田の多い福重には武士が多かったと思われます
注:2 商工業者数では福重には他に蝋〆1、村医が1人いました。松原はさすがに鍛冶屋17軒が目立ちます。
<補足について、『堤の里』>
上記に書きました通り、江戸時代には、盛んに新田開発、そこ田に水を供給するために堤(溜池)の築堤がおこなわれました。大村郷村記に書かれてある総ての堤が江戸時代に出来たと言う訳ではありませんが(中にはそれ以前に築堤済みもあると思われます)、福重村だけで合計55箇所の堤名が記されています。
中でも多いのが、野田郷(現在の野田町)で、赤似田大堤、石坂上堤、本蔵上堤、高野堤、大村田小堤など合計21箇所の堤が記載されています。大村郷村記に記載されている内容も、堤の縦横の長さ、高さ、灌漑面積など詳細に書いてあります。
私が、今回調べたところ、その後道路工事や田んぼの基盤整備などでなくなった堤もありますが、現存している田んぼも、この内15箇所ほどありました。写真撮影もほぼ終わりましたので、いずれ、大村郷村記に記された堤と現存の堤の対比が出来れば、『堤の里』シリーズか何かで、まとめて掲載しようと考えてもいます。(掲載日:2005年2月1日)
(関係関連ページ) ・『江戸時代、定め石』
<参考ページ紹介>
<・参考文献、参考資料一覧は、ここからどうぞ>
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